「新型コロナウイルス肺炎」と呼ぼう

WHOは、2月11日今全世界に蔓延しているウイルス性肺炎をCOVID-19( CoronaVirus Desease 2019 コビット19)と名付けました。ウイルス自体はSARS-Cov-2(サーズコロナウイルス-2) となります。

このCOVID-19というWHOによる命名はよく考えられていると思います。チャイナウイルスとか武漢肺炎とか発生地とされている地域や国名を冠した呼称を使う品性下劣な政治家が内外にいました。疾病や事故・事件などに地名を絡める無神経がいかに多くの差別や偏見を生み出してきたことか。四日市に生まれ育った私は身をもって経験してきました。出身を話すと、いまだに喘息は大丈夫かとか体はどうかと聞かれます。今、そしてこれからこうした差別に最もさらされているのは福島県在住・出身者です。リベラルを気取る無神経で無分別な人たちはわざわざカタカナにしたフクシマという言葉を好んで使っています。その品性はドナルド・トランプや麻生太郎と同じですが、この点はまたあらためます。ひとつだけ、私は東京電力福島第一原子力発電所事故、略する場合は東電原発事故と呼んでいます。フクシマという言葉は事故の責任主体を曖昧にして何かしら放射能汚染を地域の風土病のように思わせる差別を助長しています。

もうひとつ、このCOVID-19( CoronaVirus Desease 2019 )という名称がよく考えられていると思うのは、”disease”(疾病)として、” infection”とか”infectious disease”(感染症)ということばを使っていないことです。WHOによるCOVID-19( CoronaVirus Desease 2019 )という名称については、国内の役所や報道機関などでも様々な訳で表現されています。

  • 新型コロナウイルス感染症 厚労省、日本医師会、東京都、大阪府、三重県ほか
  • 新型コロナウイルス関連肺炎 日本薬剤師会、JALほか
  • 新型コロナウイルスによる肺炎 朝日新聞
  • 新型コロナウイルス(新型肺炎) 毎日新聞
  • 新型コロナ(ウイルス) 読売新聞、中日新聞
  • 新型コロナウイルスに関連した肺炎 奈良県他自治体

この疾病の呼び名で肝要な点は、感染という語句を使うか否かにあります。WHOが、あえて”infection”(感染)という文字を外して命名した意図をどう汲み取るかということでしょう。地名や動物の名前(とかトリとか)がそこに住む人やたずさわる人への差別や偏見、不利益を生み出す。感染という言葉も同じで、感染してしまった人やその治療にたずさわる人にも同じ目が向けられます。今回の新型コロナウイルス肺炎に関してもすでに差別事件があちこちで起こっています。

それでもこの肺炎の拡大前や初期の段階では、その感染拡大を恐れさせ防ぐためにあえて感染症というWHOによる命名にない言葉を使うことにも意味があったかもしれません。しかし、もうその時期は過ぎました。それにサカリのついた若者はやはり町に出ていましたし、タダ酒の旨みを覚えたオヤジたちは夜の街に繰り出していた。残念ながら社会に一定数の割合で存在するこうした人ばかりにかまっていられない。これからは、社会をあげて治療に取り組む医療関係者を応援して少しでも働きやすい環境を作ることが肝要になります。逆にその医療従事者の頭を後ろから殴るようなまねをさせないためにも、誤解と差別を生み出しかねない感染とか感染症といった言葉の使用は避けるべきだと思います。

あなたの地域に「感染症指定医療機関・病床」がいくつあるかご存知ですか?

新型コロナウイルス(による)肺炎の話題は取り上げないと決めていました。素人が憶測やテレビや新聞のコメンテーターの受け売りで情報を垂れ流しても、結局はフェイクニュースかデマになりかねません。 しかし、誰でも分かる事実には目をむけねばなりません。いくつか気になる点について書きます。

緊急事態宣言は感染の爆発と医療崩壊の引き金にならないか?

