良寛の歌 その2


月読(つくよみ)の ひかりを待ちて 帰りませ 山路は栗の いがの多きに 312

たまさかに来ませる君をさ夜嵐いたくな吹きそ来ませる君に 579

天が下にみつる玉より黄金(こがね)より春の初めの君がおとづれ 4

あづさゆみ春になりなば草の(いほ)をとく訪ひてましあひたきものを 635

註) 歌の末尾の数字は引用元の『良寛歌集 ─ 吉野秀雄 校註』 東洋文庫556 平凡社での通し番号です

前2首は、阿部定珍を、後2首は貞心尼を詠んだ歌らしい。いずれの歌も恋の歌のようでもあり、友人の来訪を待ち焦がれ帰途を案ずる歌でもあるように読める。人によりまた時により違う感興をもたらす。実際に斎藤茂吉は、あづさゆみ〜の歌を友に贈った歌であろうとしていた(斎藤茂吉・『良寛和歌集私抄』、後に訂正)。前に引用した歌

わかれにし心の闇に迷ふらしいづれか阿字の君がふるさと

この歌も、本来の意味は「仏の道に分かれて(捨てて)心の闇の中に迷っている君の本当の心のふるさとは何処なのだ」と叱責し窘めるものなのだろう。しかし、私には「まあ、仕方がない。今は迷い惑っても、そうした時もあるさ。でも自分のこころのふるさとをまた考えてみる時がくるさ。」と、現状をひたすら肯定しながら諭してくれているように読める。決して非難などされているように感じない。

本当に良い歌、あるいは芸術というのはそういうものだと思う。平易で具体的な描写でありながら、描く世界、呼び覚ます感情、ましてや倫理や規範や世界観を押しつけない。むしろ優しく包みながら、外の世界に対する穏やかで優しい心持ち、澄んだもの高いものへの憧れ、そうしたとっくに忘れてなくしたつもりでいたものを、たとえ一時であれ呼び覚ましてくれる。感じ、考えるのは自分自身なのだ。

阿部定珍

西蒲原郡渡部村。通称は酒造右衛門。家世々庄屋をつとむ。壮にして和歌詩文を好み江戸に遊ぶこと三年諸名家と交わる。帰来家職を()ぎ理民の材を発揮す。公暇風月を友とし吟詠雅懐を()ぶ。良寛国上(くがみ)在庵の時より施主たり交遊たりしは其文書によりて明なり。天保九年六月二十日、西国霊場巡拝のため土佐にありて瘧病(おこり)のため死す。

貞心尼

長岡藩士、奥村某の女、幼にして浄業を慕ふ。妙齢に至り北魚沼郡小出郷の医師某に嫁し、幾年ならずして不幸所天を喪ひ深く無常を観じ、遂に柏崎町洞雲寺泰禅和尚に従ひて剃度を受け、後不求庵に住す。是より先良寛禅師の高徳を敬慕せしが、文政の末年禅師を島崎村に訪うて和歌を学び且つ道義を受く。師其敏慧にして和歌に堪能なるを愛し、懇切に指導せしと。始めて値遇せしは、師七十歳貞心二十九歳の時なり。爾来六星霜、花に鳥に月に雪に風に雨に往訪して敬事し、歌を練り道を講じ其傾写を受け、禅師終焉の際所謂末期の水を呈せいしは弟子としては此尼公のみなりきと。又禅師の詩歌の今日に伝はりしも尼公の蒐集せし力多きに居る。又禅師の肖像として後世に遺るもの亦此尼公の描写せしものなり。(中略)明治五年二月十日寂す。(後略)

斎藤茂吉 「良寛和尚雑記」 『斎藤茂吉選集 第15巻 歌論』岩波書店