atusi の紹介

三重県四日市市で小さな木工所を営んでいます。

倉敷市真備町に来ています その1

昨日から倉敷市真備町の被災地にボランティアとしてきています。

今回は思うところあって、四日市からおよそ460キロの距離を軽トラックで来ました。これまでの経験から当初の渋滞が解消された今、軽トラの機動力が生かされると思ったからです。災害ボランティアセンターを立ち上げた倉敷市の社会福祉協議会に事前に確かめたかったのですが、電話がつながりません。まあこれは仕方がない。自分の判断で荷台に泥かきには必須と思われる一輪車、角スコ、平クワに、バラ目の鋸2本と大ハンマーとクーラーボックスを積んで来ました。これは正解で社協のボランティア受付のある中国職業能力開発大学には「軽トラックを提供してもらえる方」というコーナーもあります。役に立つというか求められています。被災地は農村ですが、たいてい一家に1台はあるような軽トラもあらかた水没して使い物にならないのです。近県でこちらに行ってみようと考えている人は検討して下さい。

タブレット用のカードリーダを忘れてきたため写真がアップできません。こちらには土曜日の午前中まで滞在します。

何があろうと公権力による殺人は許されない

公権力によって、7人もの殺人が一挙に行われる。それも事前の予告もなしに早朝から。そんなおぞましくも野蛮な国に私は住んでいる。

東京拘置所では3人が処刑されたという。刑場は1つしかないそうだ。それで遅くとも11時くらいには7人執行の報が流れた。朝の6時に一人目に執行が告げられたとして、一人ひとりに執行の告知からどれほどの時間が与えられたのだろう。検死や遺体の処理、清掃の時間も必要だ。遺書を残す時間もないだろう。ゆっくりそれまでの人生を振り返り罪を悔いる時間もなかろう。機械的にうむを言わさず流れ作業のように執行していったのだろうか。アンジェイ・ワイダの映画『カチンの森』の最後のシーン、ソ連の屠殺人が後ろ手してに前にかがませたポーランドの将校の頚椎を流れ作業のように拳銃で撃ちぬいていくシーンを思い出す。ヴィクトル・ザスラフスキーの『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』によると、それが一番確実で流血も少ない処刑方法で、もうソ連にはその当時そうした処刑専門の部隊があった。それは20年代からの自国民への大量虐殺による十分な経験によるものだった。今の北朝鮮の公開処刑の方がまだマシに思えてくる。日本でも戦後しばらくは、死刑の執行の数日前には通告がされていたという。それで死刑囚は自らの気持ちをを整理し遺書をしたため、場合によっては親族との面会もゆるされたらしい。いつからか今のような無機的・官僚的・非人間的な方法が慣例化されてしまったのか。それに抗議する意味もあってか永山則夫は自分の番が来た時は徹底的に暴れると公言し、同じ東京拘置所の死刑囚・故大道寺将司さんによればそれを実行したようだ。永山さん、よくやった!


つい最近やっと気がついたことだが、人間にとって、こっそり死ぬほど悲惨なことはない。

革命前の中国では、死刑囚は、刑の執行前にまず大通りを引き廻す。そのとき当人は、自分は無実だと訴えたり、役人を罵倒したり、自分の英雄ぶりを誇ってみせたり、あるいは死ぬことはこわくないと宣言したりする。その演技がクライマックスに達すると、見物についてくるヤジ馬からのヤンヤの喝采がおこり、あとでその噂は人から人へ伝わる。私がまだ若いころは、しょっちゅうそんな話をきかされたものだ。その度に私は、こういう光景を野蛮と思い、そのような処置を残酷だと考えた。

(中略)処刑前の死刑囚に公開発言をゆるすのは、むしろ成功した帝王の恩恵であり、かれらがまだ自分の力を信じている証拠だ、ということだ。自信があればこそ、せめて死ぬ前に自己陶酔にふけり、併せて人々に最期を知らせるため、死刑囚に発言をゆるすだけの余裕があるのだ。むかし私が残酷とばかり考えていたのは、不十分な判断だった。恩恵の意味がまじっているのを見のがしていた。私は、友人や学生の死とぶつかるたびに、その死んだ日時がわからず、場所がわからず、死因がわからないときは、それがわかるときよりも、もっと深い悲しみと不安を感ずるのが常である。そのことから逆の場合を類推すると、暗い部屋で少数の屠殺者の手で命をおとすのは、おおぜいの前で死ぬよりも、いっそう淋しいにちがいない。

