寺田夏子の墓 2

寺田寅彦の墓は高知市北部のわかりにくいところにあります。観光案内にも出ておりません。中土佐町の寺田寅彦先祖の墓なるものがネット検索でヒットしますが、別のものです。某検索エンジンのマップなど示せば簡単でしょうが、私は嫌いなのでやりません。アナログに自分でウロウロしながら、時に道を間違って遠回りするのもたまには良いでしょう。回り道した分その土地の雰囲気など伝わるものがあるでしょう。目印の画像を貼っておきます。ドラッグフォン(麻薬電話←わたしはスマホをこう呼んでいます)の液晶から目を離して顎をあげて探してみてください。

寺田家墓の案内表示

グリーンファーム前の信号交差点北側にある案内表示

県道44号線(高知北環状線)という道路でグリーンファーム一ツ橋店を目指します。道路の南側に面してあります。その向いに動物病院があってその信号交差点に案内の標識があります。そこを北に向かって歩きます。

電柱にある2番めの案内

電柱にある案内表示。ここを左に折れる。

しばらくすると非常に分かりくく見落としてしまいがちですが、電柱に案内の標識がくくられています。そこを左におれて狭い路地を行くと、今度は王子神社の手前・民家の際に比較的見やすい標識があります。

ここからしばらく山道を登る

そこから山道を歩いて登ると高知市教育委員会の看板があります。近辺は道幅も狭く駐車スペースはありません。また山全体が墓地公園のようになっており、寺田家以外のお墓もあるようで、実際にお参りに来ている人もいましたので、その点もよく心得ておいてください。

寺田家の墓。手前が父・利正の墓

寺田家の墓。手前が父・利正の墓

寅彦と3人の妻の墓が並ぶ

手前、寅彦の墓と3人の妻の墓が並ぶ。隣奥に夏子の墓がある。

写真は、手前から寅彦の父・利正、母・亀、寅彦、夏子、寛子(2番めの妻)、しん子(3番目の妻)の墓。男(家長)の墓が女(妻)のそれより随分大きい事に時代で済まされない違和感もっというと嫌悪感を感じます。ただ妻たちの墓もちゃんと独立して設け名前も刻んでいるのは当時のこの地方の習俗からみてもどうなんでしょうか。後で見ますが夏子の埋葬は神式で行われたようなので、土葬されたのかもしれません。そうするとここに葬られた6人はそれぞれ土葬され後にその上にお墓が立てられたようにも考えられますが、それは私の根拠もない想像です。

この墓地を1936(昭和11)年3月31日に訪れた時の事を科学史家の矢島祐利が書いています(「先生の墓」『寅彦研究』 昭和11年版・寺田寅彦全集月報第4号)。この時は寅彦の姉が案内をされて、道中いろいろな話を聞いたとあります。

田の中の道を四五町行くと山の麓へ出る。其の山裾を僅か登ったところに先生の墓がある。南向きの山裾であるから、此処から高知の町がよく見える。立派な生垣をめぐらした静な好ましい墓である。眞新しい墓標の前に持ってきた花を捧げて額づいた。

寅彦がなくなってまだ三ヶ月足らずのことで、もうすでにこの頃には、最初に埋葬された夏子の他にも両親、それにやはり早世した二番目の妻の寛子もここに埋葬されていたはずです。同じ矢島祐利が一年後にあらためて墓地を訪ねた時に山裾から墓所を見上げるように撮ったという写真がある(「土佐紀行」『寅彦研究』第8号・昭和12年5月)。古い素人(矢島自身による)写真でわかりにくいが、周りの灌木や草もきれいに狩られめぐらされた生垣がはっきりと見える。これならば確かに墓地からも高知の町がよく見えたことと思います。

それが現状(2018年)では、写真に示すような状態になってしまっています。 墓石は白いコケに覆われ、もう何ヶ月も前に供えられた花は朽ちてそのままになっています。生垣らしきものもすでになく、雑草と灌木がせり出して眺望も良いとは言えません。

寺田家墓地より高知市内の眺望

寺田家墓地より高知市内を眺める。草や灌木が茂りよく見渡せるとは言えない。

寅彦の墓はもう没後二十余年経ったころには世間からは忘れられたようです。1960年8月寅彦の弟子のひとり藤岡由夫が妻を伴ってお詣りされた記事があります(藤岡由夫「寺田先生の墓詣り」『寺田寅彦全集月報』1961年4月)。

