ルイス・セプルベダがコロナ肺炎で死んだ

ルイス・セプルベダが死んだ。スペインで新型コロナウイルス肺炎による合併症とのことだ。まだ70歳、若い。私と7歳しか違わないではないか。最近の画像を見ると随分太っていたし、ピノチェト独裁下でその手先やイスラエルのモサドやブラジルの秘密警察などのクズたちによって2年半にわたって虐待されてきた。そのあたりの陰惨なありさまは『パタゴニア・エキスプレス』の前半に書かれている。その後遺症もあるはずだ。

彼の書いたものはみな面白い。といっても私が読んだのは翻訳のある4冊・5作品だけだ。今は読み返す時間がない。ノートに写した抜粋を書き込む。

『ラブストーリーを読む老人』 旦敬介訳

アントニオ・ホセ・ボリーバルは字を読むことはできたが、書くことはできなかった。(中略)

読むのはゆっくりと、音節をつなぎあわせるようにしながら、まるで口のなかで味わうように小さな声に出して呟いていき、単語全体がつながるとひとつに続けて言ってみるのだった。それから文全体についても同じことをやっていき、そうしてページにちりばめられている感情や思想を読み取っていくという具合だった。

ある一節がとくに気に入ると、人間の言語というのもまた存外に美しいものでありうるのだと納得が出来るまで、何度でもくりかえして読んでみるのだった。

読書にはルーペを使った。これは所有物のなかで二番目に大事にしているものだった。一番目は、入れ歯だった。

p39-40

考えないようにしている自分の荒れた過去とはまったく異質な本だけをこれからは読みふけり、記憶の中に開かれている深淵は、果てしない愛の幸福と愛の苦悩で埋めていけばいいのだった。

p80

このアマゾンの川沿いに小屋を建てて一人ラブストーリーを読む老人は、もっとも好ましくも憧れる私のヒーローだ。彼は誇り高き現地の戦士にも認められた狩人で、アマゾンに金目当てにやってくる人間よりも、彼らを襲う山猫と心を通わせる。

『パタゴニア・エキスプレス』 安藤哲行訳

最後にイルカたちが姿を消すと、少年の喉からは鋭い金切り声が、漁師たちを警戒させ鶏を驚かすような甲高い音が出たが、それが一頭のイルカを呼び戻した。


そしてイルカはもどってきた。

パンチートは変わった。おしゃべりで陽気な子になり、自分の体が不自由なのを冗談の種にするくらいになった。急激に変わった。イルカとの遊びは六度の夏のあいだ繰り返された。パンチートは読み書きを、友だちのイルカを描くことを学んだ。ほかの子供たちと同じように網の修繕を手伝い、底荷の準備をし、海産物を干したが、水面を飛び跳ね、彼のためだけに素敵なショーを見せてくれる友だちのイルカといつもいっしょだった。

1990年の夏のある朝、イルカはいつもの約束の時間に姿を見せなかった。漁師たちは心配してイルカを探し、端から端まで海峡を調べた。見つからなかったが、海の殺し屋の一つ、ロシアの工船に出くわした。その船は海峡の二番目の狭い場所のごく近くを航行していた。

二ヶ月後、パンチート・バリーアは悲しみのあまり死んだ。泣きもせず愚痴もこぼさずに眠りについた。

p130-132

訳者の安藤哲行さん、本多勝一と八木啓代さん以外にアメリカ合州国という言葉を使う人がいたんだ。この本、全編どこまでフィクションかセプルベダの体験かわからないような物語が続く。その中でパンチートの話を抜粋した。ロシアの殺し屋ではなく、日本の殺し屋がオーストラリア近海に出没して、調査捕鯨と称して現地のウオッチャーが名前をつけて観察していたクジラを殺していた。その事を思いだしてしまった。

『カモメに飛ぶことを教えた猫』 河野万里子訳

でも本当は、きみは猫じゃない。(中略)きみのおかげでぼくたちは、自分とは違っている者を認め、尊重し、愛することを、知ったんだ。自分と似た者を認めたり愛したりすることは簡単だけど、違っている者の場合は、とてもむずかしい。でもきみといっしょに過ごすうちに、ぼくたちにはそれができるようになった。いいかい、きみは、カモメだ。

p122-123

これはもう教科書にもなっているらしい。大人も素直に読める、ああいい話だ。


『センチメンタルな殺し屋』に併載されている『ヤカレー』が、悲しくもとてもいい。アマゾンの二人の戦士が、自分たちの森の仲間を絶滅させて鞄にしたイタリアのデザインブランド一家を復讐のため殺しにくる。サスペンス仕立ての中に、滅ばされていく者や動物たちへの目がやさしくも痛々しい。 その森の仲間の遺体の中に隠れての決死行が痛快だ。