魯迅 「二 隠された死について」「深夜に記す」から 『魯迅評論集』竹内好編訳 岩波文庫p50-52

私は、学生時代のうち3年間ほどをYMCA(学Y)の寮に住んでいた。万里小路東一条の角にある敷地には、ヴォーリスの設計による会館と私のいた京大の寮とともに府立医大の寮もあった。木造の小さなでも風情のある建物でせいぜいが3〜4人ほどしか居住できなかった記憶している。今日、処刑された中川智正さんもそこに住んでいたこともあると、彼が逮捕されてしばらくしてからかつての寮生から聞いた。彼は私より6歳若い。それに退寮してから寮に出向くこともほとんどなかったので、おそらく顔を合わせたこともなかったと思う。それでも今日の報道で若い時のかれのまだ無垢さを完全にはなくしていない映像が流されると、彼がかつて私たちが暮らしたあの同じ敷地にいて、たとえば自転車で志賀街道から荒神橋を渡りシアンクレールの角を折れて(または万里小路通りを今出川まで出て、出町柳から鴨川を渡って・・・)大学に通う姿を想像してしまう。やはり悲しい。

私が殺人事件の被害者の家族だったら、加害者と同じ空気を吸っていると考えるだけで強い憤怒と嫌悪感を覚えるでしょう。早くあいつらを殺してくれ。できれば同じ苦しみを味あわせて。残念ながら犯罪加害者の中には更生も後悔も期待できないような人間がやはりいる。ドストエフスキーがイワン・カラマーゾフに言わせているように人を陵辱し殺めること(だけ)に性的な昂奮を感じるような連中も存在している。それでもやはり国家による殺人は許されるべきではないと信じます。この件に関してはまた別に書かなくてはと思います。

古いノート 補足

年をとると色々とだらしなくいい加減にすませてしまう事が増えてくるのですが、一方でつまらない事に妙に拘泥してしまいます。この投稿もそのひとつです。


前の投稿の冒頭にあげた野村修先生のベンヤミンの訳文はずいぶんわかりにくい。はっきり言えば悪文です。校正のため読み返した時にも、これをエディタに移す時のタイプミスで改行を一列間違って行をダブらせたり飛ばしたのかもしれないと思ったほどです。

私は、前にも書きましたが(マリー・Aの思い出・『ハンス・アイスラーとベルトルト・ブレヒト』)、ブレヒトもベンヤミンも、それにハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーもほとんどが野村先生の訳で読みました。ワイマール期のドイツの文化に関しても先生の著作で勉強しました。ブレヒトの詩など訳文というよりほとんど先生の創作と言って良いような素敵なものがたくさんあります。それでも生意気を言わせてもらうと先生の翻訳にはこうした悪文というか分かりにくいものがたまにあります。それに死を、死んだという独特の言い回しを訳文でも自身の表現としてもよく使っています。何か考えや思いがあっての事でしょうが、これもやはりなじめません。

このベンヤミンのChinawarenという著作の抜粋の別の人(細見和之)の訳を投稿の末尾に置いておきます。前の投稿でもその断片に触れています。新たに原文にない改行を加えるなどの工夫もされており、こちらのほうがはるかにわかりやすいし日本語として意味が通っています。参照下さい。なお、ベンヤミンの原文は、こちらにあります。

CHINAWAREN

それでも前の投稿で細見和之さんの訳ではなく、野村先生の訳を引用したのは、そこで書いたとおり文筆文化という訳が絶妙ですばらしいと思ったからです。それとこの文章の表題Chinawarenを、野村先生は中国工芸品店と訳しています。これも字面だけ見れば細見さんの陶磁器でいいというかそれがまっとうで、中国工芸品店というのはあまりに意訳過ぎるように思います。

この著作の末尾には中国(人)の筆写云々という文章が結語のように置かれています。Chinaという言葉が、海外では磁器(または陶器も含めた焼き物全体)を指すという事を知っている人なら陶磁器という表題とこの中国云々という結語を関連付けることも容易でしょう。でもどうなんでしょう。我々のように工芸とかインテリア関係の業界にいる人間以外にはよくわからないのではと思います。野村先生はそこまで考えて敢えて超意訳とも言える中国工芸品店という表題にしたのではないでしょうか。翻訳というのは本来そこまで考えて行うべきことかなと思います。