裏に墓誌が刻まれているが、二十五年の風雪に荒れて読み難くなっている。(中略)案内をしてくれた人の話によると、都から観光客が時々おまいりに来るそうである。坂本竜馬の墓、寺田寅彦の墓などというのは、すでに、土佐の名所めぐりのコースにはいっているらしい。しかし人の来た足跡が何もないところをみると、たいして大勢の人も来ないのであろう。

私の妻は、先生のお墓詣りをしてから、ひどく憂鬱になった。寺田先生のような立派なかたの墓に、しげしげと墓詣りをしてくれるような親しい人々はまわりにだれもない。(注略)私も妻につられて、いいしれぬさびしさを覚え、先生の面影のなかで、特にさびしげな面を頭に思い浮かべながら、土佐の海岸の観光にむかった。

その後、私たちも海岸にむかった。私は寺田夏子がその晩年を療養という名の隔離生活を送った種崎と桂浜を見ておきたかった。道中、どこでも龍馬、龍馬でマラソン大会の名称にもなっている。他に観光資源を思いつかないのだろうか。桂浜の銅像はひっそり太平洋を眺めている小さいものと勝手に想像してが、なんだか北朝鮮の独裁者親子のそれを思い浮かべるような大きなもので威圧感すら感じて不気味でした。

寺田夏子の墓 1

最近、あまり良い夢を見ません。新型コロナウィルス肺炎の報道を見たり聞いたりしているせいかとも思います。私は、もともと人混みが嫌いで、不要不急などと言われるまでもなく用もなく出歩くことはありません。外で飲むのは嫌いですし、外で食事をすることもほとんどありません。先日、連れ合いの誕生日で市内の某Mホテルでお昼に食事をしましたが、それ以前にはいつ行ったかすぐには思い出せないくらいです。この2年ほどは兼業主夫生活で2日か3日に一度魚や野菜などの生鮮食品の買い出しに出ますが、それは仕方がない。郊外型の大型スーパーに車で出かけてまとめ買いをすれば、買い物に出る頻度は減るでしょうが、そうした高炭素消費な生活の仕方は私が最も忌み嫌うもののひとつです。ちなみ歩いて無理なく行ける範囲で、八百屋・肉屋・魚屋を見つけてあります。それに加えて他の商品も販売する公設市場もあります。そうした対面で古新聞にくるんで商品を渡してくれるようなお店がよくぞ生き残ってくれていたと感謝しますが、これで車を捨てても買い物難民になる心配がなくなりました。

私の場合自粛とかいわれても、これまでの生活と今のそれはたいした違いはありません。強いていえばコンサートとか映画とか展示会に出かけていないことくらいか。宗次ホールしらかわホール電気文化会館・コンサートホールも3月からは軒並み公演は中止している。シネマスコーレシネマテークは頑張って上映を続けているし、応援の意味でも出かけたいが、両館ともビルのフロアを使った上映館で密閉・高密度の2密がやはり気になるし、名古屋まで出かける電車のリスクもある。私は、映画やコンサートや美術展にそう頻繁に出かけていたわけではないが、当たり前にそうした場があって何かしら企画があって、そのスケジュールを眺めて物色する。そうした習慣化された日常が、実際に出かけなくても気休めになっていたと今になると分かります。


久しぶりの更新で、読んでくださっている人のせめてもの気休めに新型コロナウィルス肺炎以外の記事にします。書きためて公開していないものに手を入れて、私自身の気休めです。


もう2年前の冬のことになります。その年は強い寒波が2度おそいましたが、その1度目の最中の 1月の24日(水)から27日(土)まで、3泊4日で四国へ行ってきました。その3月で定年となる連れ合いが有給消化でまとまった休みが取れたこともあって二人で出かけました。旅程も費用も相方に任せっきりでしたが、以前から四国に行くなら行ってみたいと思っていたところがありました。

寺田寅彦に『どんぐり』という短い随筆があります。これは寅彦が夏目漱石に推められて『ホトトギス』に発表した初めての文芸作品だそうです。19歳で亡くなった寺田の最初の妻・夏は、身重の体で結核を患います。小康を得た冬の日、近くの小石川公園に出かけたおりの事が書かれています。私はこの「どんぐり」が大好きです。寅彦の切々とした深い哀惜の気持ちが伝わってきます。悲しいだとか、号泣したとかいったよくあるSNSやら三文ブログの定型文のようなものは一切ありません。そうしたものは、亡くなった人を偲び悼むというより、こんなにも悲しんでいるボク・私カワイイと言いたいだけのようで、読まされていると時に不愉快になる場合すらあります。知人の葬儀や告別式に参加した芸能人と称される人の嘘泣きを見せられてしまった時と同じです。

