「棹さす」という表現について

以前の記事(「駒井哲郎さんの事 4 ギャラリー椅子の仕様」)でこんな表現をしていました。

それにこうした安易に接着剤に頼ったやり方が、確実に若い「木工家」のスキルを低下させています。われわれロートル世代くらいはこうした安直な傾向に棹さしていったほうが良いと思っています。

この棹さしてという表現は、間違っているのではないかと、工房 悠の杉山裕次郎さんからメールで指摘されました。ここの[棹さす]ですが、言いたいことの意味は、たぶんその逆ですね。という事で具体的に参考サイトまで付けて頂きました。ありがたいことです。

棹さす

さおを水底につきさして、船を進める。転じて、時流に乗る。また水流にさからう意に誤用することがある。

広辞苑第6版

手元の『広辞苑』第6版には以上のようにあります。まさに誤用しておりました。この広辞苑にも引用されている夏目漱石の『草枕』の有名な冒頭の一節情に棹させば流されるも、あえて情に抗って我慢しても結局は流されていってしまうだけだ云々という意味だと思い込んでいました。恥ずかしい限りです。普段、日本語の表現に関してもエラそうな事を言っている手前、こっそり指摘された部分だけ訂正して知らん顔もできません。それに私と同じような誤用をされている人も他にもいらっしゃるかもしれません。htmlのdelとかinsというタグはこうした時のためにあるとのだと自分を納得させています。

今回は、たとえ嫌われても間違ったことは放っておけないという杉山さんの性格から指摘を頂きました。別にこうした事に限らず誤りを指摘されるうちがハナだと思っています。どうぞ色々ご指摘ご指導ください。

年明け最初は内田百閒を読んだ

暦の上で年が明けたからといって、あらたまって事をいたすなど久しくしなくなった。それでも新年にまず何を読むかは少しは気にする。かと言ってたとえば昨年の正月に何を読んだと記憶しているわけではない。ただあらたまった気分の中、ネットを開いて汚い言葉やひどい日本語だけは目にしたくないと思っている。

今年は内田百けん(機種依存文字。門構えに月)の『ノラや』(内田百閒集成9・ちくま文庫)にした。昨年末のペットロス状態から百閒翁の猫ロスで取り乱した様を読んだら、少しは慰みになるかとも考えた。冒頭に置かれた「猫」という短編から圧倒される。化け猫という言葉に象徴される猫にまつわる妖気とか禍々しさを、その猫自体の描写を一切なさずに著している。逆にそのことによってこの猫の妖気とそこから「私」にまとわりつくような恐怖と悪寒が滲み出される。後で引用する三島由紀夫の言う究極の正確さをただニュアンスのみで暗示し鬼気の表現に卓越している世界がここにもある。

内田百閒の文章は、三島によれば少しも難しい観念的な言葉遣いなどしていないこう書けばこう受けるとわかっている表現をすべて捨てて、いささかの甘さも自己陶酔も許容せず、しかもこれしかないという、究極の正確さをただニュアンスのみで暗示している。そうした言葉の洗練の極のゆえか、百閒の文章は3次元的なまたそれに時間もふくめた4次元的なイメージを沸々と呼び覚ます。それは、鈴木清順や黒澤明といった映像美にとりわけ強いこだわりをもった映画監督が百閒の作品の映像化を試みていることからもわかる気がする。私もある事件(一生引きずるであろう忘れてはいけないもの)のあとそれにまつわる夢をなんども見た。それが、百閒のある作品(「冥途」)の中に再現されているように思われて恐ろしかった。今は、その夢と百閒の作品が渾然となってその境がわからなくなったと思うことがある。

同じ漱石の弟子に中勘助がいる。彼の『銀の匙』は学生時代に遠距離をしていたかつての同級生に送ってもらって読んだ。しかし彼の作品で面白いのはこれだけで(その1編が本当にすばらしいのだが)、あとは自分の兄が嫌いで一方その兄嫁にほとんど恋愛感情な好意を抱いているといった内容の私生活暴露な「小説」ばかりだった。百閒の作品はどれも素敵に面白い。すくなくとも私の持っているちくま文庫の「内田百閒集成」12巻の中にハズレというか駄作はない。これは本当に驚くべきことなのだ。

