何があろうと公権力による殺人は許されない

公権力によって、7人もの殺人が一挙に行われる。それも事前の予告もなしに早朝から。そんなおぞましくも野蛮な国に私は住んでいる。

東京拘置所では3人が処刑されたという。刑場は1つしかないそうだ。それで遅くとも11時くらいには7人執行の報が流れた。朝の6時に一人目に執行が告げられたとして、一人ひとりに執行の告知からどれほどの時間が与えられたのだろう。検死や遺体の処理、清掃の時間も必要だ。遺書を残す時間もないだろう。ゆっくりそれまでの人生を振り返り罪を悔いる時間もなかろう。機械的にうむを言わさず流れ作業のように執行していったのだろうか。アンジェイ・ワイダの映画『カチンの森』の最後のシーン、ソ連の屠殺人が後ろ手してに前にかがませたポーランドの将校の頚椎を流れ作業のように拳銃で撃ちぬいていくシーンを思い出す。ヴィクトル・ザスラフスキーの『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』によると、それが一番確実で流血も少ない処刑方法で、もうソ連にはその当時そうした処刑専門の部隊があった。それは20年代からの自国民への大量虐殺による十分な経験によるものだった。今の北朝鮮の公開処刑の方がまだマシに思えてくる。日本でも戦後しばらくは、死刑の執行の数日前には通告がされていたという。それで死刑囚は自らの気持ちをを整理し遺書をしたため、場合によっては親族との面会もゆるされたらしい。いつからか今のような無機的・官僚的・非人間的な方法が慣例化されてしまったのか。それに抗議する意味もあってか永山則夫は自分の番が来た時は徹底的に暴れると公言し、同じ東京拘置所の死刑囚・故大道寺将司さんによればそれを実行したようだ。永山さん、よくやった!


つい最近やっと気がついたことだが、人間にとって、こっそり死ぬほど悲惨なことはない。

革命前の中国では、死刑囚は、刑の執行前にまず大通りを引き廻す。そのとき当人は、自分は無実だと訴えたり、役人を罵倒したり、自分の英雄ぶりを誇ってみせたり、あるいは死ぬことはこわくないと宣言したりする。その演技がクライマックスに達すると、見物についてくるヤジ馬からのヤンヤの喝采がおこり、あとでその噂は人から人へ伝わる。私がまだ若いころは、しょっちゅうそんな話をきかされたものだ。その度に私は、こういう光景を野蛮と思い、そのような処置を残酷だと考えた。

(中略)処刑前の死刑囚に公開発言をゆるすのは、むしろ成功した帝王の恩恵であり、かれらがまだ自分の力を信じている証拠だ、ということだ。自信があればこそ、せめて死ぬ前に自己陶酔にふけり、併せて人々に最期を知らせるため、死刑囚に発言をゆるすだけの余裕があるのだ。むかし私が残酷とばかり考えていたのは、不十分な判断だった。恩恵の意味がまじっているのを見のがしていた。私は、友人や学生の死とぶつかるたびに、その死んだ日時がわからず、場所がわからず、死因がわからないときは、それがわかるときよりも、もっと深い悲しみと不安を感ずるのが常である。そのことから逆の場合を類推すると、暗い部屋で少数の屠殺者の手で命をおとすのは、おおぜいの前で死ぬよりも、いっそう淋しいにちがいない。

魯迅 「二 隠された死について」「深夜に記す」から 『魯迅評論集』竹内好編訳 岩波文庫p50-52

私は、学生時代のうち3年間ほどをYMCA(学Y)の寮に住んでいた。万里小路東一条の角にある敷地には、ヴォーリスの設計による会館と私のいた京大の寮とともに府立医大の寮もあった。木造の小さなでも風情のある建物でせいぜいが3〜4人ほどしか居住できなかった記憶している。今日、処刑された中川智正さんもそこに住んでいたこともあると、彼が逮捕されてしばらくしてからかつての寮生から聞いた。彼は私より6歳若い。それに退寮してから寮に出向くこともほとんどなかったので、おそらく顔を合わせたこともなかったと思う。それでも今日の報道で若い時のかれのまだ無垢さを完全にはなくしていない映像が流されると、彼がかつて私たちが暮らしたあの同じ敷地にいて、たとえば自転車で志賀街道から荒神橋を渡りシアンクレールの角を折れて(または万里小路通りを今出川まで出て、出町柳から鴨川を渡って・・・)大学に通う姿を想像してしまう。やはり悲しい。

私が殺人事件の被害者の家族だったら、加害者と同じ空気を吸っていると考えるだけで強い憤怒と嫌悪感を覚えるでしょう。早くあいつらを殺してくれ。できれば同じ苦しみを味あわせて。残念ながら犯罪加害者の中には更生も後悔も期待できないような人間がやはりいる。ドストエフスキーがイワン・カラマーゾフに言わせているように人を陵辱し殺めること(だけ)に性的な昂奮を感じるような連中も存在している。それでもやはり国家による殺人は許されるべきではないと信じます。この件に関してはまた別に書かなくてはと思います。