曼珠沙華(彼岸花)


つきぬけて 天上の紺 曼珠沙華

この山口誓子の句を読むと研ぎすまされた日本語の表現力はすばらしいなと思います。

曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の花は、つきぬけるように空に伸びその青と鮮やかな対比をなしている。平たく言えばそういう情景を詠んだ句なのでしょう。つきぬけてという言葉からは、あるいは田の畔に寝ころんで、彼岸花の花弁を通して空を見上げるとそう感じるのかしらと思ったり。また、逆に白い雲をつきぬけて宇宙につながる紺青の空に鮮やかな紅の花弁がある、といったきらめく色の対比の世界を夢想してみたり。この句は、秋の澄んだ空、田の畔や堤防に咲き誇る彼岸花、そうした目に入る諸々の秋の景色を、様々な視点・視座から一挙に鳥瞰して大きな世界を描いているように感じます


彼岸花を地表から見上げる

可動式のライブビューカメラ(LUMIX G1)だとこうしたアングルからの撮影も可能

同じような感慨は蕪村の有名な句菜の花や月は東に日は西にを読んだときにも持ちます。わずか17文字の言葉で、身近な光景からこんなに広い世界にまで思いを寄せることが出来るのは本当にすばらしい。

この句は、学生の頃に教えてもらいました。はがきに手ずからの彼岸花の小さなイラストと共にこの句が書かれていました。私たちがかつて一緒に通った高校のグランドに沿って流れる小さな川が、昔は彼岸花の宝庫であったともありました。少し恥をさらすと、私はこの句の(こん)(ひも)だと長い間思い込んでいました。今時の娘と違って整ったちゃんとした字を書く人だったのですが、無粋で無教養だった私はそう読み違えていたのです。字面は似てますよね。それでへんな句だなと思いながら、彼岸花の花弁を紡いて真紅の紐にして天上のお釈迦様は何かにお使いになっていると考えるのも一興ということか、などと思っていました。カンダタがぶら下がったのも蜘蛛の糸ではなくて、この赤い紐かもしれない云々。それはそれでこの花の彼岸に咲くということを含めた禁忌めいたいわれを表現しているとも考えたりしていました。

だれにどう言われたとか聞いたからという記憶はないのですが、私もこの花をなんとなく遠ざけて楽しめないものと感じてきました。灰谷健次郎さんの『太陽の子』にもその冒頭にこの花の咲く丘に親子で出かけるシーンがありました。そこでもこの花は死を象徴する不吉なものとして扱われていたと思います。その中で、白い彼岸花を主人公のふうちゃんが見つけます。私も一度だけ白い彼岸花を見つけたことがあります。菰野町の今はオーナーが変わってしまった蕎麦処『菊井』から「菰野富士」と呼ばれる小高い山に行く道すがら林道から少し脇にそれた小道の際でした。珍しいものを見つけたという軽い興奮もあったのですが、この『太陽の子』のシーンが思い出されて不吉なものに出会ってしまったという思いにとらわれてしまいました。その時は大阪からの友人を案内していたのですが、しばらく暗い気分で、でも逆に妙に饒舌にこの花やそれにまつわる『太陽の子』のことを話した記憶があります。

この花は、田の畦や堤防など人里の周辺に見られます。飢饉の際の救荒食であったとも有害鳥獣を避けるため毒をもつこの花を田の畦に植えたとも言われています。そのあたりから禁忌なイメージも作られているのは確かなようですし、今も田や堤防の草刈ではこの花を避けて刈られています。しかし、動物がこの花を避けるというのはどうも事実とも思えません。画像は散歩中の実家の犬ですが、別に嫌がっている様子もなくかき分けて、別のシソに似た草を食んでいます。

彼岸花に分け入る草をはむ飼い犬