高知市北部に寺田寅彦一家の墓があり、そこには寅彦の両親と若くして亡くなった二人を含む三人の妻の墓もあるとの事。そちらに行きたい。そこで、寅彦により始めと終わりの悲惨であったと書かれた最初の妻・夏子の墓を参りたい。また夏子は結核療養の最後の日々を地元でと呼ばれていた種崎とその対岸の桂浜の集落で過ごしたという。時間があれば、そこも訪れたい。別に坂本龍馬の銅像なんて私はどうでもよい。

お墓は地元で北部環状線と呼ばれる国道44号線の北側の東久万という地区の小高い山の中腹にあります。いまはその際まで宅地が迫っていますが、夏子の埋葬された1905年(明治35年)頃は山裾の静な埋葬地(墓地)であったことでしょう。訪れることはできませんでしたが、ここからさらに山を登ると寺田家の先祖の墓があるようですし、一段低いところでは他家の墓があるのかお参りに来ている家族がありました。この寺田寅彦のお墓は、もう史跡と考えてよいのかあるいはあくまでも私的な墓地と考えるべきか迷います。墓地の入り口には高知市教育委員会による説明の看板が立てられています。また国道からこの墓地に至るまでに少なくとも3ヶ所に任意の団体が設置してくれた案内表示がありました。こうしたものを見ると市や地元にとっては寺田家(寺田寅彦)の墓は史跡と考えられているようです。戻ってからあらためて寺田寅彦の古い全集(1936〜38年・文学篇全16巻、1950〜51年・同全集増補版全18巻、1960〜62年全集全17巻)の『月報』の類をあたると、寅彦の墓の訪問記のようなものもいくつかあり、写真も載せられている。それならばここで寅彦や夏子の墓の写真を載せても許されるかと思いました。

寺田夏子の墓 2018年1月
RICOH GXR S10

『どんぐり』では、幼い身重で当時では不治の病を抱えた妻との冬の1日ことが淡々としかし深い慈しみと愛情を込めて書かれています。後段では、その妻とともに訪れた公園に忘れ形見の娘をともないます。そして同じようにどんぐりを喜んで拾う子に対して、次のように呼びかけて終わります。ここではじめて亡くした妻に対する哀惜の情が吐露されていますが、そのあくまで抑えた筆致がよりその深い悲しみをあらわしているように思います。

余はその罪のない横顔をじっと見入って、亡妻のあらゆる短所と長所、どんぐりがすきな事も折り鶴のじょうずな事も、なんにも遺伝してさしつかえはないが、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくはないものだと、しみじみそう思ったのである。

古いノート 補足

年をとると色々とだらしなくいい加減にすませてしまう事が増えてくるのですが、一方でつまらない事に妙に拘泥してしまいます。この投稿もそのひとつです。


前の投稿の冒頭にあげた野村修先生のベンヤミンの訳文はずいぶんわかりにくい。はっきり言えば悪文です。校正のため読み返した時にも、これをエディタに移す時のタイプミスで改行を一列間違って行をダブらせたり飛ばしたのかもしれないと思ったほどです。

私は、前にも書きましたが(マリー・Aの思い出・『ハンス・アイスラーとベルトルト・ブレヒト』)、ブレヒトもベンヤミンも、それにハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーもほとんどが野村先生の訳で読みました。ワイマール期のドイツの文化に関しても先生の著作で勉強しました。ブレヒトの詩など訳文というよりほとんど先生の創作と言って良いような素敵なものがたくさんあります。それでも生意気を言わせてもらうと先生の翻訳にはこうした悪文というか分かりにくいものがたまにあります。それに死を、死んだという独特の言い回しを訳文でも自身の表現としてもよく使っています。何か考えや思いがあっての事でしょうが、これもやはりなじめません。

このベンヤミンのChinawarenという著作の抜粋の別の人(細見和之)の訳を投稿の末尾に置いておきます。前の投稿でもその断片に触れています。新たに原文にない改行を加えるなどの工夫もされており、こちらのほうがはるかにわかりやすいし日本語として意味が通っています。参照下さい。なお、ベンヤミンの原文は、こちらにあります。