寺田夏子の墓 3

寺田寅彦之妻
阪井重季長女
寺田夏子の墓むかって左側面 「寺田寅彦之妻/阪井重季長女」とある
明治三十五年十一月十六日/行年二十際
寺田夏子の墓むかって右側面 「明治三十五年十一月十六日/行年二十歳」とある

寺田夏子は1902(明治35)年11月15日、療養(隔離)先の桂浜で亡くなり、19日にこの寺田家の墓所に葬られました。夏子は1883(明治16)年7月10日生まれとされていますから、わずか19歳と4ヶ月を過ぎたばかりとなります。墓誌に行年二十歳とあるからか、20歳で死んだという記述が時々みられますが、それはいわゆる数え年のことです。そうすると「どんぐり」に描かれた小石川公園への散策は寅彦の日記から1901(明治34)年2月3日のこととされていますから、夏子はまだ17歳だった。寅彦自身も23歳の学生です。それを頭においてこの作品を読むとまたひとしおいとおしさがつのります。

寅彦は後年というかもう晩年に、最初の妻・夏子をここに葬ったときの事を書いています。

自分が若くして妻をうしなったときも、ちっとも涙なんか出なかった。ただ非常に緊張したような気持ちであった。親戚の婦人たちが自由自在に泣けるのが不思議な気がした。遺骸を郊外山腹にある先祖代々の墓地に葬った後、なまなましい土饅頭の前に仮の祭壇をしつらえ神官が簡単なのりとをあげた。自分は二歳になる遺児をひざにのせたまま腰をかけてそののりとを聞いていたときに、今まで吹き荒れていた風が突然ないだように世の中が静寂になりそうして異常に美しくなったような気がした。山の木立ちも墓地から見おろされるふもとの田園もおりから夕暮れの空の光に照らされて、いつも見慣れた景色がかつて見たことのない異様な美しさに輝くような気がした。そうしてそのような空の下に無心の母なき子を抱いてうつ向いている自分の姿をはっきり客観した、その瞬間に思いもかけず熱い涙がわくように流れ出した。

「十七 なぜなくか」「自由画稿」 寺田寅彦全集第十巻(岩波書店1962年7月) p63-64

この文章は、「自由画稿」というおそらくは雑誌の連載の随筆のひとつの中にあります。「なぜ泣くか」と題され、人が涙を流す例として瀕死のわが子を治療する医者の話や、テニスンの詩、芥川龍之介の小説などがあげられています。そのなかに以下はある男の告白である。として引用符をつけて、上の文章があります。この「なぜなくか」という論考ははっきりいって冗長でなにが言いたいのかもわからないようなものです。あわせて18題ある「自由画稿」そのものが面白くない。9題目の「歯」というのが父親や自分の入れ歯のことを具体的に扱っていて興味をひくくらいです。このある男の告白の部分だけは唐突に現れ異質でかつ生々しい情景描写になっています。ある男とは寅彦自身であり、これは夏子をこの墓所で葬ったときの記憶とされています。

それならばなぜこんな回りくどい書き方をしたのでしょう。もう晩年となった寅彦にはやはりなくった2番めの妻との間の4人の子どももいますし、再再婚した3番目の妻の紳もいます。いまさら若い日に亡くした妻のことを書くことに気が引けたということもあるでしょう。それと、30年以上経っても一人称で語ることをためらわれるような痛みを引きずっていたしょうか。他にも療養中の夏子を種崎に見舞ったときにその地で行われた盆踊りを書いたものがあります(「田園雑感」(1921(大正10)年7月)。この部分はまた簡潔ながら背景の描写から踊りの様子もいきいきと描かれたとてもよい文章ですが、また別項で引用します。ただ、ここでも寅彦は見舞ったのは肺結核でそこに転地しているある人であり、病人はそれからまもなくなくなったと他人事のような書き方をしています。

寅彦には「どんぐり」の他には夏子を事を直接描いたまとまった作品はありません。ただ「雪ちゃん」という「どんぐり」の前に書かれた(全集の日付から)らしい短編があります。そこでは本来いない亡妹に似ているという雪ちゃんが登場します。

