民間ボランティアの意味

活動の拠点とした石巻ボランティアセンター(石巻専修大学)の近くに総合運動公園があり、その広大な敷地が自衛隊の駐屯基地となっていました。他にも消防なども入っていたと思いますが、敷地一面自衛隊の黒っぽい緑(オリーブドライブ)の車両が並んでいます。ボランティア活動に出向くにはその周辺の道路を通らねばならず、その光景を毎日見ることになります。立派で頑丈なテント、大きな発電機や証明、通信用のアンテナ、そうしたものと我々民間のボランティアの民生用の粗末なアウトドア用品やちゃちな車を比べると彼我の力量差というのを意識せざるをえません。

石巻総合運動公園の自衛隊

専門知識や特別なスキルは必要条件ではない

特に医療とか介護、あるいは土木や建築といった専門的スキルのない民間の人間の出来ることなどあるのかなどと思ってしまう人もいるでしょう。結論から言うと、出来る事というか求められていることは広範囲に膨大にあります。我々もやった民家のヘドロかき、家財道具の整理処分はたいへん地味で辛い仕事ですが、今もというか梅雨を迎えようとする今こそ緊要な作業だと思います。下水の回復に時間がかかりそうな中で衛生面でこのままだと大変なことになります。木工屋がわざわざ泥かきかいとかの陰口が聞こえてきそうですが、そうした中でも私たちのこれまでの業務上の経験が確かに役に立っていました(ボランティア活動の概要報告・活動内容)。どんなお仕事であれ真面目に取り組んで来た職業上のスキルやノウハウは、どこかできっと役に立ちます。もちろん主婦・主夫は家事や育児の総合プランナーであり実践者です。被災地では一番貢献出来ると思います。また本当に出来ることがたとえなくても行くことに意味があります。

行くだけで意味がある

たとえとして適切かどうかわかりませんが、あえてあげてみます。私たちが怪我か病気をして入院します。誰かが見舞いに来てくれます。たとえ現金や他のお見舞い持参でなくても来てくれるだけで嬉しいものですね。自分が弱っているとき困っているとき、自分は忘れられた存在ではなく、来てくれる人がいるというだけで本当に励まされます。私もボランティアに入って実際の作業ももちろんですが、たとえばどこから来たかと問われて、三重県からと答えるとわざわざ遠い所からとその事自体に感謝というか本当に感動すらしてくれます。病人が見舞いに来てくれて病状を聞いてくれるだけで嬉しいのと同じです。行くだけで、被災の現状を目撃して被災者の話を聞いてあげるだけでいいと思います。私が認知症の母親の介護の初期、ありがちな物盗られ妄想を発症した母親から連日泥棒扱いされていました。3ヶ月も続いたでしょうか?ストレスがたまり血圧がかなり危険な数値まで上がり辛い時期でした。そんなおり、病状説明などの際ケアマネージャーさんや看護師が、辛かったですね!と一言いってくださるのにずいぶん助けられました。おそらくはそうした家族介護者に対するマニュアルとなっているのでしょうが、本当に助かりました。安易な類推と言われるかもしれませんが、あなたも避難所に行ってなにも出来なくても、被災体験や避難所での不自由の訴えに黙って聞き入り、辛いですね!と声をかけるだけでもたくさんの人の力になれるでしょう。

物見遊山で良い

お叱りを受けるのを承知で、あえて不埒な言葉を使っています。同じ日本のある広範な地域で起こった事態とその後の状況を、やはり一度は自分の目で見ておくべきです。特に若い人は、これから何十年か日本の歩みはこの現実を抜きにしては考えられません。皆が皆、大きな事を語る必要はありません。たとえば復興財源が話題になるとき、自分が見た被災者の涙やうかがった話を思いだし、目の当たりにした沿岸の被災の状況が青森から茨城・千葉まで500キロも続く事を思い浮かべるなら、テレビのキャスターや新聞の論調の受け売りをしているくだらないオッサンやオバサンとは違う観点が持てる、持たざるを得ないでしょう。詳しくは触れませんが、エライ学者やテレビのキャスターのように大名行列のように全部人任せで入るのではなく、交通手段から燃料、食料や寝場所を探して現地に入ることで見えてくる被災の別の面もたくさんあります。それに、いったん現地に行ってその惨状を見たら居ても立ってもいられずにボランティアセンターに駆け込んで仕事を求めることになると思います。

被災地に行こうとする人の邪魔をすることだけはやめよう

ボランティアに行く前から、また帰ってから何人の私も本当は行きたいに会ったでしょう。またそうした記述のブログもいくつ見たことでしょう。

私も被災地にとんでいきたいくらいだ。だが・・・・・・。だから今は義援金を寄付することくらいしかできない。

この・・・・・・には、もっともらしい色々な文言がはいります。

今は行っても逆に被災地に迷惑がかかる

→ さて、あなたの心配していた頃とは状況が変わりました。さあ今こそあなたの出番ですよ。なぜ行かないのですか?