CHINAWAREN

それでも前の投稿で細見和之さんの訳ではなく、野村先生の訳を引用したのは、そこで書いたとおり文筆文化という訳が絶妙ですばらしいと思ったからです。それとこの文章の表題Chinawarenを、野村先生は中国工芸品店と訳しています。これも字面だけ見れば細見さんの陶磁器でいいというかそれがまっとうで、中国工芸品店というのはあまりに意訳過ぎるように思います。

この著作の末尾には中国(人)の筆写云々という文章が結語のように置かれています。Chinaという言葉が、海外では磁器(または陶器も含めた焼き物全体)を指すという事を知っている人なら陶磁器という表題とこの中国云々という結語を関連付けることも容易でしょう。でもどうなんでしょう。我々のように工芸とかインテリア関係の業界にいる人間以外にはよくわからないのではと思います。野村先生はそこまで考えて敢えて超意訳とも言える中国工芸品店という表題にしたのではないでしょうか。翻訳というのは本来そこまで考えて行うべきことかなと思います。


陶磁器

前略

街道の放つ力は、そこを歩いてゆくのか、その上を飛行機で飛ぶのかで異なる。同様に、文章の放つ力は、それを書き写すのか、たんに読むのかで異なる。空を飛ぶ者が目にするのは、道が風景のなかをうねうねと進んでゆく姿だけであって、彼にとってその道は、周囲の地形と同じ法則にしたがって伸び拡がっている。道を歩いてゆく者だけが、その道の発揮している支配力を、身をもって知る。空を飛ぶ者にとってはたんに伸び広がった平面にすぎない一帯から、道は、曲がるたびに、遠景や見晴らし台や間伐地や眺望やらを、命令で呼び出すのである。・・・ちょうど指揮官の号令によって兵士たちが前線から呼び戻されるように。

同様に、書き写された文章のみが、それに取り組んでいる者の魂に命令を発することができるのであって、たんなる読み手はその文章の内部の新たな相貌、その文章があの道のように、どんどん密になってゆく内部の原始林をとおりながら切り拓いてゆく新たな相貌を、知ることはない。なぜなら、たんに読む者が夢想という自由な中空を漂いつつ、自らの自我の運動にしたがうのに対して、書き写すものは自我の運動を命令にしたがうようにさせるからである。したがって、中国の筆写技術は文芸文化の比類なき保証であり、写本は中国の謎を解くひとつの鍵だったのである。

ヴァルター・ベンヤミン 『この道、一方通行』 細見和之訳 みすず書房 p17

古いノート


街道の持つ力は、その道を歩くか、あるいは飛行機でその上を飛ぶかで、異なってくる。それと同様に、あるテクストのもつ力も、それを読むのか、あるいは書き写すかで、違ってくる。飛ぶ者の目には、道は風景のなかを移動してゆくだけであって、それが繰り拡げられてくるしかたは、周辺の地形が繰り拡げられてくるしかたにひとしい。道を歩く者だけが、道の持つ支配力を経験する。つまり、飛ぶ者にとっては拡げられた平面図でしかないその当の地形から、道を歩く者は、道が絶景や遠景を、林の中の草地や四方に拡がる眺望を、曲折するたびごとに、あたかも指揮者の叫びが戦線の兵士を呼び出すように、呼び出すさまを経験するのである。同様に、あるテクストに取り組む人間の心を指揮するのは、書き写されたテクストのほうだけであって、これに反してたんに読む者は、テクストの内部のさまざまな新しい眺めを、けっして知ることがない。テクストとはしだいに濃密になってゆく内面の森林を通り抜ける街道なのだが、それがどのように切り拓かれていったのかは、たんに読む者には分かりようがない。なぜなら、読む者は夢想という自由な空域にあって、自分の自我の動きに従っているのだから。しかし、書き写す者のほうはその自我の動きを、テクストの動きに従わせている。したがって、中国人の筆写の作業こそは、文筆文化を比類なく保証するものだったのであり、写本は、中国という謎を解明するひとつの鍵である。

ヴァルター・ベンヤミン 「中国工芸品店」 「一方通行路(抄)」『暴力批判論』 野村修訳 岩波文庫より p166-167

引っ越しにともなって古いノートの類がたくさん出てくる。もうたいていは捨ててしまったつもりだったのだが、他の書類になど混ざっていたものを発掘した。下の画像は学生時代に戦前の社会運動(全国水平社と全農全会派・全協および共産党・コミンテルンとの関係)について調べていた時のノートだ。学校の課題ではなく当時身を投じていた運動の関係で興味と使命感にかられて相応に頑張って史資料を集めて読み込んでいた。どうやら大学の図書館(たぶん人文研)からドイツ語のコミンテルンの議事録まで借りて目次・目録まで作っているから、まあ若かったというかよくやるよと感心する。それに40年前はこんなに細かい字で丁寧にノートを作っていたのだ。なにも昔から大雑把でいいかげんな人間ではなかったのだと神妙な気持ちになる。