今夜にでも緊急事態宣言が発せられると伝えられています。そうするとまず首都圏、それに関西地方の大学生たちの脱出→帰省が一斉にはじまるかもしれません。授業がない、あるいはオンライン授業なら東京や大阪に留まる必要はありませんし、都市封鎖の噂なり憶測が流れ食品や生活必需品の買い占めが始まれば早いうちに脱出してしまえとなるでしょう。恐ろしいことです。

都市から地方に帰省した彼ら彼女らのある割合の人たちは自粛などしないでしょう。そうでなくても家には生活をともにする家族と濃厚接触します。なかには高齢者・幼児もいるでしょう。都市とくに東京での感染者の数字などはやはり実体とかけ離れていると考えざるをえません。そうすると無自覚・無症状な感染者が全国に一斉に散らばることになります。彼ら彼女らは集団感染の発生源となっていくでしょう。たとえは悪いかもしれませんが、ペスト菌に感染したネズミの群れを一斉に野に放つようなものです。これまで感染集団を特定し感染者をたどり洗い出す地道な対策も吹き飛ばしてしまう。なぜいまのタイミングでの非常事態宣言なのか。

感染症指定医療機関・病床の数は驚くほど少ない

皆さんのお住いの地域にいくつの感染症指定の医療機関・病床があるかご存知でしょうか?下にリンクを置いておきます。私の暮らす三重県では第1種感染症指定医療機関は1、病床は2。第2種感染症指定医療機関は結核指定医療機関もふくめて10、病床はわずか22です。これに結核病床が72あります。結核病床を転用することが可能としても合わせて100足らずです。複数の感染集団が発生し、まじめに検査をすればたちまちパンクしてしまうでしょう。私の父親は晩年結核を患い結核指定の隔離病棟にしばらく入院しておりました。減圧室で入り口は2重になっています。入室には今回話題になったN95という特殊なマスク着用が義務付けられます。感染症指定病院・病床というのも同様の設備が必要だとすると、そんなものがすぐに準備できるとは思えません。次善の策としてニューヨークのように野外の公園に臨時の専用病院を設けるしかないとも思われますが、それにしても準備が必要です。武漢で突貫工事での病院建設を嘲笑していた人はその不明を恥じるべきです。他の国のことを医療崩壊云々と他人事のように見ていた私たちは大きなしっぺ返しをくうでしょう。

寺田夏子の墓 2

寺田寅彦の墓は高知市北部のわかりにくいところにあります。観光案内にも出ておりません。中土佐町の寺田寅彦先祖の墓なるものがネット検索でヒットしますが、別のものです。某検索エンジンのマップなど示せば簡単でしょうが、私は嫌いなのでやりません。アナログに自分でウロウロしながら、時に道を間違って遠回りするのもたまには良いでしょう。回り道した分その土地の雰囲気など伝わるものがあるでしょう。目印の画像を貼っておきます。ドラッグフォン(麻薬電話←わたしはスマホをこう呼んでいます)の液晶から目を離して顎をあげて探してみてください。

寺田家墓の案内表示

グリーンファーム前の信号交差点北側にある案内表示

県道44号線(高知北環状線)という道路でグリーンファーム一ツ橋店を目指します。道路の南側に面してあります。その向いに動物病院があってその信号交差点に案内の標識があります。そこを北に向かって歩きます。

電柱にある2番めの案内

電柱にある案内表示。ここを左に折れる。

しばらくすると非常に分かりくく見落としてしまいがちですが、電柱に案内の標識がくくられています。そこを左におれて狭い路地を行くと、今度は王子神社の手前・民家の際に比較的見やすい標識があります。

ここからしばらく山道を登る

そこから山道を歩いて登ると高知市教育委員会の看板があります。近辺は道幅も狭く駐車スペースはありません。また山全体が墓地公園のようになっており、寺田家以外のお墓もあるようで、実際にお参りに来ている人もいましたので、その点もよく心得ておいてください。

寺田家の墓。手前が父・利正の墓

寺田家の墓。手前が父・利正の墓

寅彦と3人の妻の墓が並ぶ

手前、寅彦の墓と3人の妻の墓が並ぶ。隣奥に夏子の墓がある。

写真は、手前から寅彦の父・利正、母・亀、寅彦、夏子、寛子(2番めの妻)、しん子(3番目の妻)の墓。男(家長)の墓が女(妻)のそれより随分大きい事に時代で済まされない違和感もっというと嫌悪感を感じます。ただ妻たちの墓もちゃんと独立して設け名前も刻んでいるのは当時のこの地方の習俗からみてもどうなんでしょうか。後で見ますが夏子の埋葬は神式で行われたようなので、土葬されたのかもしれません。そうするとここに葬られた6人はそれぞれ土葬され後にその上にお墓が立てられたようにも考えられますが、それは私の根拠もない想像です。