百閒の文章を手本にしていると言えばあまりにおこがましい。ただ彼の文章を何編か読めば、その虜になるでしょう。それほど魅力的でやはり日本語の文章表現の手本であると思う。そのことは同じく稀有の美文家であった三島由紀夫の百閒に対する絶賛をこめた分析がすばらしく的確で、これまた感心させられる。もっとも三島という人は先達はもちろん同時代の作家に対してもいつも好意的な批評を行っていて、ずいぶん気遣いの細やかな人だったのだと思う。


<内田百閒>解説

三島由紀夫

現代随一の文章家

もし現代、文章というものが生きているとしたら、ほんの数人の作家にそれを見るだけだが、随一の文章家ということになれば、内田百閒氏を挙げなければならない。たとえば「磯辺の松」一遍を読んでみても、洗練の極、ニュアンスの極、しかも少しも繊弱なところのない、墨痕あざやかな文章というもののお手本に触れることができよう。これについてはあとに述べるが、アーサー・シモンズは、文学でもっとも容易な技術は、読者に涙を流させるとことと、猥褻感を起こさせることであると言っている。この言葉と、佐藤春夫氏の文学の極意は怪談であるという説を照合すると、百閒の文学の品質がどういうものかわかってくる。すなわち、百閒文学は、人に涙を流させず、猥褻感を起こさせず、しかも人生の最奥の真実を暗示し、一方、鬼気の表現に卓越している。このことは、当代切ってのこの反骨の文学者が、文学の易しい道を悉く排して難事を求め、しかもそれに成功した、ということを意味している。百閒の文章の奥深く分け入って見れば、氏が少しも難しい観念的な言葉遣いなどをしていないのに、大へんな気むずかしさで言葉をえらび、こう書けばこう受けるとわかっている表現をすべて捨てて、いささかの甘さも自己陶酔も許容せず、しかもこれしかないという、究極の正確さをただニュアンスのみで暗示している。(中略)それは細部にすべてがかかっていて、しかも全体のカッキリした強さを失わない、当代稀な純粋作品である。

後略

『サラサーテの盤』内田百閒集成4 ちくま文庫所収

駒井哲郎さんの事 3

打ち合わせも終わり辞するにあたって駒井哲郎さんの立派な画集(『日本現代版画 駒井哲郎』玲風書房)と著作(『白と黒の造形』講談社文芸文庫)を頂きました。著作は駒井さんが折々に著した短文をまとめたもので、その中にパウル・クレーについて書いたものが2編あります。いずれも秀逸な評論であり、こんなに簡潔にやさしい自分の言葉でしかも的確にクレーの芸術に迫ったものを他に知りません。それは駒井さんがご自身の版画の世界である高みに達したからこそ、クレーの内面にまで踏み込んでその芸術を俯瞰することが出来たのだと思います。

頂いた駒井哲郎さんの著作と画集

クレーやその絵について論じようとすると、つい何か気の利いた事でも書かねばと背伸びしたくなります。それは、駒井さんがここで述べているように彼の絵は、彼の内面で静かに永い時間をかけて育て上げられた結果、生まれ出たものであり、彼の絵について語るときはいつでも、彼の音楽や文学への嗜好、つまり彼の内面を支配しているた教養にまでさかのぼる必要があるとひろく認識されているからでしょう。

『白と黒の造形』の中の「女たちの館」(1952年3月)という短文は、表題のクレーの絵について論じたものです。以下引用します。

愛知県美術館所蔵のクレー・『女の舘』

パウル・クレーは幻想の世界を描いた画家と云われてますけど、その作品は常に自然となんらかの関連を持ち、彼の内面で静かに永い時間をかけて育て上げられた結果、生まれ出たものだと思います。ですから彼の絵について語るときはいつでも、彼の音楽や文学への嗜好、つまり彼の内面を支配しているた教養にまでさかのぼる必要があるのですが、僕には到底そこまで解きほぐすことは出来そうもありません。しかし僕等も出来るだけクレーに追随して、この絵を描いた頃の画家と同じような気持ちになって作品を眺めてみましょう。