学生時代の古いノート 1
「全協」結成前後の年譜


学生時代の古いノート 2
コミンテルン文書の抜粋


学生時代の古いノート 3
コミンテルン第6回大会議事録をドイツ語版から

今は、もう若い時のような根気もエネルギーも持ち合わせていないが、何かを調べたいと思った時にはそれになりに史資料にあたる。それもたいていは紙のそれだ。理由は簡単で今でもまともな文献や史資料というのは紙の上にしかないからだ。その上で必要と思われる箇所をノートやレポート用紙に書き写すというやり方を40年近く墨守している。下の画像は最近のノートで、今は中断してしまっているこのブログで藤田嗣治について書いた時に作ったものだ(「藤田嗣治の戦争画について 1」「同 2」)。あと実朝の記事(「鎌倉右大臣・実朝の『雨やめたまえ』の歌」)の時も作ったノートがあるし、そのうち投稿しようとおもっている寺田夏子に関しても作っている。こうした作業も今ならOCRソフトを使って電子化してコピー&ペーストでやってしまえる。それでも手書きでの抜粋をメインにノートを作っているのは、こうしないと私は思考の道筋がつけられないのだ。

藤田に関する年譜をノートしている

田中穣の藤田に関する著作からの抜粋。

ベンヤミンがこれを書いた1920年代には、もちろんワープロもパソコンもないのだがタイプライターはすでに標準化され普及していたようだ。ここでベンヤミンが書き写す(原文ではabschreibenとなっている。)としているのは、あくまでもペンを使っての作業を指していると思う。中国の例をあげてることからも分かるし、アドルノによれば、

とうにタイプライターが支配的であった当時において、彼ができるだけ手書きをしていたことは特徴的である。彼は書くという肉体的行為によって、快楽を与えられたのであり、彼は好んで抜粋、清書を作ったが、一方機械的な補助手段に対しては、嫌悪感で一杯であった。

T・W・アドルノ 『ヴァルター・ベンヤミン』 大久保健治訳 河出書房新社 p87

とある。ベンヤミンはあくまでも肉体的行為である手書きによる書き写しにこそ意味があるとしているのだ。その意味で、野村修先生がここでは、literarischer Kulturを、文化と訳しているのは、さすがだと感心させられる。ちなみに他の人の訳ではふつうに文芸文化(細見和之訳 『この道、一方通行』みすず書房)となっている。

今、こうしてベンヤミン著・野村修訳の著書などの抜粋・引用をディスプレイを眺めながらキーボードを叩いて行っているのだが、これは書き写しと言えるのだろうか?違うと思う。こうした場合、元の紙のテキストとディスプレイのエディターの文字を交互に眺めながらひたすらタイプミスと変換間違いにのみ神経を集中させている。極論すればOCRソフトがやる仕事を代行しているにすぎないとも言える。したがってよくやる間違いなのだが、改行を一列間違って行をダブらせたり飛ばしたりということすらある。新しい眺めしだいに濃密になってゆく内面の森林どころか文脈すら追っていないのだ。

紙のテクストをエディタに移す。

「棹さす」という表現について

以前の記事(「駒井哲郎さんの事 4 ギャラリー椅子の仕様」)でこんな表現をしていました。

それにこうした安易に接着剤に頼ったやり方が、確実に若い「木工家」のスキルを低下させています。われわれロートル世代くらいはこうした安直な傾向に棹さしていったほうが良いと思っています。

この棹さしてという表現は、間違っているのではないかと、工房 悠の杉山裕次郎さんからメールで指摘されました。ここの[棹さす]ですが、言いたいことの意味は、たぶんその逆ですね。という事で具体的に参考サイトまで付けて頂きました。ありがたいことです。