この墓地を1936(昭和11)年3月31日に訪れた時の事を科学史家の矢島祐利が書いています(「先生の墓」『寅彦研究』 昭和11年版・寺田寅彦全集月報第4号)。この時は寅彦の姉が案内をされて、道中いろいろな話を聞いたとあります。

田の中の道を四五町行くと山の麓へ出る。其の山裾を僅か登ったところに先生の墓がある。南向きの山裾であるから、此処から高知の町がよく見える。立派な生垣をめぐらした静な好ましい墓である。眞新しい墓標の前に持ってきた花を捧げて額づいた。

寅彦がなくなってまだ三ヶ月足らずのことで、もうすでにこの頃には、最初に埋葬された夏子の他にも両親、それにやはり早世した二番目の妻の寛子もここに埋葬されていたはずです。同じ矢島祐利が一年後にあらためて墓地を訪ねた時に山裾から墓所を見上げるように撮ったという写真がある(「土佐紀行」『寅彦研究』第8号・昭和12年5月)。古い素人(矢島自身による)写真でわかりにくいが、周りの灌木や草もきれいに狩られめぐらされた生垣がはっきりと見える。これならば確かに墓地からも高知の町がよく見えたことと思います。

それが現状(2018年)では、写真に示すような状態になってしまっています。 墓石は白いコケに覆われ、もう何ヶ月も前に供えられた花は朽ちてそのままになっています。生垣らしきものもすでになく、雑草と灌木がせり出して眺望も良いとは言えません。

寺田家墓地より高知市内の眺望

寺田家墓地より高知市内を眺める。草や灌木が茂りよく見渡せるとは言えない。

寅彦の墓はもう没後二十余年経ったころには世間からは忘れられたようです。1960年8月寅彦の弟子のひとり藤岡由夫が妻を伴ってお詣りされた記事があります(藤岡由夫「寺田先生の墓詣り」『寺田寅彦全集月報』1961年4月)。

裏に墓誌が刻まれているが、二十五年の風雪に荒れて読み難くなっている。(中略)案内をしてくれた人の話によると、都から観光客が時々おまいりに来るそうである。坂本竜馬の墓、寺田寅彦の墓などというのは、すでに、土佐の名所めぐりのコースにはいっているらしい。しかし人の来た足跡が何もないところをみると、たいして大勢の人も来ないのであろう。

私の妻は、先生のお墓詣りをしてから、ひどく憂鬱になった。寺田先生のような立派なかたの墓に、しげしげと墓詣りをしてくれるような親しい人々はまわりにだれもない。(注略)私も妻につられて、いいしれぬさびしさを覚え、先生の面影のなかで、特にさびしげな面を頭に思い浮かべながら、土佐の海岸の観光にむかった。

その後、私たちも海岸にむかった。私は寺田夏子がその晩年を療養という名の隔離生活を送った種崎と桂浜を見ておきたかった。道中、どこでも龍馬、龍馬でマラソン大会の名称にもなっている。他に観光資源を思いつかないのだろうか。桂浜の銅像はひっそり太平洋を眺めている小さいものと勝手に想像してが、なんだか北朝鮮の独裁者親子のそれを思い浮かべるような大きなもので威圧感すら感じて不気味でした。