陶磁器

前略

街道の放つ力は、そこを歩いてゆくのか、その上を飛行機で飛ぶのかで異なる。同様に、文章の放つ力は、それを書き写すのか、たんに読むのかで異なる。空を飛ぶ者が目にするのは、道が風景のなかをうねうねと進んでゆく姿だけであって、彼にとってその道は、周囲の地形と同じ法則にしたがって伸び拡がっている。道を歩いてゆく者だけが、その道の発揮している支配力を、身をもって知る。空を飛ぶ者にとってはたんに伸び広がった平面にすぎない一帯から、道は、曲がるたびに、遠景や見晴らし台や間伐地や眺望やらを、命令で呼び出すのである。・・・ちょうど指揮官の号令によって兵士たちが前線から呼び戻されるように。

同様に、書き写された文章のみが、それに取り組んでいる者の魂に命令を発することができるのであって、たんなる読み手はその文章の内部の新たな相貌、その文章があの道のように、どんどん密になってゆく内部の原始林をとおりながら切り拓いてゆく新たな相貌を、知ることはない。なぜなら、たんに読む者が夢想という自由な中空を漂いつつ、自らの自我の運動にしたがうのに対して、書き写すものは自我の運動を命令にしたがうようにさせるからである。したがって、中国の筆写技術は文芸文化の比類なき保証であり、写本は中国の謎を解くひとつの鍵だったのである。

ヴァルター・ベンヤミン 『この道、一方通行』 細見和之訳 みすず書房 p17

古いノート


街道の持つ力は、その道を歩くか、あるいは飛行機でその上を飛ぶかで、異なってくる。それと同様に、あるテクストのもつ力も、それを読むのか、あるいは書き写すかで、違ってくる。飛ぶ者の目には、道は風景のなかを移動してゆくだけであって、それが繰り拡げられてくるしかたは、周辺の地形が繰り拡げられてくるしかたにひとしい。道を歩く者だけが、道の持つ支配力を経験する。つまり、飛ぶ者にとっては拡げられた平面図でしかないその当の地形から、道を歩く者は、道が絶景や遠景を、林の中の草地や四方に拡がる眺望を、曲折するたびごとに、あたかも指揮者の叫びが戦線の兵士を呼び出すように、呼び出すさまを経験するのである。同様に、あるテクストに取り組む人間の心を指揮するのは、書き写されたテクストのほうだけであって、これに反してたんに読む者は、テクストの内部のさまざまな新しい眺めを、けっして知ることがない。テクストとはしだいに濃密になってゆく内面の森林を通り抜ける街道なのだが、それがどのように切り拓かれていったのかは、たんに読む者には分かりようがない。なぜなら、読む者は夢想という自由な空域にあって、自分の自我の動きに従っているのだから。しかし、書き写す者のほうはその自我の動きを、テクストの動きに従わせている。したがって、中国人の筆写の作業こそは、文筆文化を比類なく保証するものだったのであり、写本は、中国という謎を解明するひとつの鍵である。

ヴァルター・ベンヤミン 「中国工芸品店」 「一方通行路(抄)」『暴力批判論』 野村修訳 岩波文庫より p166-167

引っ越しにともなって古いノートの類がたくさん出てくる。もうたいていは捨ててしまったつもりだったのだが、他の書類になど混ざっていたものを発掘した。下の画像は学生時代に戦前の社会運動(全国水平社と全農全会派・全協および共産党・コミンテルンとの関係)について調べていた時のノートだ。学校の課題ではなく当時身を投じていた運動の関係で興味と使命感にかられて相応に頑張って史資料を集めて読み込んでいた。どうやら大学の図書館(たぶん人文研)からドイツ語のコミンテルンの議事録まで借りて目次・目録まで作っているから、まあ若かったというかよくやるよと感心する。それに40年前はこんなに細かい字で丁寧にノートを作っていたのだ。なにも昔から大雑把でいいかげんな人間ではなかったのだと神妙な気持ちになる。