棹さす

さおを水底につきさして、船を進める。転じて、時流に乗る。また水流にさからう意に誤用することがある。

広辞苑第6版

手元の『広辞苑』第6版には以上のようにあります。まさに誤用しておりました。この広辞苑にも引用されている夏目漱石の『草枕』の有名な冒頭の一節情に棹させば流されるも、あえて情に抗って我慢しても結局は流されていってしまうだけだ云々という意味だと思い込んでいました。恥ずかしい限りです。普段、日本語の表現に関してもエラそうな事を言っている手前、こっそり指摘された部分だけ訂正して知らん顔もできません。それに私と同じような誤用をされている人も他にもいらっしゃるかもしれません。htmlのdelとかinsというタグはこうした時のためにあるとのだと自分を納得させています。

今回は、たとえ嫌われても間違ったことは放っておけないという杉山さんの性格から指摘を頂きました。別にこうした事に限らず誤りを指摘されるうちがハナだと思っています。どうぞ色々ご指摘ご指導ください。

年明け最初は内田百閒を読んだ

暦の上で年が明けたからといって、あらたまって事をいたすなど久しくしなくなった。それでも新年にまず何を読むかは少しは気にする。かと言ってたとえば昨年の正月に何を読んだと記憶しているわけではない。ただあらたまった気分の中、ネットを開いて汚い言葉やひどい日本語だけは目にしたくないと思っている。

今年は内田百けん(機種依存文字。門構えに月)の『ノラや』(内田百閒集成9・ちくま文庫)にした。昨年末のペットロス状態から百閒翁の猫ロスで取り乱した様を読んだら、少しは慰みになるかとも考えた。冒頭に置かれた「猫」という短編から圧倒される。化け猫という言葉に象徴される猫にまつわる妖気とか禍々しさを、その猫自体の描写を一切なさずに著している。逆にそのことによってこの猫の妖気とそこから「私」にまとわりつくような恐怖と悪寒が滲み出される。後で引用する三島由紀夫の言う究極の正確さをただニュアンスのみで暗示し鬼気の表現に卓越している世界がここにもある。

内田百閒の文章は、三島によれば少しも難しい観念的な言葉遣いなどしていないこう書けばこう受けるとわかっている表現をすべて捨てて、いささかの甘さも自己陶酔も許容せず、しかもこれしかないという、究極の正確さをただニュアンスのみで暗示している。そうした言葉の洗練の極のゆえか、百閒の文章は3次元的なまたそれに時間もふくめた4次元的なイメージを沸々と呼び覚ます。それは、鈴木清順や黒澤明といった映像美にとりわけ強いこだわりをもった映画監督が百閒の作品の映像化を試みていることからもわかる気がする。私もある事件(一生引きずるであろう忘れてはいけないもの)のあとそれにまつわる夢をなんども見た。それが、百閒のある作品(「冥途」)の中に再現されているように思われて恐ろしかった。今は、その夢と百閒の作品が渾然となってその境がわからなくなったと思うことがある。

同じ漱石の弟子に中勘助がいる。彼の『銀の匙』は学生時代に遠距離をしていたかつての同級生に送ってもらって読んだ。しかし彼の作品で面白いのはこれだけで(その1編が本当にすばらしいのだが)、あとは自分の兄が嫌いで一方その兄嫁にほとんど恋愛感情な好意を抱いているといった内容の私生活暴露な「小説」ばかりだった。百閒の作品はどれも素敵に面白い。すくなくとも私の持っているちくま文庫の「内田百閒集成」12巻の中にハズレというか駄作はない。これは本当に驚くべきことなのだ。

百閒の文章を手本にしていると言えばあまりにおこがましい。ただ彼の文章を何編か読めば、その虜になるでしょう。それほど魅力的でやはり日本語の文章表現の手本であると思う。そのことは同じく稀有の美文家であった三島由紀夫の百閒に対する絶賛をこめた分析がすばらしく的確で、これまた感心させられる。もっとも三島という人は先達はもちろん同時代の作家に対してもいつも好意的な批評を行っていて、ずいぶん気遣いの細やかな人だったのだと思う。


