福岡県朝倉市に行っています

連れ合いが、一昨日から福岡県朝倉市に泥出しのボランティアに行っている。送ってきた画像を見ると、まだ大量の土砂がほとんど手付かずで残されている。今日は、土曜日でそれでもたくさんのボランティアが入っているとの事。一緒に作業しているメンバーの集合写真を見ると、熊本でお世話になった人たちのお顔がちらほら。その中で、私のブログで写真を撮らせてもらった益城町の倉本園芸の人が、今度はボランティアとして来ているそうだ。困っている人、弱っている人を助けるのは、同じく弱い立場にあって志しを持った人と生活とか経験とやらにくたびれていない若い人なのだ。

連れ合いがiPadで撮った朝倉市の様子


同じく、家の中はこんな状態との事。

益城町 2 木造にダメ出しする前に色々考えたいとは思った

益城町、28号線沿いのK園芸さんの木造倉庫。大きく傾いているが、なんとか倒壊はまぬがれている。

益城町 28号線沿いのK園芸さんの木造倉庫

益城町 28号線沿いのK園芸さんの木造倉庫

おそらく建て増しした部分の胴差と柱の接合部分。差し違いの2枚ホゾになっている。一方のホゾが折れているが、なんとか抜けずにいる。

増築部分の柱と胴差の接合部。一方のホゾが折れながらなんとか持ちこたえている。

増築部分の柱と胴差の接合部。一方のホゾが折れながらなんとか持ちこたえている。

本梁に、2間の梁2本を掛ける。大入れのおそらく蟻掛けが、縦揺れのためか外れかけているが 、持ちこたえている。

倉庫内の本梁と梁の接合部。構造的に、もっとも重要な部分だと思われる。

倉庫内の本梁と梁の接合部。構造的に、もっとも重要な部分だと思われる。

上の接合部。

上の接合部。

この倉庫は、筋交いも火打ちも、まして耐力壁もない木造2階の軸組の建物だが、2回の震度7の揺れにも、こうしてなんとか倒壊せずに持ちこたえている。

今回の地震でも、木造建築の耐震性能が問われる事になると思う。実際に多くの木造住宅が倒壊して人が亡くなっている。その倒壊の仕方の多くはは、2階建の住居の1階と2階の間の胴差とか腰桁と呼ばれる横架材と柱の接合部分から柱が折れて(あるいは桁やが抜けて)、1階部分を2階部分が押し潰すような形になっている。

益城町の崩れた木造住宅。

益城町の崩れた木造住宅。

今の耐震診断では、木造のこうした柱と梁・桁の接合はピン接合として扱われているのも、こうした現状では仕方ないのかもしれない。ピン接合というのは、柱と梁・桁が点で繋がっている、もっと平たく言えば積み木のように上に乗っかかっているだけと想定されている。対して、鉄骨造とか、RC造の場合は、枠(ラーメン)として柱や梁は一体の構造物として強度を図られる。だから、木造の場合どれだけ立派で入念な造りがなされた建造物であろうと、見かけ上筋交いや火打ち、不細工な耐力壁がないと倒壊の恐れのありと判定されてしまう。


人の命に関わる問題なので、いい加減な事を語ってはダメだとは認識している。ただ、古い木造だと言ってそれを建てた大工の腕とか経験・知見、その造りの入念さや精度を無視して、一律に筋交いだ、耐力壁だと耐震の問題を一元化してしまうのはどうかと思っている。それに、筋交いとか耐力壁、それに不細工な接合金具を使用する家は、必然的に柱や梁をボードなどで隠した大壁造りの家になる。構造材の腐朽とかシロアリの害とかは、かえって発見しにくくなるし、空気に触れない分腐朽しやすいだろうし、材の痩せに対して金具の増す締めとかはどうするのだろう。今回も、剥げたモルタルの蔭で、腐った土台や柱の住宅を複数見た。

木に携わる仕事をしている人間として、木造住宅や構造物が一律にダメ出しされているのは、やはり悲しい。それに、それに対する対策が、筋交いや耐力壁に集約されているのも実は危険だと思う。こうした発想は、木造=ピン接合という機械的発想から導きだされるのだろうが、プレカットのない時代の大工が構造に合わせて刻んだ仕口には枠(ラーメン)構造とまではいかないまでも、それに準じた耐力がある。K園芸さんの倉庫は、それを見を持って示しているように思う。

益城町

2日目の午後は、震災の被害がひどかった益城町に向かいました。声掛けと食事・飲み物の提供を続けている女性ボランティアの人たちに案内されて、現地を廻らせてもらったという感じです。現地で知り合えた被災者の親族や人づてに、または通りから離れて人目につきにくいテント生活の高齢者を訪ねては、声掛けをして要望を聞き出す。こうした地味で、でも本当に必要とされている活動を連日されているのは、本当に素晴らしいことだと思います。