学生時代の古いノート 1
「全協」結成前後の年譜


学生時代の古いノート 2
コミンテルン文書の抜粋


学生時代の古いノート 3
コミンテルン第6回大会議事録をドイツ語版から

今は、もう若い時のような根気もエネルギーも持ち合わせていないが、何かを調べたいと思った時にはそれになりに史資料にあたる。それもたいていは紙のそれだ。理由は簡単で今でもまともな文献や史資料というのは紙の上にしかないからだ。その上で必要と思われる箇所をノートやレポート用紙に書き写すというやり方を40年近く墨守している。下の画像は最近のノートで、今は中断してしまっているこのブログで藤田嗣治について書いた時に作ったものだ(「藤田嗣治の戦争画について 1」「同 2」)。あと実朝の記事(「鎌倉右大臣・実朝の『雨やめたまえ』の歌」)の時も作ったノートがあるし、そのうち投稿しようとおもっている寺田夏子に関しても作っている。こうした作業も今ならOCRソフトを使って電子化してコピー&ペーストでやってしまえる。それでも手書きでの抜粋をメインにノートを作っているのは、こうしないと私は思考の道筋がつけられないのだ。

藤田に関する年譜をノートしている

田中穣の藤田に関する著作からの抜粋。

ベンヤミンがこれを書いた1920年代には、もちろんワープロもパソコンもないのだがタイプライターはすでに標準化され普及していたようだ。ここでベンヤミンが書き写す(原文ではabschreibenとなっている。)としているのは、あくまでもペンを使っての作業を指していると思う。中国の例をあげてることからも分かるし、アドルノによれば、

とうにタイプライターが支配的であった当時において、彼ができるだけ手書きをしていたことは特徴的である。彼は書くという肉体的行為によって、快楽を与えられたのであり、彼は好んで抜粋、清書を作ったが、一方機械的な補助手段に対しては、嫌悪感で一杯であった。

T・W・アドルノ 『ヴァルター・ベンヤミン』 大久保健治訳 河出書房新社 p87

とある。ベンヤミンはあくまでも肉体的行為である手書きによる書き写しにこそ意味があるとしているのだ。その意味で、野村修先生がここでは、literarischer Kulturを、文化と訳しているのは、さすがだと感心させられる。ちなみに他の人の訳ではふつうに文芸文化(細見和之訳 『この道、一方通行』みすず書房)となっている。

今、こうしてベンヤミン著・野村修訳の著書などの抜粋・引用をディスプレイを眺めながらキーボードを叩いて行っているのだが、これは書き写しと言えるのだろうか?違うと思う。こうした場合、元の紙のテキストとディスプレイのエディターの文字を交互に眺めながらひたすらタイプミスと変換間違いにのみ神経を集中させている。極論すればOCRソフトがやる仕事を代行しているにすぎないとも言える。したがってよくやる間違いなのだが、改行を一列間違って行をダブらせたり飛ばしたりということすらある。新しい眺めしだいに濃密になってゆく内面の森林どころか文脈すら追っていないのだ。

紙のテクストをエディタに移す。

工房を移転します

工房を移転中です。5月1日からは、下記で仕事をすることになります。自宅と兼用です。

〒510-0031 三重県四日市市浜一色町 6-25

ホームページ・ブログのURL、メイルアドレスなどは従前の通りで変更はありません。電話は当面は私の個人の携帯で対応いたします。

〒510-0031 三重県四日市市浜一色町 6-25
http://www.roktal.com/
roktal@d6.dion.ne.jp
電話は当面私の携帯電話でお願いします。090-2701-6403

波多野睦美・高橋悠治 シューベルト歌曲集 『冬の旅』

先週に続いて一昨日11日、宗次ホールに行ってきました。波多野睦美と高橋悠治のシューベルト『冬の旅』です。

高橋悠治の対訳による歌詞つきのプログラムが配られた

高橋悠治さんは年をとったなあ。当日は2階席だったため否応なしに薄くなった白髪に目が行く。それに背中が丸くなって一緒に入場した波多野睦美さんと比べても小さく見える。

波多野さんは、よく通る素敵な美声でアクションも自然で控えめ。連作歌曲というのは、詩の朗読会なんだと思えてくる。語られているのは外国の言葉なんだけど、その世界に自然に入っていけたような気がする。それは、歌い手が日本人でしかも日本語の歌をちゃんと歌える人だからと思ったりした。

『冬の旅』というのは、結局最後の4曲を聴かせるために前の20曲があるような気がする。その4曲のうちでも最後の「辻音楽師」(当日の高橋悠治訳の歌詞では、「ハーディ・ガーディ弾き」となっていた)のそのまた最後の節を聴かせるためにグダグダ書かれたんじゃないか。

Wunderlicher Alter,
Soll ich mit dir geh’n?
Willst zu mein Liedern
Deine Leier dreh’n?