今は自衛隊や消防など救援のプロにまかせるべきだ

→ あなたは何のプロですか?木工屋さん?○○屋さん?避難所での生活が1ヶ月を超える中で、瓦礫の除去やライフラインの整備以外にも、避難所であなたのプロとしての技を求めている人はたくさんいますよ、きっと。不思議ですね、なぜいかないのですか?

・・・・・・にはいるもっともらしい理由はいくつでも思いつくでしょう。

私は、皆が皆現地へ行けとは言っていません。家族や職場を守る、また今の仕事を一生懸命やりとげることで日本の復興の下支えをする。これはきわめてまっとうな考え方です。多くの人は様々な報道に接しながら、頭を垂れてそう思って働いていると思います。(ただ、中国の文革時の下方のように学生や若い労働者が交代ででも被災地に行ってボランティアをするというのが民間の運動としてやられたりしたら面白いなとは思います。)ただし、そうした多くの善意の人は私も行きたいと本当は心から思っても、じっと噛みしめているはずです。私はそうした真面目な生活者、職業人を尊敬しています。

上にあげたような今は迷惑だとか自衛隊に任せて・・・とか主張する人は、本当は自分が行かない理由を探しているのです。でもそれが、面倒だからとか、危なそうだからとか、お金がかかりそうだから、では格好が悪い。それで、私は今すぐ現地に飛んでいきたい熱いハートを持っているんだ。だが、今は行っても迷惑だから行かない・・・となるのでしょう。ただそうして自分だけ納得していれば良いのに、この人たちはボランティアに向かおうとする意欲を持った人たちにお説教を始め、その足を引っ張ります。この迷惑論は、震災直後からしばらくの間ずいぶん広く流布したように思います。ただし多くのデマと同じでそのソースがはっきりしません。少なくとも被災者や救援活動に直接あたる人の言葉として報道された記憶はありません。迷惑論を主張する人に、そのソースは何だ?どこから聞いた?と尋ねるとたいていは口ごもります。ようするに自分を合理化する風説に乗っかかって、また広めるというデマやチェーンメールと本質は同じだったと思います。私がそのことに気がついたのは、杉山裕次郎さんの震災ボランティア隊を結成して被災地に行くという記事を読んで、自分も行くと決めてからです。それまでさしたる根拠なく頭にあって自分を変に納得させていた迷惑論がすっ飛んで、現地からの報道の見方・聞き方が一変しました。被災者の声は悲鳴ではないか!なぜお前にはそれが聞こえなかったのだ。だれが迷惑だなんて言っているんだ?

江頭2:50さんが、いわき市の介護施設に物資を届けた動機について、NHKの報道を見ていわき市から助けを求める声が聞こえてきたとおっしゃっていました(「江頭2;50のピーピーするぞ!」第135回 東日本大震災)。てれもあってか独特の言い方をされていますが、その時の心境はよくわかります。エガちゃん!助けて!という声が、本当に心の中で響いたのでしょう。江頭さんは他の地道な活動を行っているボランティアに対する賞賛や風説に対する批判など適切で真面目なコメントをしてます。私が行った頃は福島原発のメルトダウンが現実の可能性として考えられたし、余震もまだ頻発してました。正直に言うと多少やばいかなあという思いもありました。それでも石巻にはそうした風説にかかわらず既に現地に入っているたくさんのボランティアの若い人が集まっていました。やはりこの国の将来は、様々な風説や障害にもかかわらず自分の思いに忠実に行動する柔らかい頭と良く動く体をもった若い人のものだと思いました。我々中高年は、自己防衛のためもあって自分の不作為や怠慢を合理化して納得させるような思考回路を知らず知らずに身につけてしまっています。残念ながら私もそうしたいやな大人の一人になりました。でも、それで自分一人ひそかに納得するのは別にかまわない。ただ、若い人の意欲や、意志や、行動を邪魔したりそれに唾するようなことだけはさけたいと思います。


被災地に赴いてちょうど一ヶ月が過ぎました。ライフラインの復旧などは徐々に進んでいるようですが、まだ一万人を超える行方不明者が存在しており、避難所での生活も続いています。一方で、私のこの拙い場末サイトの震災関連記事でもボランティアに参加しようとする人へは、今はもう内容的に若干古いところもありますが、連日100を超えるアクセスがあります。それだけボランティアに赴こうとする人がいるという事でしょう。私自身は今はもう一度現地に行く広い意味での体力がありません。しかし、もう少し長い目で見た支援の仕方で計画している事もあります。またその際はあらためて報告したいと思います。

とりあえずボランティア活動の報告に関する記事はこれでいったん区切りとします。

若い同志
それじゃきくが、古典理論家達は悲惨がまちかまえていても目をつぶって我慢するのか?
3人のアジテーター
古典理論家たちは、この悲惨を全体としてとらえる方法について語っているのだ。
若い同志
それじゃ古典理論家達は、ありとあらゆる悲惨にたいして直ちに何よりもさきに救いの手をのばすことには反対なのだね?
3人のアジテーター
反対だ。
若い同志
それならそんな古典理論家は屑だ。

ベルトルト・ブレヒト/岩淵達治訳 『処置』

4月22日 少し前に55歳(昔なら定年退職)になりました。この事態になかなかついていけません。