この奇妙な、女たちの館は、ちょっと見たのでは特にこれと云って、なにかを示している形体は何処にもないのですが、この燐光発しているような見事な色彩が、色の中に潜んでいる可能な限りの音階を充全に奏でていると云えるでしょう。そう云えば絵全体に、横に走っている白い点線は楽譜の五線譜のようでもありますし、すき透るような微妙な藍色の地に浮かぶ様々の形体は、ちりばめられた色彩の音符と考えられないこともありません。しかし、良く見ると、それらの音符はまた窓やアーチや館の屋根のように見えてきます。そのほか階段や木立や窓に掛けられたレースの引幕までも・・・そしてなんだかとてつもなく大きく、古びた館が背景の中から忽然と浮かび上がってくるのを感じます。ちょうど舞台が暗転してくらやみの中に薄光が少しずつ差し込んでいる時のように。確かにクレーはこの絵の主題をなんらかの音楽的感動によって芽生えさせたのでしょう。1920年、ワイマールのバウハウスの教授に招かれて28年まで、その地で忠実にその職務を尽くした彼は、このワイマール居住の時代に、ほとんど毎晩と云って良い位オペラを聴きに通った時期がありました。そしてオペラや劇場で得た感動から非常に多くの作品を生み出したのです。

この絵も1921年のものですからその中の一つだと云うことが出来ます。この絵を描く時、ほとんど確実に彼があんなに愛したモーツァルトとその歌劇を思い浮かべていたに違いありません。もちろんクレーのことですから歌劇の情景をそのまま絵にするわけはなく、あらゆる置き変えや、象徴の手段など、これまで自分のものにして来たすべての近代絵画の上の教養を巧みに生かして、彼の以前には誰も描かなかった清浄でしかも悪魔的とも云える新しい認識を画面の上に繰り拡げています。

駒井哲郎 「女たちの舘」 『白と黒の造形』講談社学芸文庫より

この本にはこのクレーの絵は挿絵としても載せられていません。それで安易にネットで画像検索をしてみると『女の館』という題名で愛知県美術館に所蔵・展示されていることを知りました。横浜・東京から戻ってすぐの火曜日(翌月曜日は休館日)に出かけました。思ったよりも小さな絵です。クレーの絵ではよくあるのですが、画集で知ってから実物を見ると意外と小さいのです。クレーの絵は「大作」といった見せかけのハッタリとは無縁だし、まして日本の画壇の「巨匠」たちのような号あたり何万円といった不動産屋ばりのゲスなソロバン勘定など別の世界の事でしょう。そしてこの小さな絵の中に、駒井さんが見事に描写した燐光の音階、白い五線譜が旋律を奏で、背景の藍のグラデーションが通奏低音を構成しているようです。見ているとワクワクして本当に音楽が聞こえてきそうです。

その聞こえてくる音楽は、駒井さんが書いるようにほとんど確実にモーツァルトの歌劇でしょう。今ならその曲目も特定できます。歌劇『後宮からの逃走』です。ベルモンテやコンスタンツェ他の最後の四重唱でしょうか。実際にこの絵を目にすると暗い背景の中にいかにもトルコ風な館(pavilion)が林立しているのが分かります。また絵の中央部分に八に字上に開くように並べられている円形状のものは舘を繋ぐ灯りのようにも、女官たちの列のようにも見えます。

今はDVDやBSなどの放送や動画などで、モーツァルトの歌劇などいくらでも鑑賞することができます。この絵を見て『後宮からの逃走』を連想することも容易でしょう。しかし、駒井哲郎さんがこれを書いた1952年当時では、日本では音楽関係者か余程の好事家でなければ『後宮からの逃走』など見たことも聞いたこともなかったでしょう。まだ敗戦から7年、LPレコードがようやく出始めた頃です。駒井さんがフランスに留学するのも1954年のことです。その当時に、この絵を見てモーツァルトの音楽それも歌劇の情景とそこからの音楽的感動を読み取ることが出来たその眼力と知性に感嘆するばかりです。

この季節、この日、読みたくなる話

 

どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう?そして子どもは時にずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?