ジジイ、
一緒に行ってもいいか?
オレの歌に合わせて、
伴奏してくれや。

以上、いづれもヴィルヘルム・ミュラーの詩を拙訳

無為と諦念の中で生きていくお前の仲間にいれてくれと言っている。もう少ししたらその心境がわかってる気がする。


この日は、宗次徳二さんが寒空の下ホールの玄関外で入場者一人ひとりに声をかけて正装で出迎えてくれる。 今日はお世話になりますと返す。連れ合いが誰というふうに怪訝な顔をするので宗次さん!と言うと、振り返ってあらためてお辞儀をする。宗次さんも少し驚いた感じで恐縮したようにお辞儀を返してくれる。ここはオレが作ったホールなんだぞといった風情は微塵もない。こうした何気ない所作に人柄というのは出るんだなと思う。

宗次さんは公演の時は、最前列左の並びに奥様と平服で聴いておられてように思うが、暗くて確かめてはいない。先週のクニャーゼフのチェロの時も脳性麻痺と思われる子どもさんに声をかけて、同じ席にいたように思う。この日は公演終了後も正装でホールの出口で挨拶をされていたので、歌舞伎のはや着替えのようなワザをお持ちかとも思ったり。そんなこと詮索すべきことでもないか。

クニャーゼフ J.S.バッハ無伴奏チェロ組曲全曲
久しぶりのコンサート

久しぶりにコンサートに行きました。2月4日、名古屋栄の宗次ホールで開かれたアレクサンドル・クニャ−ゼフ チェロリサイタル J.S.バッハ無伴奏チェロ組曲全曲です。

一度に全6曲を聴くことが出来るお得なコンサートでした

名古屋の栄から伏見にかけての界隈は、しらかわホール電機文化会館ザ・コンサートホール宗次ホールと3つの小さなクラシック用のホールがあります。私は、クラシックと分類されるものでは声楽とかソロや小編成の室内楽といわれるジャンルの音楽が好きで、オーディオも含めてもっぱらそうした音楽を楽しんでいます。だから日帰りで気楽に行ける範囲でこうしたホールがあるのはたいへんありがたい。

ホールの格というと嫌な言い方になりますが、演奏者のランク(これも嫌な言い方ですが知名度・ギャラとくらいに考えてください)やチケット代から言うと、しらかわ→電機文化会館→宗次の順になりますか。定員(席数)も同じ順になります。私が実際に行ったコンサートを備忘録的にあげてみます。エレーヌ・グリモー(しらかわ 2011年1月19日)、サンドリーヌ・ピオー(電機 2012年9月22日)、クリスティーネ・シェーファー(電機 2012年6月30日)、クリスティアン・ゲルハーヘル(電機 2014年1月12日)、マーク・パドモア&ポール・ルイス(電機 2014年12月8日)、アリーナ・イブラギモヴァ(電機 2014年12月23日)など最近はもっぱら電機文化会館が多かったです。

宗次ホールは、カレーハウスcoco壱番屋の創業者で、元社長・元会長の宗次徳二さんが、クラシック音楽の普及と若い音楽家の育成を目的に私財を投じて作られたものです。宗次さんの清廉で潔い生き方は、書籍でもネットでも見ることができます。お金の亡者というかお金に使われているかのようなさもしい経済人とは違います。それに会社を大きくして財をなしたといっても会社は公器としてすでに手放していますし、儲けたといっても不動産や金融といった虚業でもIT云々といった怪しげなものではなくて食べ物屋です。ゲイツとかジョブスとか孫某とかいった如何わしい連中とは違うし、まして人殺しに手を貸す軍需関連でもありません。