寺田夏子の墓 1

最近、あまり良い夢を見ません。新型コロナウィルス肺炎の報道を見たり聞いたりしているせいかとも思います。私は、もともと人混みが嫌いで、不要不急などと言われるまでもなく用もなく出歩くことはありません。外で飲むのは嫌いですし、外で食事をすることもほとんどありません。先日、連れ合いの誕生日で市内の某Mホテルでお昼に食事をしましたが、それ以前にはいつ行ったかすぐには思い出せないくらいです。この2年ほどは兼業主夫生活で2日か3日に一度魚や野菜などの生鮮食品の買い出しに出ますが、それは仕方がない。郊外型の大型スーパーに車で出かけてまとめ買いをすれば、買い物に出る頻度は減るでしょうが、そうした高炭素消費な生活の仕方は私が最も忌み嫌うもののひとつです。ちなみ歩いて無理なく行ける範囲で、八百屋・肉屋・魚屋を見つけてあります。それに加えて他の商品も販売する公設市場もあります。そうした対面で古新聞にくるんで商品を渡してくれるようなお店がよくぞ生き残ってくれていたと感謝しますが、これで車を捨てても買い物難民になる心配がなくなりました。

私の場合自粛とかいわれても、これまでの生活と今のそれはたいした違いはありません。強いていえばコンサートとか映画とか展示会に出かけていないことくらいか。宗次ホールしらかわホール電気文化会館・コンサートホールも3月からは軒並み公演は中止している。シネマスコーレシネマテークは頑張って上映を続けているし、応援の意味でも出かけたいが、両館ともビルのフロアを使った上映館で密閉・高密度の2密がやはり気になるし、名古屋まで出かける電車のリスクもある。私は、映画やコンサートや美術展にそう頻繁に出かけていたわけではないが、当たり前にそうした場があって何かしら企画があって、そのスケジュールを眺めて物色する。そうした習慣化された日常が、実際に出かけなくても気休めになっていたと今になると分かります。


久しぶりの更新で、読んでくださっている人のせめてもの気休めに新型コロナウィルス肺炎以外の記事にします。書きためて公開していないものに手を入れて、私自身の気休めです。


もう2年前の冬のことになります。その年は強い寒波が2度おそいましたが、その1度目の最中の 1月の24日(水)から27日(土)まで、3泊4日で四国へ行ってきました。その3月で定年となる連れ合いが有給消化でまとまった休みが取れたこともあって二人で出かけました。旅程も費用も相方に任せっきりでしたが、以前から四国に行くなら行ってみたいと思っていたところがありました。

寺田寅彦に『どんぐり』という短い随筆があります。これは寅彦が夏目漱石に推められて『ホトトギス』に発表した初めての文芸作品だそうです。19歳で亡くなった寺田の最初の妻・夏は、身重の体で結核を患います。小康を得た冬の日、近くの小石川公園に出かけたおりの事が書かれています。私はこの「どんぐり」が大好きです。寅彦の切々とした深い哀惜の気持ちが伝わってきます。悲しいだとか、号泣したとかいったよくあるSNSやら三文ブログの定型文のようなものは一切ありません。そうしたものは、亡くなった人を偲び悼むというより、こんなにも悲しんでいるボク・私カワイイと言いたいだけのようで、読まされていると時に不愉快になる場合すらあります。知人の葬儀や告別式に参加した芸能人と称される人の嘘泣きを見せられてしまった時と同じです。

高知市北部に寺田寅彦一家の墓があり、そこには寅彦の両親と若くして亡くなった二人を含む三人の妻の墓もあるとの事。そちらに行きたい。そこで、寅彦により始めと終わりの悲惨であったと書かれた最初の妻・夏子の墓を参りたい。また夏子は結核療養の最後の日々を地元でと呼ばれていた種崎とその対岸の桂浜の集落で過ごしたという。時間があれば、そこも訪れたい。別に坂本龍馬の銅像なんて私はどうでもよい。

お墓は地元で北部環状線と呼ばれる国道44号線の北側の東久万という地区の小高い山の中腹にあります。いまはその際まで宅地が迫っていますが、夏子の埋葬された1905年(明治35年)頃は山裾の静な埋葬地(墓地)であったことでしょう。訪れることはできませんでしたが、ここからさらに山を登ると寺田家の先祖の墓があるようですし、一段低いところでは他家の墓があるのかお参りに来ている家族がありました。この寺田寅彦のお墓は、もう史跡と考えてよいのかあるいはあくまでも私的な墓地と考えるべきか迷います。墓地の入り口には高知市教育委員会による説明の看板が立てられています。また国道からこの墓地に至るまでに少なくとも3ヶ所に任意の団体が設置してくれた案内表示がありました。こうしたものを見ると市や地元にとっては寺田家(寺田寅彦)の墓は史跡と考えられているようです。戻ってからあらためて寺田寅彦の古い全集(1936〜38年・文学篇全16巻、1950〜51年・同全集増補版全18巻、1960〜62年全集全17巻)の『月報』の類をあたると、寅彦の墓の訪問記のようなものもいくつかあり、写真も載せられている。それならばここで寅彦や夏子の墓の写真を載せても許されるかと思いました。