つまり、人形をこわしたからといって泣くか、すこし大きくなってから友だちをなくしたからといって泣くか、それはどっちでも同じことです。この人生では、なんで悲しむかということはけっして問題でなく、どんなに悲しむかということだけが問題です。子どもの涙はけっしておとなの涙より小さいものではなく、おとなの涙より重いことだって、めずらしくありません。


船長ははとばに立って、小さなヨーニーの手をひき、ときどき腕時計を見、待ちかねていました。だが、ヨーニーのおじいさんとおばあさんはきませんでした。いや、こられなかったのです。ふたりはもう何年もまえに死んでしまっていたのですから!おとうさんはただ子どもをふり捨てようと思って、ドイツへ送ったのであって、そのさきのことは考えようとはしなかったのです。

その当時ヨーニーは、じぶんがどんな目に合わされたかがまだよくわかりませんでしたが、大きくなってから、夜、まんじりともしないで泣きあかすことが、いくどもありました。四つの時に加えられたこの悲しみを、彼は一生のあいだ忘れることができないでしょう。彼は気の強い少年ではあるのですけれど。


何ごともなれてしまえば、それまでだよ。とヨーニーはいいました。じぶんの両親をえらぶことはできないしね。ときどきぼくは、両親がぼくを迎えにここに現れた場合のことを考えるが、そうすると、ぼくはひとりでこここにいられるほうがどんなに楽しいかってことに、はじめて気がつくんだよ。それはそうと、船長さんが1月3日にハンブルグに着いて、ぼくをたずね、二日間ベルリンにつれていってくれるって。すてきだろう。彼はあいてに向かってうなずきかけました。心配しないでくれたまえ。ばくはひどく幸福じゃないよ。幸福だといえば、うそになるだろう。しかし、ひどく不幸でもないよ。


エーリッヒ・ケストナー 高橋健二訳 『飛ぶ教室』より

ロシア革命から100年だったのだ

ジョン・リードが伝えたロシア革命

今年はロシア革命から100年にあたり、先日11月7日はレーニン率いるボルシェビキがケレンスキー臨時政府を倒した10月革命から100年だったんですね。もう巷間話題にもなりませんが、ソ連邦崩壊以降は、虐殺と抑圧の歴史のはじまりのようにも考えられて、革命そのものが語られなくなってしまった。私自身も、かつて高橋和巳が情勢論と喝破したような嘘くさい政治論議はしたくありません。ただ、ロシア革命というと、かつてジョン・リードが目撃し描いた下のような世界を思い起こす事にしています。

かくも一生懸命に理解し決定しようと努めている人々を、私は未だかつて見たことがなかった。かれらは身動き一つせず、一種の恐ろしいような熱心さをこめて、演説者をみつめ、思考の努力で眉はしわ寄り、額には汗をにじませて立っていた。子供のような無邪気な澄みきった瞳と、史詩の勇士のような顔をもつ、偉大な巨人たち。・・・・

中略

都市、地方、全戦線、全ロシアのあらゆる兵営でくりかえされつつある、かかる闘争を想像せよ。連隊を見守り、あちこちへ急行し、議論し、脅迫し、懇願する不眠のクルイレンコ(ボルシェビキの軍務人民委員←投稿者注)たちを想像せよ。そして同様なことが、すべての地方の労働組合、工場、村落、遠くはなれたロシア艦隊の軍艦の上、でおこなわれているさまを想像せよ。広大な国のいたるところで演説者を見つめている無数のロシア人たち、一生けんめいで理解しようとし又選ぼうとし、ふかく考えこみー最後には満場一致で決定する労働者、農民、兵士、水兵たちを考えてみよ。ロシア革命とはかかるものだったのだ。・・・・

ジョン・リード著 原光雄訳 『世界をゆるがした十日間』上 岩波文庫 p224-228

この著者のジョン・リードをウォーレン・ベイティが演じた『レッズ』という映画がありました。その中の1シーンです。リードがソビエトの集会に参加しています。周りの労働者にアメリカから来たと知られて発言を促されます。リードは、私には代議権がない。と断ります。労働者は怪訝な顔をしてそんなものは必要ないと言い、リードは驚きながら壇上に上げられます。それまでの西欧的でお上品な、それゆえどこか嘘くさい代議制とか民主主義(的手続き)とは違う働く者・戦う者の意志決定の様子を象徴的に示すシーンでした。


しばらく前に、『ブラッドランド ヒトラーとスターリン大虐殺の真実』上下:ティモシー・スナイダー著という本を読みました。このロシア10月革命からわずか20年後に、西からヒトラー東からスターリンの1,400万人にのぼる非戦闘員の大虐殺がはじまります。この本では、ロシア西部・ウクライナ・ベラルーシ、それにバルト諸国にポーランドをブラッドランド(流血地帯)として、そこでの殺戮の様子を生々しく記述しています。ナチのユダヤ人やロマ・ポーランド人などに対する虐殺は早くから糾弾されてきました。しかし、スターリンとソ連の虐殺は、その現場がソ連国内とソ連支配の東欧にあったために実体が明らかにされてきませんでした。加えて、ソ連がナチと対抗する連合国側であったこと、西側諸国にソ連を擁護する共産党系あるいは民主勢力が、根強くあったため意図的に隠蔽され続けてきたのだとされています。