寺田夏子の墓 2

寺田寅彦の墓は高知市北部のわかりにくいところにあります。観光案内にも出ておりません。中土佐町の寺田寅彦先祖の墓なるものがネット検索でヒットしますが、別のものです。某検索エンジンのマップなど示せば簡単でしょうが、私は嫌いなのでやりません。アナログに自分でウロウロしながら、時に道を間違って遠回りするのもたまには良いでしょう。回り道した分その土地の雰囲気など伝わるものがあるでしょう。目印の画像を貼っておきます。ドラッグフォン(麻薬電話←わたしはスマホをこう呼んでいます)の液晶から目を離して顎をあげて探してみてください。

寺田家墓の案内表示

グリーンファーム前の信号交差点北側にある案内表示

県道44号線(高知北環状線)という道路でグリーンファーム一ツ橋店を目指します。道路の南側に面してあります。その向いに動物病院があってその信号交差点に案内の標識があります。そこを北に向かって歩きます。

電柱にある2番めの案内

電柱にある案内表示。ここを左に折れる。

しばらくすると非常に分かりくく見落としてしまいがちですが、電柱に案内の標識がくくられています。そこを左におれて狭い路地を行くと、今度は王子神社の手前・民家の際に比較的見やすい標識があります。

ここからしばらく山道を登る

そこから山道を歩いて登ると高知市教育委員会の看板があります。近辺は道幅も狭く駐車スペースはありません。また山全体が墓地公園のようになっており、寺田家以外のお墓もあるようで、実際にお参りに来ている人もいましたので、その点もよく心得ておいてください。

寺田家の墓。手前が父・利正の墓

寺田家の墓。手前が父・利正の墓

寅彦と3人の妻の墓が並ぶ

手前、寅彦の墓と3人の妻の墓が並ぶ。隣奥に夏子の墓がある。

写真は、手前から寅彦の父・利正、母・亀、寅彦、夏子、寛子(2番めの妻)、しん子(3番目の妻)の墓。男(家長)の墓が女(妻)のそれより随分大きい事に時代で済まされない違和感もっというと嫌悪感を感じます。ただ妻たちの墓もちゃんと独立して設け名前も刻まれています。後で見ますが夏子の埋葬は神式で行われたようなので、土葬されたのかもしれません。

この墓地を1936(昭和11)年3月31日に訪れた時の事を科学史家の矢島祐利が書いています(「先生の墓」『寅彦研究』 昭和11年版・寺田寅彦全集月報第4号)。この時は寅彦の姉が案内をされて、道中いろいろな話を聞いたとあります。

田の中の道を四五町行くと山の麓へ出る。其の山裾を僅か登ったところに先生の墓がある。南向きの山裾であるから、此処から高知の町がよく見える。立派な生垣をめぐらした静な好ましい墓である。眞新しい墓標の前に持ってきた花を捧げて額づいた。

寅彦がなくなってまだ三ヶ月足らずのことで、もうすでにこの頃には、最初に埋葬された夏子の他にも両親、それにやはり早世した二番目の妻の寛子もここに埋葬されていたはずです。同じ矢島祐利が一年後にあらためて墓地を訪ねた時に山裾から墓所を見上げるように撮ったという写真がある(「土佐紀行」『寅彦研究』第8号・昭和12年5月)。古い素人(矢島自身による)写真でわかりにくいが、周りの灌木や草もきれいに狩られめぐらされた生垣がはっきりと見える。これならば確かに墓地からも高知の町がよく見えたことと思います。

それが現状(2018年)では、写真に示すような状態になってしまっています。 墓石は白いコケに覆われ、もう何ヶ月も前に供えられた花は朽ちてそのままになっています。生垣らしきものもすでになく、雑草と灌木がせり出して眺望も良いとは言えません。

寺田家墓地より高知市内の眺望

寺田家墓地より高知市内を眺める。草や灌木が茂りよく見渡せるとは言えない。

寅彦の墓はもう没後二十余年経ったころには世間からは忘れられたようです。1960年8月寅彦の弟子のひとり藤岡由夫が妻を伴ってお詣りされた記事があります(藤岡由夫「寺田先生の墓詣り」『寺田寅彦全集月報』1961年4月)。

裏に墓誌が刻まれているが、二十五年の風雪に荒れて読み難くなっている。(中略)案内をしてくれた人の話によると、都から観光客が時々おまいりに来るそうである。坂本竜馬の墓、寺田寅彦の墓などというのは、すでに、土佐の名所めぐりのコースにはいっているらしい。しかし人の来た足跡が何もないところをみると、たいして大勢の人も来ないのであろう。