寺田夏子の墓 2018年1月
RICOH GXR S10

『どんぐり』では、幼い身重で当時では不治の病を抱えた妻との冬の1日ことが淡々としかし深い慈しみと愛情を込めて書かれています。後段では、その妻とともに訪れた公園に忘れ形見の娘をともないます。そして同じようにどんぐりを喜んで拾う子に対して、次のように呼びかけて終わります。ここではじめて亡くした妻に対する哀惜の情が吐露されていますが、そのあくまで抑えた筆致がよりその深い悲しみをあらわしているように思います。

余はその罪のない横顔をじっと見入って、亡妻のあらゆる短所と長所、どんぐりがすきな事も折り鶴のじょうずな事も、なんにも遺伝してさしつかえはないが、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくはないものだと、しみじみそう思ったのである。

2019年参議院選挙

随分更新をサボっていますが、恒例の選挙前の自宅写真です。これを載せねばブログなんてやっている意味がない。

7月19日の自宅写真

右に写っているのはユウガオとゴーヤのグリーンカーテンです。なぜかユウガオもゴーヤも蔓が伸び葉ばかりがやたらと大きくなって花を着けません。自宅でダンボールコンポストで作った堆肥を大きめのプランターに詰めて栽培しています。そのせいかとも考えたりします。この3年あまり、正確に言うと3年前のゴールデンウィーク以降ダンボールコンポストによる生ゴミの処理を始めてから、生ゴミというものをほとんど出していません。出すのは発酵されにくい玉ねぎの茶色の皮とコーヒーのフィルターの紙くらいかな。あとは魚の頭やはらわたから野菜くずはもちろん卵の殻、廃油までなんでも堆肥にしています。ただ最近は発酵を促進させるために入れた米ぬかが多すぎたかなと思っています。そのため窒素過多で茎葉ばかりがいつまでも大きくなっているかと考えています。

昨日は、四日市にあの総理大臣が来たようです。北海道のように連れ合いと帰れコールをしにいけばよかったと反省しています。歴代最低とか史上最悪とか、それはもう少しあとにある程度は歴史的な評価が必要でしょう。他にもレーガンの恥ずべき太鼓持ちとなって日本をアメリカの不沈空母かつ原発だらけにした中曽根康弘とか、自衛隊の海外派兵に道を開いた小泉純一郎とかがいます。ただ、いまの総理大臣がもっとも品性下劣で器量・教養とも最低な人物であることだけは確かです。このコンプレックスと歪んだ権力欲しかない人間は、憲法を変えた総理大臣として名を残したい。それで祖父や父親、兄に対する劣等感をはらしたいだけの人間に思えてきます。

比例区は写真の通り。それに選挙区は三重県では旧民主党勢から共産党までの野党統一候補が立ちましたのでそちらに投票いたします。

辺野古新基地建設反対 沖縄のメディアと「本土」のメディア

学生時代に耽読した本のひとつに本多勝一の『殺される側の論理』がありました。まだ彼がおかしくなる前に著したものです。ベトナム戦争をテーマにしています。圧倒的な軍事力を背景に爆弾やナパーム弾、枯葉剤を撒き散らしている国があり、かたや日々それにより殺されている人間たちがいる。その現実を前に、それに対して中立などという立場はありえないという論旨でした。結局は他国に軍隊を派遣して爆弾を落としてアメリカ合州国と北ベトナム・民族解放線どちらかの側に立っている、それを自覚しているか否かを別にして。アメリカと軍事同盟を結んでいる国に暮らして、沈黙を守っているのはアメリカの軍事行動を黙認をしていることであって中立を装っていてもアメリカの側に立っている云々。