それでも100年前のロシアには、リードが記録したような本当に働く者が、自らの運命を決定するために文字通り命をかけて戦うという真実の世界があった。それは今でも世界中の進歩と変革を信じる人たちに記憶されるべきだと思います。

私の読んだ岩波文庫版の『世界をゆるがした十日間』の奥付には、

1957年10月25日 第1刷発行
1977年6月20日 第28刷発行

とあります。つまりこの本の日本語訳はちょうどロシア革命から40年後にその第1刷が発行されています。私が買った版はその20年後つまりロシア革命から60年後の発行のものです。たぶん時間をおかずに読んだはずです。それから既に40年が経っています。そうした時間の感覚から言うと100年前は紙の上のかび臭い歴史にしてしまうべきものではない。

私の読んだ『世界をゆるがした十日間』の奥付。40年前!

また引用ですが、自分のための備忘録としてお許しください。

ぼくらが耳を傾けるさまざまな声のなかには、いまや沈黙した声のこだまがまじってはいないか?(中略)もしそうだとすれば、かつての諸世代とぼくらの世代とのあいだには、ひそかな約束があり、ぼくらはかれらの期待をになって、この地上に出てきたのだ。

過去は、ひそやかな向日性によって、いま歴史の空にのぼろうとしている太陽のほうへ、身を向けようとつとめている。あらゆる変化のうちでもっとも目だたないこの変化に、歴史的唯物論者は、対応できなければならない。

ヴァルター・ベンヤミン 「歴史の概念について」野村修編訳・『ボードレール』岩波文庫 p328-330

ロシア革命に関する2冊の本


プロレタリアートは、机上の抽象でなく実体であり、ロシアの唯一の救いだったのだ

それともう1冊、これも随分以前に読んだものですが、ロシア革命を考えるというか感じるために面白い本です。

長谷川毅著 『ロシア革命下 ペトログラードの市民生活』中公新書 1989年

この本は1917年3月から18年5月に至るペトログラードの市民生活を、低俗新聞の社会面に載った記事によって再現するとするものです。ちょうど2月革命から、10月革命を経て、とりあえずボルシェビキにより社会生活の安定がもたらされつつあった期間の記録になります。

この間のことについては、ケレンスキーの臨時政府とその戦争継続政策がとか、レーニンの封印列車と4月テーゼがとか、コルニーロフの反乱とか表立った政治の表面のことは勉強してきました。しかし、実際の当時のロシアの都市や農村、前線の兵隊の状態などなにも具体的なことは知らないし、イメージさえ持てなかった。それをこの本は、当時の低俗新聞の記事の寄せ集めで、生々しく語ってくれています。いわばジョン・リードの本が描いた世界の裏側の事になります。

そこでは、強盗、殺人、脱獄、脱走、ほかありとあらゆる暴力沙汰が横行し、治安機関は無力化しています。意味のなくなった戦争を止めることができないケレンスキーの臨時政府と、なにも具体的に決められないドォーマ(国会)、今のシリアやイラクのような状態だったと思えば良いのでしょうか。そうした中で唯一統制の取れた意志決定のもとに活動できる集団が、工場労働者の労働組合であり、それに兵士・水兵(農民)を加えたソビエトの組織する赤衛隊だった。つまり、プロレタリアートというのは、本の中の概念ではなくて、当時のロシアでは、本当に社会の付託に耐えうるただひとつの実体だったのだ。それが、その後の内戦、内ゲバと粛清、外からの干渉戦争により疲弊し、実体としても解体させられていく。その中で、いかなる選択が可能だったのかという事なんだと感じました。

松下竜一 『その仕事』全30巻 2 大道寺将司さんの句

大道寺将司さんの獄中からの2冊の句集。

松下竜一さんが、『狼煙を見よ』で取り上げた”狼”の大道寺将司さんの俳句です。松下さん、大道寺さんの母親、支援者の荒木さんが立て続けに亡くなった2004年のものです。