私の妻は、先生のお墓詣りをしてから、ひどく憂鬱になった。寺田先生のような立派なかたの墓に、しげしげと墓詣りをしてくれるような親しい人々はまわりにだれもない。(注略)私も妻につられて、いいしれぬさびしさを覚え、先生の面影のなかで、特にさびしげな面を頭に思い浮かべながら、土佐の海岸の観光にむかった。

その後、私たちも海岸にむかった。私は寺田夏子がその晩年を療養という名の隔離生活を送った種崎と桂浜を見ておきたかった。道中、どこでも龍馬、龍馬でマラソン大会の名称にもなっている。他に観光資源を思いつかないのだろうか。桂浜の銅像はひっそり太平洋を眺めている小さいものと勝手に想像してが、なんだか北朝鮮の独裁者親子のそれを思い浮かべるような大きなもので威圧感すら感じて不気味でした。

寺田夏子の墓 1

最近、あまり良い夢を見ません。新型コロナウィルス肺炎の報道を見たり聞いたりしているせいかとも思います。私は、もともと人混みが嫌いで、不要不急などと言われるまでもなく用もなく出歩くことはありません。外で飲むのは嫌いですし、外で食事をすることもほとんどありません。先日、連れ合いの誕生日で市内の某Mホテルでお昼に食事をしましたが、それ以前にはいつ行ったかすぐには思い出せないくらいです。この2年ほどは兼業主夫生活で2日か3日に一度魚や野菜などの生鮮食品の買い出しに出ますが、それは仕方がない。郊外型の大型スーパーに車で出かけてまとめ買いをすれば、買い物に出る頻度は減るでしょうが、そうした高炭素消費な生活の仕方は私が最も忌み嫌うもののひとつです。ちなみ歩いて無理なく行ける範囲で、八百屋・肉屋・魚屋を見つけてあります。それに加えて他の商品も販売する公設市場もあります。そうした対面で古新聞にくるんで商品を渡してくれるようなお店がよくぞ生き残ってくれていたと感謝しますが、これで車を捨てても買い物難民になる心配がなくなりました。

私の場合自粛とかいわれても、これまでの生活と今のそれはたいした違いはありません。強いていえばコンサートとか映画とか展示会に出かけていないことくらいか。宗次ホールしらかわホール電気文化会館・コンサートホールも3月からは軒並み公演は中止している。シネマスコーレシネマテークは頑張って上映を続けているし、応援の意味でも出かけたいが、両館ともビルのフロアを使った上映館で密閉・高密度の2密がやはり気になるし、名古屋まで出かける電車のリスクもある。私は、映画やコンサートや美術展にそう頻繁に出かけていたわけではないが、当たり前にそうした場があって何かしら企画があって、そのスケジュールを眺めて物色する。そうした習慣化された日常が、実際に出かけなくても気休めになっていたと今になると分かります。


久しぶりの更新で、読んでくださっている人のせめてもの気休めに新型コロナウィルス肺炎以外の記事にします。書きためて公開していないものに手を入れて、私自身の気休めです。


もう2年前の冬のことになります。その年は強い寒波が2度おそいましたが、その1度目の最中の 1月の24日(水)から27日(土)まで、3泊4日で四国へ行ってきました。その3月で定年となる連れ合いが有給消化でまとまった休みが取れたこともあって二人で出かけました。旅程も費用も相方に任せっきりでしたが、以前から四国に行くなら行ってみたいと思っていたところがありました。

寺田寅彦に『どんぐり』という短い随筆があります。これは寅彦が夏目漱石に推められて『ホトトギス』に発表した初めての文芸作品だそうです。19歳で亡くなった寺田の最初の妻・夏は、身重の体で結核を患います。小康を得た冬の日、近くの小石川公園に出かけたおりの事が書かれています。私はこの「どんぐり」が大好きです。寅彦の切々とした深い哀惜の気持ちが伝わってきます。悲しいだとか、号泣したとかいったよくあるSNSやら三文ブログの定型文のようなものは一切ありません。そうしたものは、亡くなった人を偲び悼むというより、こんなにも悲しんでいるボク・私カワイイと言いたいだけのようで、読まされていると時に不愉快になる場合すらあります。知人の葬儀や告別式に参加した芸能人と称される人の嘘泣きを見せられてしまった時と同じです。

高知市北部に寺田寅彦一家の墓があり、そこには寅彦の両親と若くして亡くなった二人を含む三人の妻の墓もあるとの事。そちらに行きたい。そこで、寅彦により始めと終わりの悲惨であったと書かれた最初の妻・夏子の墓を参りたい。また夏子は結核療養の最後の日々を地元でと呼ばれていた種崎とその対岸の桂浜の集落で過ごしたという。時間があれば、そこも訪れたい。別に坂本龍馬の銅像なんて私はどうでもよい。