今、辺野古や沖縄の問題に関する報道はこうした点についてハッキリと目に見える形で現れている。米軍基地を囲むフェンスの内側か外側という形です。2枚の写真を載せます。よくある他からパクってきたり、SNSから「シェア」した出所不明なものではありません。私が撮ったものです。

脚立に乗りゲート前のデモを撮影する沖縄タイムスの記者

辺野古のキャンプシュワブ・ゲート前のテントには、いつも沖縄タイムスの若い記者が来ていました。日により別の記者になりましたが何日か通っていると今日はまたあの記者の番かというようにローテーションを組んでいるようです。いつもテントの角に一人で座って他の参加者とことばを交わすことなく黙々とメモを取っています。資材搬入阻止のゲート前での座り込みやデモの時はカメラを持って駆けつけます。そして昼の集会が終って一段落するころには入稿のためかいなくなります。そして翌日の『タイムス』には「きょうの辺野古」という小さなコラムのような記事が連日載せられます。

米軍キャンプの中から座り込み参加者を監視し撮影する県警・役人ども

こうした沖縄タイムスの報道姿勢というのは、はっきりしています。米軍基地のフェンスの外側つまり辺野古の新基地建設に反対する県民・住民の側に立っているのです。別に沖縄のメディアとして基地問題に対して中立を装うことに何の意味もないし、ましてあの関西三文文士に何を言われようが関係ない。こうした点で象徴的な意味があるもう1枚の写真が上のものです。山城博治さんの背後米軍キャンプのフェンスの内側で、座り込みをする県民・市民を監視し写真を撮っているのは日本国の警察です。もう見慣れてしまって当たり前のように思ってしまっていましたが、これほどおぞましくも醜怪な絵があるでしょうか?国土を占拠している外国の軍事基地に反対している市民を、その国の警察がその外国の基地の中から監視し面割りのため撮影しているのです。これをおかしいと思わないのは、つまらない安保論議に毒されて当たり前の感覚をなくしてしまっているのです。恐ろしいことです。どちらが「売国奴」なのでしょう。

「産経」や「読売」、さらには「朝日」「毎日」もフェンスの向こう・この連中のさらに後側、つまりは県警や防衛施設庁の幹部のリークや記者クラブでの会見をもとに記事を作っているだけです。多少切り口が違うだけです。前にも書きましたが地元の知事が新基地建設反対と公式に発言し続けているのに、移設と埋め立て建設を強行する政府の側のことばを使い続ける事にそれは現れています。

辺野古新基地建設反対 沖縄を回ってみて感じたこと

沖縄には日本全体のアメリカ軍専用しせつの約70%が集中し、沖縄本島の約15%を占めています。

沖縄の米軍基地施設

これは沖縄県のホームページの中の沖縄の米軍基地の一節です。 現在の沖縄の基地負担を端的に示す数字としてよく目にするようになりました。

この数字の持つ意味とか深刻さは、沖縄で車を運転するとその一端がわかります。たとえば空港のある那覇市から本島中部人口集中する市町村を通って辺野古のある名護市に行きます。途中たいていは道路の片側か場合によっては両側がフェンスで囲まれています。つまりいつも米軍基地・施設の中や際を走っていることになります。大げさな事を言っていると思われるかもしれません。しかし前掲の沖縄県のホームページの地図を見れば沖縄本島の南北の丘陵地と本部もとぶ半島を除く中南部の都市圏の半分は米軍基地に占領されているかに見えます。実際にはこの中南部都市圏の9市町村の面積の22.6%を米軍基地施設が占有してますが、その中の幹線道路を走っていると道のどちらかに基地があるというのは感覚としても事実としても間違っていません。このように都市部の町が基地により分断されているというのは、都市計画上も社会インフラ、経済や観光、それになにより生活そのものや教育にとっても大きな制約・負担になっていることは明らかでしょう。