その時の来て母環る木下闇こしたやみ

母死せるあした色濃き(がく)の花

悼 松下竜一さん

竜天に夏草の根を引つ摑み

封状の文字の滲みや虎が雨

『棺一基 大道寺将司全句集』より

引用3句目の竜天は、季語の竜天に登ると亡くなった松下さんの名前・竜一をかけたものでしょう。大道寺さんが、亡くなった人が天に登るという発想をしているとは思えません。数少ない掛け替えのない支援者で理解者であった松下さんが亡くなっても、弔いに出向くことも出来ない。それで、拘置所の作業なのでしょうか、運動場の草をむしるしかない。その無聊さと無念さを、天と閉ざされた狭い地を這うように囚われている自分を対比させ詠んでいる。そんなふうに読めます。

相次ぐ訃報を獄中で聞いた2004年というのは、大道寺さんにとっては辛い年だったでしょう。 大道寺将司さんと、お母さんは普通の親子とは違う関係であった、でもかえって、それゆえに深い絆で結ばれていたようです。詳しくは、松下さんの本を読んでいただくとして、松下さんがいなければ、この爆弾無差別殺人犯にそうした情に満ちた生い立ちと家族関係があった事など、知る由もなかったのです。

1句目、2句目はこのやはり看取ることの出来なかった母親の死を悼んだ句です。痛切な思いが伝わってきます。父親が亡くなってから、お母さんは北海道から暑い関東に越して来たそうです。なれない都会で、電車からホームへの転倒による骨折、加齢からくる圧迫骨折を繰り返しながら面会を続けてくれた。その母親を、ようやく涼しい木下闇に還すことなった。また訃報を伝えられた朝に目にしたものに獄屋のガクアジサイがあったのでしょう。そうした目にしたり耳にしたりした自分以外の周りのものに託すように言葉にする事でしか自分の悲しみを表現できない。そうしたことは確かにあるし、あった。大道寺さんは、松下さんか辺見庸に、逆縁にならなかったのが、まだ救いだ。と言ったそうですが、死刑囚の言として、それもつらい。

中学生の頃に習った有名な斎藤茂吉の歌を思い出します。

のど赤き玄鳥つばくらめふたつ屋梁はりにゐて足乳たらちねの母は死にたまふなり

斎藤茂吉というのは、自身精神科医でありながら随分ややこしい人間だったようです。歌壇での論敵に対する執拗で陰湿な攻撃的文章を読むと気分が悪くなります。今のネットでのギスギスして不毛なやり取りのようです。斎藤茂太や北杜夫が茂吉に触れたものを読んでも、どうもすっきりしないものを感じます。今は削除されていますが、wikipediaの茂吉に関する項では、おもに夫人に対する家庭内暴力云々の記述もありました。山形の田舎から、東京の医師の家に15歳で養子に出された三男坊の僻みかと安直に考えたりもします。そういったものが、まったくなかったとも言えないでしょう。生母に対する恩讐入り混じった感情も整理されぬままの喪失の悲しみを言葉にするには、こうした形しかなかったのかなと思います。たまふという敬語使いも、この時代の親に対するものとしては当たり前かもしれませんが、なにかよそよそしさを感じます。一方で、生みの母ではなかった年子(松下さんによる仮名)さんの将司さんに対する深い情愛と、それに応える句という形で残されたものがここにあります。

方寸(ほうすん)に悔数多あり麦の秋

面会の礼状に書き添えた句だそうですが、これも良い句です。


引用の4句目、虎が雨は季語ですが、その文字の滲みは、虎ならぬを名乗った自分の涙によると云うのは、少し深読みのし過ぎでしょうか。

松下竜一 『その仕事』全30巻 1 買ってしまった

物を減らすと言いつつまた増やしてしまいました。買ったものは、松下竜一 『その仕事』 全30巻。古本で送料込みで30,000円弱でした。もちろんアマゾン及びその登録業者からではありません。