お墓は地元で北部環状線と呼ばれる国道44号線の北側の東久万という地区の小高い山の中腹にあります。いまはその際まで宅地が迫っていますが、夏子の埋葬された1905年(明治35年)頃は山裾の静な埋葬地(墓地)であったことでしょう。訪れることはできませんでしたが、ここからさらに山を登ると寺田家の先祖の墓があるようですし、一段低いところでは他家の墓があるのかお参りに来ている家族がありました。この寺田寅彦のお墓は、もう史跡と考えてよいのかあるいはあくまでも私的な墓地と考えるべきか迷います。墓地の入り口には高知市教育委員会による説明の看板が立てられています。また国道からこの墓地に至るまでに少なくとも3ヶ所に任意の団体が設置してくれた案内表示がありました。こうしたものを見ると市や地元にとっては寺田家(寺田寅彦)の墓は史跡と考えられているようです。戻ってからあらためて寺田寅彦の古い全集(1936〜38年・文学篇全16巻、1950〜51年・同全集増補版全18巻、1960〜62年全集全17巻)の『月報』の類をあたると、寅彦の墓の訪問記のようなものもいくつかあり、写真も載せられている。それならばここで寅彦や夏子の墓の写真を載せても許されるかと思いました。

寺田夏子の墓 2018年1月
RICOH GXR S10

『どんぐり』では、幼い身重で当時では不治の病を抱えた妻との冬の1日ことが淡々としかし深い慈しみと愛情を込めて書かれています。後段では、その妻とともに訪れた公園に忘れ形見の娘をともないます。そして同じようにどんぐりを喜んで拾う子に対して、次のように呼びかけて終わります。ここではじめて亡くした妻に対する哀惜の情が吐露されていますが、そのあくまで抑えた筆致がよりその深い悲しみをあらわしているように思います。

余はその罪のない横顔をじっと見入って、亡妻のあらゆる短所と長所、どんぐりがすきな事も折り鶴のじょうずな事も、なんにも遺伝してさしつかえはないが、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくはないものだと、しみじみそう思ったのである。

古いノート 補足

年をとると色々とだらしなくいい加減にすませてしまう事が増えてくるのですが、一方でつまらない事に妙に拘泥してしまいます。この投稿もそのひとつです。


前の投稿の冒頭にあげた野村修先生のベンヤミンの訳文はずいぶんわかりにくい。はっきり言えば悪文です。校正のため読み返した時にも、これをエディタに移す時のタイプミスで改行を一列間違って行をダブらせたり飛ばしたのかもしれないと思ったほどです。

私は、前にも書きましたが(マリー・Aの思い出・『ハンス・アイスラーとベルトルト・ブレヒト』)、ブレヒトもベンヤミンも、それにハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーもほとんどが野村先生の訳で読みました。ワイマール期のドイツの文化に関しても先生の著作で勉強しました。ブレヒトの詩など訳文というよりほとんど先生の創作と言って良いような素敵なものがたくさんあります。それでも生意気を言わせてもらうと先生の翻訳にはこうした悪文というか分かりにくいものがたまにあります。それに死を、死んだという独特の言い回しを訳文でも自身の表現としてもよく使っています。何か考えや思いがあっての事でしょうが、これもやはりなじめません。

このベンヤミンのChinawarenという著作の抜粋の別の人(細見和之)の訳を投稿の末尾に置いておきます。前の投稿でもその断片に触れています。新たに原文にない改行を加えるなどの工夫もされており、こちらのほうがはるかにわかりやすいし日本語として意味が通っています。参照下さい。なお、ベンヤミンの原文は、こちらにあります。

CHINAWAREN

それでも前の投稿で細見和之さんの訳ではなく、野村先生の訳を引用したのは、そこで書いたとおり文筆文化という訳が絶妙ですばらしいと思ったからです。それとこの文章の表題Chinawarenを、野村先生は中国工芸品店と訳しています。これも字面だけ見れば細見さんの陶磁器でいいというかそれがまっとうで、中国工芸品店というのはあまりに意訳過ぎるように思います。

この著作の末尾には中国(人)の筆写云々という文章が結語のように置かれています。Chinaという言葉が、海外では磁器(または陶器も含めた焼き物全体)を指すという事を知っている人なら陶磁器という表題とこの中国云々という結語を関連付けることも容易でしょう。でもどうなんでしょう。我々のように工芸とかインテリア関係の業界にいる人間以外にはよくわからないのではと思います。野村先生はそこまで考えて敢えて超意訳とも言える中国工芸品店という表題にしたのではないでしょうか。翻訳というのは本来そこまで考えて行うべきことかなと思います。


