神戸 20年前に社内報に書いた被災地の報告

1月19日(月)、神戸に行ってきました。古くからのお客さんに呼ばれてのことでしたが、あれから20年という感慨はやはりありました。

20年前の震災の時、私は大阪市内のある建材(鋼材)のメーカーに勤めていました。地震があった時間は当時住んでいた大阪南部の住宅で起床する僅かに前でした。いつも使っていた南海本線が全面不通で、開通の目処なしとのことで、仕方なく家に戻ってテレビを見ていると、阪神や淡路島の甚大な被害が徐々に伝えられていました。

結局、その日は自宅に待機していました。次の日から出社しましたが、どうせ仕事にならないし、じっとしているのも嫌だったので、神戸とか伊丹に住んでいて連絡のつかなかった高齢の顧問の安否確認とか屁理屈をつけて被災地に入りました。いつもの社内での服装、作業着上下に、安全帽、安全靴に脚絆という出で立ちに、70リッターほどのリュックに水と乾パンなどの非常食を詰め込んで、神戸市の東灘区と伊丹の仁川に向かいました。途中で、避難所とか困っていそうな人を見かけると適宜、水と食料を渡して歩きました。途中、仕事柄、壊れた建築物や土木構造物があると写真に撮りながらです。

被災地で見たものや、撮り貯めた膨大な写真をもとに社内で報告会を持ち、その抜粋を社内報にも載せました。集めた資料や写真の類は、個人的に求めたものも含めて全て退社する時に後の資料として社内に残して置きました。後にその会社自体が吸収合併されて雲散霧消してしまいましたから、残念というかもったいないことをしたと思いますが、仕方ありません。ただ、その社内報は手元にありました。社内報といっても、ゼネコンを含む取引先にも配っていたものなので、随分持って回った言い回しになっていますが、これも仕方がない。ただ、他の土建屋や同業他社が右往左往するしかない中で、かなり早い段階での被災報告と分析であったと思っています。

実際に被災地の倒壊した建物や土木建造物を目の当たりにして、当時よく言われた古い建築基準が云々という高尚な問題ではないと強く確信しました。一言でいうと、そうしたレベルの問題ではなく壊れた構造物はほとんど例外なく素人目にもわかる手抜き、施工不良によるものでした。その事は、自分の記憶に残る事だけでも書き残すべきだと20年が経った今、あらてめて思います。とりあえず当時書いた社内報の記事を転載しておきます。写真などはすべて私が撮ったものです。画像ファイルにしてあります。クリックで拡大します。


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