四十九日

一昨日は母親の遺品の中で、唯一鑑定書のついた貴金属である指輪を、昨日は自慢であった着物を、それぞれ一番ふさわしいであろう人にもらっていただきました。それで、今日は兄弟3人と伯母をはじめ主な親族に集まってもらって、四十九日の法要を実家で行いました。法要の後で、兄弟と伯母で遺骨を墓に収めました。これで満中陰というか忌明けといって、無事亡くなった人を仏として送り出すことになるという事だそうです。

昨日の晩は、母親の着物を納めた箪笥の引き戸にあった幾冊かのアルバムを兄弟3人で眺めて、これは誰だ、ここはどこだったかとか話していました。こちらのご縁さんがよく口にされる、亡くなったひとは仏になって念仏を唱えるひとの中に戻ってきて、その人達を結びつけるというのは、こういうことかとも思ったりします。

正月の料理らしきもので、最後まで残った黒豆も昨日で完食してもらって、今日はレンゲでほんの一掬いお汁を頂いてあとは庭に流しました。5合の黒豆をヒタヒタにみたし続けてもらって、ご苦労様という気持ちと、それにやっぱりこれを下水に流すのは環境負荷という面でためらわれます。薄めてドリンクとして再利用という手もあるようですが、もう若くはない身としてはやはり糖分が気になります。

母親を送る一連の儀式と、正月気分が二つながら終わって、すこし気が抜けたようなフヌケた状態になります。明日は葬儀屋が祭壇を引き取りに来る予定で、そうすればまたいつもの日常に戻れるでしょう。世間でも明日の月曜日から実質の仕事はじめという所が多そうです。一本の赤い和ろうそくがあります。仏壇の奥にしまわれていたもので、いつぞやの法事でまともなろうそくを切らしてしまって、これに火をつけようとした事がありました。それは慶事に使うものでダメだと父方の親族にたしなめられました。祭壇も今晩で終わりだし派手好きだった母親も面白がるかもしれないと火を付けてみます。たわむれと、はなむけにそのまま暫く、燃え尽きるにまかせます。

RICOH GXR A12 50mm

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こうしてフヌケたような状態で、まあそれでもいいかという具合の夜は、マリアージュ・フレールのマルコポーロという紅茶がぴったり合うなあ。コーヒーなんて野蛮な飲み物はゴメンだぜ。そう言えば、このお茶を教えてくれたひとは短歌が好きだったけど、それも白蓮とかの激しい歌だった。でも白蓮の歌とか、もうひとつも思い浮かばない。今、手元にある鎌倉右大臣もいいけれと、前にネットからは消してしまった古い「工房日誌」から良寛の古い歌をローカルのディスクから引っ張り出します。老前整理?そんなもの、アベノミクスとかいうバブルの二番煎じのための下準備のキャンペーンだろう。少し前は、もったいないじゃなかったのかい。

さて、以下は2009年4月の古い「工房日誌」の記事です。


)月読(つくよみの ひかりを待ちて 帰りませ 山路は栗の いがの多きに 312

たまさかに来ませる君をさ夜嵐いたくな吹きそ来ませる君に 579

天が下にみつる玉より)黄金(こがねより春の初めの君がおとづれ 4

あづさゆみ春になりなば草の)(いほをとく訪ひてましあひたきものを 635

註) 歌の末尾の数字は引用元の『良寛歌集 ─ 吉野秀雄 校註』 東洋文庫556 平凡社での通し番号です

前2首は、阿部定珍を、後2首は貞心尼を詠んだ歌らしい。いずれの歌も恋の歌のようでもあり、友人の来訪を待ち焦がれ帰途を案ずる歌でもあるように読める。人によりまた時により違う感興をもたらす。実際に斎藤茂吉は、あづさゆみ〜の歌を友に贈った歌であろうとしていた(斎藤茂吉・『良寛和歌集私抄』、後に訂正)。前に引用した歌

わかれにし心の闇に迷ふらしいづれか阿字の君がふるさと

この歌も、本来の意味は「仏の道に分かれて(捨てて)心の闇の中に迷っている君の本当の心のふるさとは何処なのだ」と叱責し窘めるものなのだろう。しかし、私には「まあ、仕方がない。今は迷い惑っても、そうした時もあるさ。でも自分のこころのふるさとをまた考えてみる時がくるさ。」と、現状をひたすら肯定しながら諭してくれているように読める。決して非難などされているように感じない。

本当に良い歌、あるいは芸術というのはそういうものだと思う。平易で具体的な描写でありながら、描く世界、呼び覚ます感情、ましてや倫理や規範や世界観を押しつけない。むしろ優しく包みながら、外の世界に対する穏やかで優しい心持ち、澄んだもの高いものへの憧れ、そうしたとっくに忘れてなくしたつもりでいたものを、たとえ一時であれ呼び覚ましてくれる。感じ、考えるのは自分自身なのだ。

阿部定珍
西蒲原郡渡部村。通称は酒造右衛門。家世々庄屋をつとむ。壮にして和歌詩文を好み江戸に遊ぶこと三年諸名家と交わる。帰来家職を)(ぎ理民の材を発揮す。公暇風月を友とし吟詠雅懐を)(ぶ。良寛)国上(くがみ在庵の時より施主たり交遊たりしは其文書によりて明なり。天保九年六月二十日、西国霊場巡拝のため土佐にありて)瘧病(おこりのため死す。
貞心尼
長岡藩士、奥村某の女、幼にして浄業を慕ふ。妙齢に至り北魚沼郡小出郷の医師某に嫁し、幾年ならずして不幸所天を喪ひ深く無常を観じ、遂に柏崎町洞雲寺泰禅和尚に従ひて剃度を受け、後不求庵に住す。是より先良寛禅師の高徳を敬慕せしが、文政の末年禅師を島崎村に訪うて和歌を学び且つ道義を受く。師其敏慧にして和歌に堪能なるを愛し、懇切に指導せしと。始めて値遇せしは、師七十歳貞心二十九歳の時なり。爾来六星霜、花に鳥に月に雪に風に雨に往訪して敬事し、歌を練り道を講じ其傾写を受け、禅師終焉の際所謂末期の水を呈せいしは弟子としては此尼公のみなりきと。又禅師の詩歌の今日に伝はりしも尼公の蒐集せし力多きに居る。又禅師の肖像として後世に遺るもの亦此尼公の描写せしものなり。(中略)明治五年二月十日寂す。(後略)

斎藤茂吉 「良寛和尚雑記」 『斎藤茂吉選集 第15巻 歌論』岩波書店