自分は本当は不器用だったんだと最近思う

子供の頃から絵が上手だとか、器用だとかおだてられて、その気になってこの年になった。絵描きになるという無謀な夢は早々とあきらめた、というかそんな才はないと気がついていた。ただ、自分は物づくりの適性があるのではないかとは思い続けて、結局木工などを仕事にしてしまったのだ。

年末までに、20枚ほどの額を頼まれている。ハガキ大の水彩画を入れるとのことで、マットのカットも頼まれていた。そんな難しいものでもあるまいと高をくくってOLFAの45°カットの専用のカッターと定規、それに念の為カッティング用のシートも新調した。ろくに試しもせずいきなり本番のカットに入り、見事に失敗。懲りて何度か試し切りを重ねてようやく見られる程度に切れるようになった。手先がイマイチ繊細に動かないというのは、あるいは加齢のせいかもしれないと言い訳したくなるが、もともと自分は不器用だったのではないかとあらためて思った。少し前から、なんとなく感じてはいたんですけどね。

他人(ひと)には、木工に適性などいらない。むしろ多少不器用くらいのほうが、時間をかけて本当に身体に染みこむような技能が身について良いとか言っていた。むしろ、これからは自分もそうだったと言おうと思っています。

「マンデラに自由を」のポスターを作りかけの額に入れてみた

「ネルソン・マンデラに自由を!」の昔のポスターを作りかけの額に入れてみた

ネルソン・マンデラは、いまでこそ晩年の好々爺然とした風貌とともに、聖人や偉人の如く扱われているが、かつては過激派であり白人や不名誉な「名誉白人」からはテロリスト呼ばわりされていた。彼らにとっては、今のビン・ラディンと変わらない存在のようなものだったと思う。このポスターを胸に印刷したTシャツを粋がって着たりしたが、大半の「名誉白人」=日本人はマンデラの存在自体知らなかったように思う。