陶磁器

前略

街道の放つ力は、そこを歩いてゆくのか、その上を飛行機で飛ぶのかで異なる。同様に、文章の放つ力は、それを書き写すのか、たんに読むのかで異なる。空を飛ぶ者が目にするのは、道が風景のなかをうねうねと進んでゆく姿だけであって、彼にとってその道は、周囲の地形と同じ法則にしたがって伸び拡がっている。道を歩いてゆく者だけが、その道の発揮している支配力を、身をもって知る。空を飛ぶ者にとってはたんに伸び広がった平面にすぎない一帯から、道は、曲がるたびに、遠景や見晴らし台や間伐地や眺望やらを、命令で呼び出すのである。・・・ちょうど指揮官の号令によって兵士たちが前線から呼び戻されるように。

同様に、書き写された文章のみが、それに取り組んでいる者の魂に命令を発することができるのであって、たんなる読み手はその文章の内部の新たな相貌、その文章があの道のように、どんどん密になってゆく内部の原始林をとおりながら切り拓いてゆく新たな相貌を、知ることはない。なぜなら、たんに読む者が夢想という自由な中空を漂いつつ、自らの自我の運動にしたがうのに対して、書き写すものは自我の運動を命令にしたがうようにさせるからである。したがって、中国の筆写技術は文芸文化の比類なき保証であり、写本は中国の謎を解くひとつの鍵だったのである。

ヴァルター・ベンヤミン 『この道、一方通行』 細見和之訳 みすず書房 p17

古いノート


街道の持つ力は、その道を歩くか、あるいは飛行機でその上を飛ぶかで、異なってくる。それと同様に、あるテクストのもつ力も、それを読むのか、あるいは書き写すかで、違ってくる。飛ぶ者の目には、道は風景のなかを移動してゆくだけであって、それが繰り拡げられてくるしかたは、周辺の地形が繰り拡げられてくるしかたにひとしい。道を歩く者だけが、道の持つ支配力を経験する。つまり、飛ぶ者にとっては拡げられた平面図でしかないその当の地形から、道を歩く者は、道が絶景や遠景を、林の中の草地や四方に拡がる眺望を、曲折するたびごとに、あたかも指揮者の叫びが戦線の兵士を呼び出すように、呼び出すさまを経験するのである。同様に、あるテクストに取り組む人間の心を指揮するのは、書き写されたテクストのほうだけであって、これに反してたんに読む者は、テクストの内部のさまざまな新しい眺めを、けっして知ることがない。テクストとはしだいに濃密になってゆく内面の森林を通り抜ける街道なのだが、それがどのように切り拓かれていったのかは、たんに読む者には分かりようがない。なぜなら、読む者は夢想という自由な空域にあって、自分の自我の動きに従っているのだから。しかし、書き写す者のほうはその自我の動きを、テクストの動きに従わせている。したがって、中国人の筆写の作業こそは、文筆文化を比類なく保証するものだったのであり、写本は、中国という謎を解明するひとつの鍵である。

ヴァルター・ベンヤミン 「中国工芸品店」 「一方通行路(抄)」『暴力批判論』 野村修訳 岩波文庫より p166-167

引っ越しにともなって古いノートの類がたくさん出てくる。もうたいていは捨ててしまったつもりだったのだが、他の書類になど混ざっていたものを発掘した。下の画像は学生時代に戦前の社会運動(全国水平社と全農全会派・全協および共産党・コミンテルンとの関係)について調べていた時のノートだ。学校の課題ではなく当時身を投じていた運動の関係で興味と使命感にかられて相応に頑張って史資料を集めて読み込んでいた。どうやら大学の図書館(たぶん人文研)からドイツ語のコミンテルンの議事録まで借りて目次・目録まで作っているから、まあ若かったというかよくやるよと感心する。それに40年前はこんなに細かい字で丁寧にノートを作っていたのだ。なにも昔から大雑把でいいかげんな人間ではなかったのだと神妙な気持ちになる。