ホールを入ってすぐの案内にビッグイシューが置いてあるクラシック専用のホールなんて日本中に他にないでしょう。これも親と養母に捨てられ養父に虐待され孤児同然に生きてきたという生い立ちから、今もホームレス支援を行っている宗次さんならではのことでしょう。ホールでは、音楽関連の小物類や中古CDの販売も行っています。これもクラシック音楽の普及のためのだと納得します。つまりはこれまでこうした音楽と無関係であった人たち、特に若い人にも来て欲しいとの意図でしょう。プログラムの編成やチケットの値段設定などにもそれは感じられます。もう「しらかわホール」とか「ザ・コンサートホール」では、開演前に携帯電話の電源を切るように促されることはありません。ここに来るお客さんは、そんなことは分かっていらっしゃいますねという暗黙の了解が前提にあるのでしょう。実際に私の知る限り公演中に鳴ったりしたことはありません。宗次ホールでは、今も(今回も)開演前にアナウンスと同時に係員がホールをまわり、携帯電話の電源を切るように促していました。これは、ホールの対象がまだこうした場に慣れていない人も含んでいるという事で、むしろありがたいと思います。

さて当日配られた演目などの書かれた簡単なプログラムの裏表紙にこんなことがかかれてあります。

お互いに気持ちよく演奏を楽しむために以下のマナーをお願いいたします。

  • 携帯電話の電源OFF(マナーモードもNG)
  • 拍手やブラヴォーなどの掛け声は、1曲全てが完全に終わるまでお待ちください。余韻を大切に。

以下略

ふたつ目に書かれている事は、少し解説が必要かもしれません。20年ほど前までは、どこのコンサートに行ってもこうしたブラボーおじさんがいました。曲が終わるか終わらないうちに、多くは終わらないうち(演奏中)にブラボーの歓声を発し拍手をする輩です。他の聴衆にとっては迷惑千万で演奏者にたいしては失礼きわまりない行為ですが、あれはいったいなんなのかと今も思います。少し想像してみると

  • オレはここで曲が終わると知っているんだと自慢したい
  • 誰よりも先に拍手をする(ブラボーを叫ぶ)のがかっこいい
  • オレが聴衆の熱狂を先導しているのだ
  • 歌舞伎の木戸銭御免の声掛け屋になったつもり?

どのみち他人に迷惑をかけ顰蹙をかうことでしか卑小な自己顕示欲を満たす事ができないわけで、これは暴走族のガキと同じことだと思います。かつて日本のコンサートでこのブラボーおじさん全盛の頃、ヨーロッパのコンサートの録音をFM放送などで聴くと、演奏が終って暫くしてからパチパチとまばらに拍手が始まり、それが段々と大きくなってゆくのでした。聴衆一人ひとりが音楽を楽しみそれぞれ余韻を味わっているのが想像されて羨ましく思ったものです。最近は、特に私が行くようなどちらかと言うとマイナーで小規模のコンサートではブラボーおじさんはほとんど見なくなりました。その絶滅危惧な存在がここにはまだいました。最初の無伴奏第1番の途中のサラバンドが終る間際に拍手が聞こえました。残念ながらこのブラボーおじさんは終曲を間違えていたのですが、それに多少は懲りたか以降は大人しくしていたようで助かりました。 ところで、先日あるヨーロッパでのコンサートの実況録音を聞いたのですが、それが曲が終わらないうちの一斉拍手になっていて、驚くやら残念やら複雑な気持ちになりました。まさかバブルの乱痴気騒ぎの頃に、日本のブラボーおじさん達が本場にまで乗り込んで、逆にあれを広めたのかと勘ぐったりしてしまいます。


肝心の演奏のことは、またあらためて。と思っているうちに明日、11日にも宗次ホールに出かけます。今度は波多野睦美さんと高橋悠治による『冬の旅』です。こちらも楽しみにしていたものです。先日のコンサートでは、示し合わせてもいないのに連れ合いの教会関係の知人が二人来ておりました。明日、どなたか来場の予定をされている人があれば声をかけてくだされば嬉しいです。

稲嶺進さんの名護市長再選を強く望みます

キャンプシュワブ前の集会で挨拶される稲嶺進名護市長
2015年10月

3年前の秋、私が初めて辺野古に行ったおりキャンプシュワブ前の集会に訪れ挨拶された名護市長・稲嶺進さんです。市長はその後の昼のゲート前の座り込みとデモにも参加されていました。その時は随分若く見えて私よりも年下かと思っていましたが、今回の選挙報道で、今72歳だと知りました。

今日、名護市長選の投票が行われます。自分の政治姿勢をはっきりと時に体をはってでも示す、役所や議場の外に出て支持者とともに戦う、そんな政治家が今どれほどいるでしょう。その1点だけでも私は稲嶺進さんを指示し、その再選を強く望みます。