熊本市から28号線を通って、益城町に入る辺りから倒壊した家屋が目に入り、市内とは明らかに様子が変わります。拠点のように使わせてもらっているという 閉店したコンビニの駐車場に車を置いて、村内を回ります。特に28号線の南側は倒壊している建物が多く、余震の関係もあるのが、そのほとんどが手付かずの 状態です。

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このお宅は、材木商のご主人が建てたもので、入り母屋造りの二重屋根の辺りの中でもひときわ立派なものです。

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比較的古い立派な造りの家が倒壊している隣で、震災に弱いとされる簡素な木造モルタル造りの家が建っている。私の半端な20年前で止まっている知識では、理解不能です。

このお寺では、本堂が倒壊。脇にある納骨堂と思われる蔵も傾き、中の納骨棚も倒れ、骨箱が散乱しています。昨年、津市のあるお寺の納骨棚を作らせてもらったこともあって、私にはショッキングな光景でした。転倒防止金具をつけたとしても、堂そのものが倒壊してしまえば意味がありません。

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熊本2日目

昨日、熊本洋学校ジェーンズ邸として載せた画像は、天理教の神殿でした。ある目的があって、その瓦礫の廃材を手に入れたかったのです。朝の6時に現場に行って作業員の人に、ここはジェーンズ邸か?そうであれば瓦礫の中の廃材を欲しい旨伝える。怪訝な顔をされて、ここは天理教の神殿だと言われる。どうりで天理教の名を関した人たちばかりだと思った。それにしても、どうみても本格的な重機もそろえた本格的な建築チームが一宗教団体で集めることが出来るというのはすごいことだと思いました。

あらためて、外に出て散歩中の人に尋ねて行ってみたジェーンズ邸は、既にブルーシートに覆われていました。

 

 

ブルーシートに覆われたジェーンズ邸の瓦礫

ブルーシートに覆われたジェーンズ邸の瓦礫

熊本初日

今回、お世話になっている熊本聖三一教会の近くの水前寺公園辺りを、早朝に散歩してきました。

熊本洋学校ジェーンズ邸

熊本洋学校ジェーンズ邸水前寺公園近くの天理教の神殿

明治4年建設の熊本洋学校ジェーンズ邸は、瓦礫の山になっていました。
天理教の神殿でした。

水前寺公園の能楽堂

水前寺公園の能楽堂

公園内の能楽堂は、外見からは無事のようです。

このあと土砂災害のひどかった南阿蘇村へ。

熊本に来ました

熊本空港。搭乗した飛行機

熊本空港。搭乗した飛行機

熊本空港着。天候不良(視界不良)とのことで着陸やりなおし。上空で30分ほど待機して、結局1時間ほど遅れる。福岡空港に廻るかもしれないとアナウンスがあったので、まあ着けただけで良かった。

熊本空港に来たのは20数年ぶりになる。この前はサラリーマン時代で仕事だった。その頃に比べて、随分小ぎれいになったが、山の中の空港というイメージは同じ。市街地に入ると、所々、屋根にブルーシートがかけられた家が目に付くが、道路は普通に乗用車で渋滞している。少なくとも県庁周辺は被災地という雰囲気は感じられない。

想定外は、言い訳にならない 熊本の震災について

熊本で地震のあった14日から、何が出来るわけでもないのに、しばらくはテレビのニュースを見ていました。16日の本震の後に、倒壊した家屋や集合住宅の映像を見ると、やはり21年前の阪神淡路大震災の事が思い出されます。

まず感じたのは、住宅や構造物が21年前と同じ壊れ方をしているという事です。特に、1階が店舗とか駐車場になっている鉄筋コンクリート造の中層の集合住宅の壊れ方は、あの時、私がたくさん見せつけられた状況そのものです。駐車場の柱が座屈して、2階部分がだるま落としのように、地上近くまで落ちたマンション。店舗部分の柱が折れて、全体が大きく傾いたマンション。その中で、座屈した柱をクローズアップした映像がありましたが、茶筅のように、湾曲して飛び出した主筋の鉄筋がいかにも細い。25ミリないのではないか?まさか柱の主筋に22ミリ以下を使うか?それに異型鉄筋ではなくて、プレーンバーのようにも見えた。それに数自体も少なそうだ。

この熊本の映像にあったものは、実際に目にしたわけではありませんので、いい加減な事は言えません。ただ、21年前には、上に書いたようなものを、西宮で、芦屋で、神戸で散々目にしました。そして、その後、叫ばれてきた耐震補強とは一体なんだったのか。木造の戸建て住宅に筋交いや補強の金物を施す事が主眼で、こうした古い、さらに言うと手抜きで施工された鉄筋コンクリート造の耐震診断とか、補強はなされてきたのだろうか。