松下竜一・『その仕事』30巻。並べるスペースがないので、畳に直置きしている。

きっかけは、松下さんの『狼煙を見よ 東アジア反日武装戦線”狼”部隊』をまた読みたくなったからです。先日亡くなった大道寺将司さんとご両親、その妻・あや子さんと東アジア反日武装戦線について書かれたドキュメントです。ずっと以前に求めて読んだものは、誰かの手元に渡ったまま戻ってきませんでした。松下さんの著作は、地元・四日市の図書館には所蔵が少なく、この『狼煙を見よ』もありません。津市にある三重県立図書館には、『その仕事』全30巻を所蔵していて、四日市図書館を通じて借りていました。たびたび、それを繰り返すのも面倒なのと、これから10年あるいは20年、読書を何年続けられるか分かりませんが、松下さんの本なら手元に置いて、いつでも手に取る事が出来るようにしたいと思いました。

それと、私の連れ合いが、この著作集の中でも1冊をついやして取り上げているある冤罪事件(『記憶の闇 甲山事件<1974→1984>』)の裁判闘争の事務局を務めていました。松下さんは、公判の傍聴やその後の集会にも参加してくれて、知遇を得ています。書かれている文章の通りの、真面目で謙虚な人だったそうです。また、いつも伊藤ルイさんと連れ立って来てくれたとのこと。伊藤ルイさんは、関東大震災の際、甘粕正彦ら憲兵隊により虐殺された大杉栄と伊藤野枝さんの娘さんです。そのルイさんの半生も松下さんは本にされています(『ルイズ 父に貰いし名は 』)。もちろんこれも『その仕事』の中に含まれています。そんな関係もあって、松下さんの本ならばと合意がえられました。

松下さんは、その出世作・『豆腐屋の四季』こそベストセラーになったようですが、家業の豆腐屋をやめて文筆業を始めてからのほうが、かえって生活は苦労なされたようです。それは、『その仕事』30巻に収められている作品の主なテーマを見ても分かります。私などにとっては、いずれも興味深いものなのですが、おそらくは一般受けのしないものばかりでしょう。たとえば、東アジア反日武装戦線や、大杉栄・伊藤野枝の遺児を書いた前掲3書の他にも、

『久さん伝』
大杉栄の仇を取ろうと陸軍大臣を狙撃したアナーキスト・和田久太郎の半生
『とりでに拠る』
大分でのダム建設に反対して、最後まで蜂ノ巣城に篭って戦った宮原知華
『檜の山のうたびと』
ハンセン病歌人・伊藤保の半生
『怒りていう、逃亡には非ず』
ダッカ事件で出獄し日本赤軍コマンドになった一般刑事囚・泉水博のこと
風成かぜなしの女たち』
大分県臼杵で、セメント工場建設のための埋め立てに反対した女性たちの闘争

などなど、一般の人の感覚からみると、こんな本だれが買うのだろう。むしろよく出版してもらえたなあとすら思います。自分の書きたいもの、書かなくてはという思いにのみ從って書き続けたからでしょう。物書きとしては当たり前のようですが、同じように社会的な観点のノンフィクションを書いている澤地久枝さんとか、辺見庸の場合は違う。何が受けるか、何を書いたら売れるのかを一方でちゃんと計算というかリサーチした上でテーマを選んでいるように感じます。それは、彼らが雑誌編集者とか通信社記者という商業主義的媒体にいたということと関係していると思います。30歳までひたすら豆腐屋家業に追われてきた松下さんとは違います。

台湾の木工書・『木工職人 基礎手工具』 
その2 目を通してみた

この『木工職人 基礎手工具』は、運営する木工学校の教科書として編集されたようだ。最専業的木工学習環境と謳っており、サイトの写真だけ眺めても本格的な実技講習をしているように見える。 この本は、その手始めとして基礎手工具としての鑿、鉋、鋸などの使い方、研ぎ方などを解説している。これらの道具は、あらかた日本のものかそれに倣ったもののようだ。

概略は、販売サイトから見ることが出来る。→ 【限時特売】<木工職人基礎手工具>書

表紙カバーの折り返しに、研ぎ角度確認用の切り込みがある。

さっと目を通してみたが、非常によく出来ていると思った。まずは表紙カバーの折り返しに刻まれた角度定規に目が行く。洒落たアイデアだ。教科書としていつも講習や作業の際の手元に置いておき、鑿や鉋の研ぎ角をチェックできる。私自身も、木工をはじめた頃に、25度、30度、35度の切れ込みを入れた定規を2.3ミリの合板で作ってそれを目安にしていた。日本の30年ほども前からのバブリーとも言えた木工雑誌や数多の技法書の類で、こうしたものを見た覚えがない。厚紙の付録にでもすれば簡単に出来ただろうに。こうした雑誌や、書籍の編集者や出版元の目線がどこにあったのかが、いまさら伺いしれるような気がする。以下、他に気がついた点のいくつか書いてみる。