こういうことを書くと、また名前を出すのも汚らわしい例の関西の三文文士がそれは基地周辺に後から人が集まったからだ とか言い出しそうです(現に普天間海兵隊飛行場についてはそう言っています )。これも適当に言ってみただけの安倍晋三的流言の類だと言うのは沖縄に行ってみれば分かります。沖縄本島は小さな島です。車で一日かせいぜい二日あれば東西南北ほぼざっと回れます。私たちも辺野古での集会や座り込みの合間合間に南部戦跡から本島北端の国頭村くにがみそん辺戸へど岬まで観光を兼ねて回ってきました。それで気がつくのは現在米軍の基地・施設が専有しているのは平坦で農地や人が暮らしやすそうの所ばかりだということです。わざわざ山を削り谷や海を埋めるより平坦な良い地形のところを片っ端から基地にしていったのでしょう。それも宜野湾や普天間がそうであったように元々人が住んで農業や産業が営まれていたところだったのだと思います。

沖縄本島を回ってもうひとつ思ったのは、沖縄は四方を海に囲まれているといっても、もう辺野古や大浦湾のような穏やかで美しい海は他に残されていないということです。これは例えて言うと志摩の海や松島の海を埋め立てて基地を作られるようなものではないかと思います、沖縄の人にとっては。

辺野古「新基地」反対! 「移設」は自公政府らの言葉だ。

沖縄の人、少なくとも辺野古の埋め立てやこれ以上の基地建設をこころよく思っていない人は、辺野古移設とか辺野古移転とかは言いません。そんな言葉を使っているのは安倍や菅とその同類及びそれを支持する人たち、朝日や毎日を含む本土のマスコミ。それに残念ながら沖縄の人の言葉に真面目に耳を傾けようとしてはいない口先リベラル(今ならネットリベラルとでも言いましょうか)もそうです。さすがに『赤旗』や『社会新報』は、それにもちろん沖縄の2紙もそんな支配者の言葉を使いません。ちゃんと辺野古新基地建設反対と呼んでいます。

スローガンは「新基地反対」
2015年10月 キャンプ・シュワブゲート前

辺野古移設という言葉は、普天間海兵隊飛行場(アメリカ側の名称は “Marine Corps Air Station Futenma” です。正確にこう呼ぶべきです)の返還・廃止のための方策が辺野古の新基地建設が唯一の解決策とする菅や政府のキャンペーンに他なりません。つまりそれを繰り返すことにより宜野湾市普天間海兵隊飛行場を返還・廃止するには名護市辺野古に移設するしかないと思い込ませようとしているのです。それは沖縄県民同士を対立させ分断させることになります。

嘉数高台公園展望台から見た普天間海兵隊飛行場。市街地を挟んで中央奥。
2016年3月
RICOH GXR A16 24ミリ相当

同上
RICOH GXR A16 85mm相当

今、名護市辺野古にある米軍施設はキャンプ・シュワブです。駐屯地(キャンプ)であってそこには飛行場はありません。たとえば沖縄戦の激戦地であった嘉数高台公園の展望台から普天間海兵隊飛行場を眺めます。それと辺野古の海や329号線の座り込みのテントから見えるキャンプ・シュワブは同じ米海兵隊に占領されていると言っても全く違う施設です。誰にでも分かります。そこに移設というのはいかにも乱暴なこじつけです。それだから現に辺野古の海を埋め立てて飛行場を作ろうとしているのです。それはまさしく新しい基地の建設です。ですから今知事選を戦っている玉城デニーさんやオール沖縄の人たちはあくまでも辺野古新基地建設反対をスローガンにしています。

辺野古の海。埋め立て工事前、対岸は海兵隊キャンプ・シュワブ
2015年10月

大浦湾から見た辺野古の海。岬の奥。連れ合いがiPadで撮影。
2017年8月

繰り返しますが辺野古移設というのは、米軍基地をこれからも沖縄に押し付けようとする本土の支配者の言葉です。マスコミがそれに追従しているのはもう仕方がない。それでも真面目に沖縄や辺野古の問題を考え取り組んでいる人たちは移設という言葉は使いません。別に沖縄に辺野古や高江まで出向かなくても沖縄から発せられるメッセージに耳を傾ける姿勢があれば、そうした支配者の言葉を使えるはずがない。そうした本土のネットリベラルな軽佻浮薄さもまた沖縄の人たちの絶望感を深めているように思えてなりません。