学生時代の古いノート 1
「全協」結成前後の年譜


学生時代の古いノート 2
コミンテルン文書の抜粋


学生時代の古いノート 3
コミンテルン第6回大会議事録をドイツ語版から

今は、もう若い時のような根気もエネルギーも持ち合わせていないが、何かを調べたいと思った時にはそれになりに史資料にあたる。それもたいていは紙のそれだ。理由は簡単で今でもまともな文献や史資料というのは紙の上にしかないからだ。その上で必要と思われる箇所をノートやレポート用紙に書き写すというやり方を40年近く墨守している。下の画像は最近のノートで、今は中断してしまっているこのブログで藤田嗣治について書いた時に作ったものだ(「藤田嗣治の戦争画について 1」「同 2」)。あと実朝の記事(「鎌倉右大臣・実朝の『雨やめたまえ』の歌」)の時も作ったノートがあるし、そのうち投稿しようとおもっている寺田夏子に関しても作っている。こうした作業も今ならOCRソフトを使って電子化してコピー&ペーストでやってしまえる。それでも手書きでの抜粋をメインにノートを作っているのは、こうしないと私は思考の道筋がつけられないのだ。

藤田に関する年譜をノートしている

田中穣の藤田に関する著作からの抜粋。

ベンヤミンがこれを書いた1920年代には、もちろんワープロもパソコンもないのだがタイプライターはすでに標準化され普及していたようだ。ここでベンヤミンが書き写す(原文ではabschreibenとなっている。)としているのは、あくまでもペンを使っての作業を指していると思う。中国の例をあげてることからも分かるし、アドルノによれば、

とうにタイプライターが支配的であった当時において、彼ができるだけ手書きをしていたことは特徴的である。彼は書くという肉体的行為によって、快楽を与えられたのであり、彼は好んで抜粋、清書を作ったが、一方機械的な補助手段に対しては、嫌悪感で一杯であった。

T・W・アドルノ 『ヴァルター・ベンヤミン』 大久保健治訳 河出書房新社 p87

とある。ベンヤミンはあくまでも肉体的行為である手書きによる書き写しにこそ意味があるとしているのだ。その意味で、野村修先生がここでは、literarischer Kulturを、文化と訳しているのは、さすがだと感心させられる。ちなみに他の人の訳ではふつうに文芸文化(細見和之訳 『この道、一方通行』みすず書房)となっている。

今、こうしてベンヤミン著・野村修訳の著書などの抜粋・引用をディスプレイを眺めながらキーボードを叩いて行っているのだが、これは書き写しと言えるのだろうか?違うと思う。こうした場合、元の紙のテキストとディスプレイのエディターの文字を交互に眺めながらひたすらタイプミスと変換間違いにのみ神経を集中させている。極論すればOCRソフトがやる仕事を代行しているにすぎないとも言える。したがってよくやる間違いなのだが、改行を一列間違って行をダブらせたり飛ばしたりということすらある。新しい眺めしだいに濃密になってゆく内面の森林どころか文脈すら追っていないのだ。

紙のテクストをエディタに移す。

「棹さす」という表現について

以前の記事(「駒井哲郎さんの事 4 ギャラリー椅子の仕様」)でこんな表現をしていました。

それにこうした安易に接着剤に頼ったやり方が、確実に若い「木工家」のスキルを低下させています。われわれロートル世代くらいはこうした安直な傾向に棹さしていったほうが良いと思っています。

この棹さしてという表現は、間違っているのではないかと、工房 悠の杉山裕次郎さんからメールで指摘されました。ここの[棹さす]ですが、言いたいことの意味は、たぶんその逆ですね。という事で具体的に参考サイトまで付けて頂きました。ありがたいことです。

棹さす

さおを水底につきさして、船を進める。転じて、時流に乗る。また水流にさからう意に誤用することがある。

広辞苑第6版

手元の『広辞苑』第6版には以上のようにあります。まさに誤用しておりました。この広辞苑にも引用されている夏目漱石の『草枕』の有名な冒頭の一節情に棹させば流されるも、あえて情に抗って我慢しても結局は流されていってしまうだけだ云々という意味だと思い込んでいました。恥ずかしい限りです。普段、日本語の表現に関してもエラそうな事を言っている手前、こっそり指摘された部分だけ訂正して知らん顔もできません。それに私と同じような誤用をされている人も他にもいらっしゃるかもしれません。htmlのdelとかinsというタグはこうした時のためにあるとのだと自分を納得させています。

今回は、たとえ嫌われても間違ったことは放っておけないという杉山さんの性格から指摘を頂きました。別にこうした事に限らず誤りを指摘されるうちがハナだと思っています。どうぞ色々ご指摘ご指導ください。