<内田百閒>解説

三島由紀夫

現代随一の文章家

もし現代、文章というものが生きているとしたら、ほんの数人の作家にそれを見るだけだが、随一の文章家ということになれば、内田百閒氏を挙げなければならない。たとえば「磯辺の松」一遍を読んでみても、洗練の極、ニュアンスの極、しかも少しも繊弱なところのない、墨痕あざやかな文章というもののお手本に触れることができよう。これについてはあとに述べるが、アーサー・シモンズは、文学でもっとも容易な技術は、読者に涙を流させるとことと、猥褻感を起こさせることであると言っている。この言葉と、佐藤春夫氏の文学の極意は怪談であるという説を照合すると、百閒の文学の品質がどういうものかわかってくる。すなわち、百閒文学は、人に涙を流させず、猥褻感を起こさせず、しかも人生の最奥の真実を暗示し、一方、鬼気の表現に卓越している。このことは、当代切ってのこの反骨の文学者が、文学の易しい道を悉く排して難事を求め、しかもそれに成功した、ということを意味している。百閒の文章の奥深く分け入って見れば、氏が少しも難しい観念的な言葉遣いなどをしていないのに、大へんな気むずかしさで言葉をえらび、こう書けばこう受けるとわかっている表現をすべて捨てて、いささかの甘さも自己陶酔も許容せず、しかもこれしかないという、究極の正確さをただニュアンスのみで暗示している。(中略)それは細部にすべてがかかっていて、しかも全体のカッキリした強さを失わない、当代稀な純粋作品である。

後略

『サラサーテの盤』内田百閒集成4 ちくま文庫所収

駒井哲郎さんの事 3

打ち合わせも終わり辞するにあたって駒井哲郎さんの立派な画集(『日本現代版画 駒井哲郎』玲風書房)と著作(『白と黒の造形』講談社文芸文庫)を頂きました。著作は駒井さんが折々に著した短文をまとめたもので、その中にパウル・クレーについて書いたものが2編あります。いずれも秀逸な評論であり、こんなに簡潔にやさしい自分の言葉でしかも的確にクレーの芸術に迫ったものを他に知りません。それは駒井さんがご自身の版画の世界である高みに達したからこそ、クレーの内面にまで踏み込んでその芸術を俯瞰することが出来たのだと思います。

頂いた駒井哲郎さんの著作と画集

クレーやその絵について論じようとすると、つい何か気の利いた事でも書かねばと背伸びしたくなります。それは、駒井さんがここで述べているように彼の絵は、彼の内面で静かに永い時間をかけて育て上げられた結果、生まれ出たものであり、彼の絵について語るときはいつでも、彼の音楽や文学への嗜好、つまり彼の内面を支配しているた教養にまでさかのぼる必要があるとひろく認識されているからでしょう。

『白と黒の造形』の中の「女たちの館」(1952年3月)という短文は、表題のクレーの絵について論じたものです。以下引用します。

愛知県美術館所蔵のクレー・『女の舘』

パウル・クレーは幻想の世界を描いた画家と云われてますけど、その作品は常に自然となんらかの関連を持ち、彼の内面で静かに永い時間をかけて育て上げられた結果、生まれ出たものだと思います。ですから彼の絵について語るときはいつでも、彼の音楽や文学への嗜好、つまり彼の内面を支配しているた教養にまでさかのぼる必要があるのですが、僕には到底そこまで解きほぐすことは出来そうもありません。しかし僕等も出来るだけクレーに追随して、この絵を描いた頃の画家と同じような気持ちになって作品を眺めてみましょう。

この奇妙な、女たちの館は、ちょっと見たのでは特にこれと云って、なにかを示している形体は何処にもないのですが、この燐光発しているような見事な色彩が、色の中に潜んでいる可能な限りの音階を充全に奏でていると云えるでしょう。そう云えば絵全体に、横に走っている白い点線は楽譜の五線譜のようでもありますし、すき透るような微妙な藍色の地に浮かぶ様々の形体は、ちりばめられた色彩の音符と考えられないこともありません。しかし、良く見ると、それらの音符はまた窓やアーチや館の屋根のように見えてきます。そのほか階段や木立や窓に掛けられたレースの引幕までも・・・そしてなんだかとてつもなく大きく、古びた館が背景の中から忽然と浮かび上がってくるのを感じます。ちょうど舞台が暗転してくらやみの中に薄光が少しずつ差し込んでいる時のように。確かにクレーはこの絵の主題をなんらかの音楽的感動によって芽生えさせたのでしょう。1920年、ワイマールのバウハウスの教授に招かれて28年まで、その地で忠実にその職務を尽くした彼は、このワイマール居住の時代に、ほとんど毎晩と云って良い位オペラを聴きに通った時期がありました。そしてオペラや劇場で得た感動から非常に多くの作品を生み出したのです。