鑿の裏の研ぎをイラストで解説

図版と、写真の使い方がよく考えられている。この点は、私も使った日本の職業訓練校の教科書やいま市中に出回っている木工の技法書のおざなりさとは大違いだ。初心者が悩んだり躓くであろう事が、イラストで説明されている。たとえば、このページでは鑿の裏の研ぎ方について解説されている。この鑿の裏の研ぎというのは、意外に難しい(鉋もそうだが)。油断をするとすぐに瓢箪形になったりベタ裏になったりする。鑿の裏は定規であり、その平面維持が仕事の精度や品格に直結する。この点に関しては、以前にホームページに書いたことがある。

鉋の紐裏・鑿も紐裏

ちなみに鑿の裏研ぎが難しいというのは、とある銘品の鑿の展示をみても思った。これは、神戸の竹中大工道具館に所蔵展示されている善作の鑿。村松貞治郎さんの『道具曼荼羅』でも紹介されている。村松さんの本では、表の画像ばかりが載せられていたので、裏は初めて見た。これは東京の名人といわれた野村棟梁の所有していたもので、棟梁がいかにその鑿を大事に扱っていたかは、本の中のエピソードでも語られている。それにしても残念な状態になってしまっている。あるいは、棟梁の手からこちらに寄贈される前に誰かヤクザな人間に扱われてしまったか、ここでの手入れや研ぎがひどいのか。村松さんの本の写真と比べると、表や刃先もダレたひどい状態になっているから、棟梁の扱いのゆえとは思いたくない。

竹中大工道具館に展示の「善作」の鑿・裏

同じく「善作」の鑿・表

ここには、千代鶴是秀さんの打った組鑿も展示されている。これを大阪の大工が購入した際のエピソードが東京の土田さんよって伝えられている伝説化された銘品(だそうだ)。その大工の死後、アマチュアの好事家の手など経てここに来たらしい。やはり残念な姿だった。なんというか、これで仕事をする或いは仕事をしてきたという凛とした緊張感漂うようなたたずまいがない。よくテキ屋の店頭に並ぶ古道具の、適当にサンダーかペーパーをかけて錆だけは落としましたという風情だ。こちらも経緯は不明だが、道具というのは実際に仕事に使われなくなるとこうなってしまうのかな。なお、竹中大工道具館では他の入場者の迷惑にならない範囲での撮影は許されている。当然ながら、言われなくとも三脚やフラッシュはダメというくらいの常識は持ちたい。


手工具を使った実際の工作方法も書かれている。日本式の鉋を押して使っているのは、ご愛嬌としても、これは、まあアマチュアのやり方の解説になっている。ホゾや胴付を遊びを取って加工して、鑿で仕上げ・修正するように書かれている。こんなことは昔の親方に見られたら、それこそ玄能が飛んできそうな内容だが、それはまた別に書こうと思います。それと、鑿を使った穴の穿ち方も、書かれているのは大工式のやり方で、この辺りも混乱が見られて、最専業的木工学習環境を謳う教科書としては少しさびしい気がする。

『木工職人』のホゾ加工のページ

同じく鑿による穴あけのページ

そういう気になる点は、多々ありながら、とてもよく出来た教科書であることは間違いない。各工程の説明につけられたイラストは、分かりやすくとてもよく出来ている。一方で、日本の職業訓練校用の教科書は、相変わらず古いあまり上等とも分かりやすいとも思えない図版を何十年も使いまわしている状態だ。各地にあるあまたの職業能力開発協会という厚労省の役人の天下り組織は何をやっているのだろう。他方、市販の木工本は、どこかの道具屋や特定の鍛冶の宣伝用カタログのような代物ばかりだ。『○○大全』とか銘打った道具や木工の本が出されるたびにがっかりさせられる。

もうね。かつての半導体や家電がそうであったように、こうした木材の工芸的な技能や職能も台湾や他のアジアの国や地域に奪われていく。それで、インチキな手作りコピーと、薄さ何ミクロンの鉋屑といった非生産的で無益なお遊びだけが残っていく。それも近い、というかもうすでにそうなっているのかと考えさせられます。