年明け最初は内田百閒を読んだ

暦の上で年が明けたからといって、あらたまって事をいたすなど久しくしなくなった。それでも新年にまず何を読むかは少しは気にする。かと言ってたとえば昨年の正月に何を読んだと記憶しているわけではない。ただあらたまった気分の中、ネットを開いて汚い言葉やひどい日本語だけは目にしたくないと思っている。

今年は内田百けん(機種依存文字。門構えに月)の『ノラや』(内田百閒集成9・ちくま文庫)にした。昨年末のペットロス状態から百閒翁の猫ロスで取り乱した様を読んだら、少しは慰みになるかとも考えた。冒頭に置かれた「猫」という短編から圧倒される。化け猫という言葉に象徴される猫にまつわる妖気とか禍々しさを、その猫自体の描写を一切なさずに著している。逆にそのことによってこの猫の妖気とそこから「私」にまとわりつくような恐怖と悪寒が滲み出される。後で引用する三島由紀夫の言う究極の正確さをただニュアンスのみで暗示し鬼気の表現に卓越している世界がここにもある。

内田百閒の文章は、三島によれば少しも難しい観念的な言葉遣いなどしていないこう書けばこう受けるとわかっている表現をすべて捨てて、いささかの甘さも自己陶酔も許容せず、しかもこれしかないという、究極の正確さをただニュアンスのみで暗示している。そうした言葉の洗練の極のゆえか、百閒の文章は3次元的なまたそれに時間もふくめた4次元的なイメージを沸々と呼び覚ます。それは、鈴木清順や黒澤明といった映像美にとりわけ強いこだわりをもった映画監督が百閒の作品の映像化を試みていることからもわかる気がする。私もある事件(一生引きずるであろう忘れてはいけないもの)のあとそれにまつわる夢をなんども見た。それが、百閒のある作品(「冥途」)の中に再現されているように思われて恐ろしかった。今は、その夢と百閒の作品が渾然となってその境がわからなくなったと思うことがある。

同じ漱石の弟子に中勘助がいる。彼の『銀の匙』は学生時代に遠距離をしていたかつての同級生に送ってもらって読んだ。しかし彼の作品で面白いのはこれだけで(その1編が本当にすばらしいのだが)、あとは自分の兄が嫌いで一方その兄嫁にほとんど恋愛感情な好意を抱いているといった内容の私生活暴露な「小説」ばかりだった。百閒の作品はどれも素敵に面白い。すくなくとも私の持っているちくま文庫の「内田百閒集成」12巻の中にハズレというか駄作はない。これは本当に驚くべきことなのだ。

百閒の文章を手本にしていると言えばあまりにおこがましい。ただ彼の文章を何編か読めば、その虜になるでしょう。それほど魅力的でやはり日本語の文章表現の手本であると思う。そのことは同じく稀有の美文家であった三島由紀夫の百閒に対する絶賛をこめた分析がすばらしく的確で、これまた感心させられる。もっとも三島という人は先達はもちろん同時代の作家に対してもいつも好意的な批評を行っていて、ずいぶん気遣いの細やかな人だったのだと思う。


<内田百閒>解説

三島由紀夫

現代随一の文章家

もし現代、文章というものが生きているとしたら、ほんの数人の作家にそれを見るだけだが、随一の文章家ということになれば、内田百閒氏を挙げなければならない。たとえば「磯辺の松」一遍を読んでみても、洗練の極、ニュアンスの極、しかも少しも繊弱なところのない、墨痕あざやかな文章というもののお手本に触れることができよう。これについてはあとに述べるが、アーサー・シモンズは、文学でもっとも容易な技術は、読者に涙を流させるとことと、猥褻感を起こさせることであると言っている。この言葉と、佐藤春夫氏の文学の極意は怪談であるという説を照合すると、百閒の文学の品質がどういうものかわかってくる。すなわち、百閒文学は、人に涙を流させず、猥褻感を起こさせず、しかも人生の最奥の真実を暗示し、一方、鬼気の表現に卓越している。このことは、当代切ってのこの反骨の文学者が、文学の易しい道を悉く排して難事を求め、しかもそれに成功した、ということを意味している。百閒の文章の奥深く分け入って見れば、氏が少しも難しい観念的な言葉遣いなどをしていないのに、大へんな気むずかしさで言葉をえらび、こう書けばこう受けるとわかっている表現をすべて捨てて、いささかの甘さも自己陶酔も許容せず、しかもこれしかないという、究極の正確さをただニュアンスのみで暗示している。(中略)それは細部にすべてがかかっていて、しかも全体のカッキリした強さを失わない、当代稀な純粋作品である。

後略

『サラサーテの盤』内田百閒集成4 ちくま文庫所収