さらに、21年前の震災の後では鉄骨プレハブ作りの建物が震災に強い・強かったと喧伝されました。それもあってか、従来の木造軸組に代わって戸建てのプレハブ住宅や、○○ハイツと称する2階建ての集合住宅が増えたように思います。後者は、いたる所で目にするようになりました。学生向け、あるいはこの近辺では非正規の派遣労働者向け寮として使われているようです。今回の熊本に地震では、こうしたプレハブ造りの建物も倒壊しています。南阿蘇村では、2人の学生が亡くなっています。こうした安手のプレハブ造りが、喧伝されていたような耐震性を有していたのか、これも疑問に思います。

今回も、二日の間に2度の震度7の本震に相当する揺れがあったという想定外がキャンペーンされています。不可抗力を強調することで、本来は問われるべき責任を曖昧にしてしまうのです。21年前は、古い耐震基準というものが、責任回避の題目にされていました。しかし、私が当時現地を歩いて、目にしたものはそうした高尚なレベルの問題ではなくて、明らかな施工不良、手抜き工事の数々でした。一番ひどいと思ったのは、山陽新幹線の高架橋でした。震災の二日後だった思いますが、当時の会社の高齢の顧問の安否確認も兼ねて、西宮の仁川に向かいました。阪急西宮北口で降りて、今津線沿いに北へ向かったのですが、門戸厄神の駅を過ぎて目にしたのは、山陽新幹線のもろくも破壊された橋脚と落ちた橋桁でした。ざっと見回して武庫川の西側のあの近辺では、まともに残った高架橋はなかったと記憶しています。武庫川に架かる橋梁も潰れていました。尼崎と西宮の間を流れる武庫川には、他にも山陽本線、阪神、阪急の私鉄や高速道、一般国道など多くの橋梁が架かっていますが、山陽新幹線以外はすべて無事でした。新幹線のすぐ南を走る阪急電車などは、震災の翌日から西宮北口までの運行を開始して、私もそれを利用しました。神戸まで歩く事を考えるとずいぶん助かりました。明治から戦前にかけて基本的な構造が作られた山陽本線の橋梁が無事で、1960年代につくられた新幹線の橋脚が潰れているのです。

実は、そのすぐ後に、この新幹線の武庫川橋梁の補修工事に、私自身も鉄筋の供給・加工のメーカーの担当として関わる事になります。それが、サラリーマンとしての最後の仕事になったのですが、その事は、やはりまた別に書きます。忸怩たる思いで、社内報に書いた報告記事は、昨年このブログで転載しました。

神戸 20年前に社内報に書いた被災地の報告

土建屋や役所が、原因と責任の所在を曖昧に、かつ隠匿して、その情報を公開してこなかった。なら、私たち末端の民間の人間が、業務上知り得た情報に関する守秘義務云々にこだわる必要もありません。

4年目の3.11

4年前の今日は、穏やかな日差しも暖かく、春の到来も間近と思わせました。地震のあった時、私は工房の2階にいて大きな横揺れを感じて、船酔いのような状態になってしまいました。すぐにただならぬ事態を予感してテレビをつけました。

それから、10日ほど後工房悠の杉山裕次郎さんらと共にたどり着いた被災地・石巻市は今日のように雪の舞う日もある刺すような寒さの中にありました。その地で、水も電気もない状態でヘドロと汚水と重油にまみれた幾日かを過ごします。

初めて訪れた石巻市街地。露出もピントもデタラメな汚れたフロントガラス越しのこうした写真が、かえって今は当時のおののきを現しているように思います。

初めて訪れた石巻市街地。露出もピントもデタラメな汚れたフロントガラス越しのこうした写真が、かえって今は当時のおののきを現しているように思います。 RICOH GXR P10

今、思い出しても50余年生きてきた中で、あんなに人に感謝をされ、心からのお礼の言葉をかけられたことはありません。逆に言うと、それだけ切実に援助が求められていたのだと思います。行ってよかったし、行くべきであった。それにこれからも、もし同じような悲惨と災難があれば、もう一度蛮勇を奮って、さらにガタの来はじめた体を引きずって出向こうと思っています。そんな事にならないのが一番なんですが、もうひとつ、自分の親のような世代の人に、決して頭を下げさせてはいけない。それは震災下という状況であっても社会の欠陥であり理不尽ですらある。「安全」が誰のためのものか?あらたな災害が確実視される中で、ひたすら自衛隊を外の戦争に送り出すことばかりに腐心していてよいのか?あの事(被災地であった老婦人)を思い出して、人に語ろうとすると今でも声が震えて涙目になってしまいます。それで、震災ボランティアに行って感じた一番大事と思うことを直接伝えられないもどかしさがあります。


短期集中木工修行中の芸大生が、修行を一旦中断して、青春18切符で東北を旅行するそうです。遊びで出掛けていいのだろうかと言います。オッサン、オバハン、年寄り連中があれからもノーテンキに海外などに出かけるのに比べれば、あなた達若い人が今のこの時期に東北に行こうとする志がある、それ自体がすばらしい事だと思います。