この絵も1921年のものですからその中の一つだと云うことが出来ます。この絵を描く時、ほとんど確実に彼があんなに愛したモーツァルトとその歌劇を思い浮かべていたに違いありません。もちろんクレーのことですから歌劇の情景をそのまま絵にするわけはなく、あらゆる置き変えや、象徴の手段など、これまで自分のものにして来たすべての近代絵画の上の教養を巧みに生かして、彼の以前には誰も描かなかった清浄でしかも悪魔的とも云える新しい認識を画面の上に繰り拡げています。

駒井哲郎 「女たちの舘」 『白と黒の造形』講談社学芸文庫より

この本にはこのクレーの絵は挿絵としても載せられていません。それで安易にネットで画像検索をしてみると『女の館』という題名で愛知県美術館に所蔵・展示されていることを知りました。横浜・東京から戻ってすぐの火曜日(翌月曜日は休館日)に出かけました。思ったよりも小さな絵です。クレーの絵ではよくあるのですが、画集で知ってから実物を見ると意外と小さいのです。クレーの絵は「大作」といった見せかけのハッタリとは無縁だし、まして日本の画壇の「巨匠」たちのような号あたり何万円といった不動産屋ばりのゲスなソロバン勘定など別の世界の事でしょう。そしてこの小さな絵の中に、駒井さんが見事に描写した燐光の音階、白い五線譜が旋律を奏で、背景の藍のグラデーションが通奏低音を構成しているようです。見ているとワクワクして本当に音楽が聞こえてきそうです。

その聞こえてくる音楽は、駒井さんが書いるようにほとんど確実にモーツァルトの歌劇でしょう。今ならその曲目も特定できます。歌劇『後宮からの逃走』です。ベルモンテやコンスタンツェ他の最後の四重唱でしょうか。実際にこの絵を目にすると暗い背景の中にいかにもトルコ風な館(pavilion)が林立しているのが分かります。また絵の中央部分に八に字上に開くように並べられている円形状のものは舘を繋ぐ灯りのようにも、女官たちの列のようにも見えます。

今はDVDやBSなどの放送や動画などで、モーツァルトの歌劇などいくらでも鑑賞することができます。この絵を見て『後宮からの逃走』を連想することも容易でしょう。しかし、駒井哲郎さんがこれを書いた1952年当時では、日本では音楽関係者か余程の好事家でなければ『後宮からの逃走』など見たことも聞いたこともなかったでしょう。まだ敗戦から7年、LPレコードがようやく出始めた頃です。駒井さんがフランスに留学するのも1954年のことです。その当時に、この絵を見てモーツァルトの音楽それも歌劇の情景とそこからの音楽的感動を読み取ることが出来たその眼力と知性に感嘆するばかりです。

この季節、この日、読みたくなる話

 

どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう?そして子どもは時にずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?

つまり、人形をこわしたからといって泣くか、すこし大きくなってから友だちをなくしたからといって泣くか、それはどっちでも同じことです。この人生では、なんで悲しむかということはけっして問題でなく、どんなに悲しむかということだけが問題です。子どもの涙はけっしておとなの涙より小さいものではなく、おとなの涙より重いことだって、めずらしくありません。


船長ははとばに立って、小さなヨーニーの手をひき、ときどき腕時計を見、待ちかねていました。だが、ヨーニーのおじいさんとおばあさんはきませんでした。いや、こられなかったのです。ふたりはもう何年もまえに死んでしまっていたのですから!おとうさんはただ子どもをふり捨てようと思って、ドイツへ送ったのであって、そのさきのことは考えようとはしなかったのです。

その当時ヨーニーは、じぶんがどんな目に合わされたかがまだよくわかりませんでしたが、大きくなってから、夜、まんじりともしないで泣きあかすことが、いくどもありました。四つの時に加えられたこの悲しみを、彼は一生のあいだ忘れることができないでしょう。彼は気の強い少年ではあるのですけれど。


何ごともなれてしまえば、それまでだよ。とヨーニーはいいました。じぶんの両親をえらぶことはできないしね。ときどきぼくは、両親がぼくを迎えにここに現れた場合のことを考えるが、そうすると、ぼくはひとりでこここにいられるほうがどんなに楽しいかってことに、はじめて気がつくんだよ。それはそうと、船長さんが1月3日にハンブルグに着いて、ぼくをたずね、二日間ベルリンにつれていってくれるって。すてきだろう。彼はあいてに向かってうなずきかけました。心配しないでくれたまえ。ばくはひどく幸福じゃないよ。幸福だといえば、うそになるだろう。しかし、ひどく不幸でもないよ。


エーリッヒ・ケストナー 高橋健二訳 『飛ぶ教室』より