藤田嗣治の戦争画について 2


哈爾哈ハルハ河畔之戦闘》について

《哈爾哈河畔之戦闘》は、藤田嗣治が戦争画のエースとしてのめり込むように製作を始める端緒となったと言われています。製作の経過からも内容からも、そうだったと思われます。その間の経緯を少し見ておきます。

1938年5月に、陸軍の「中支那派遣軍報道部」(上海)というところが、8人の洋画家を招待して絵画の製作を依頼します。翌年7月、その「作品」は、第1回聖戦美術展に出品されのちに最初の作戦記録画とされたそうです。対抗するように同年9月、海軍軍事普及部が、6人の洋画家を中国南部・中部に派遣、一人2点の絵を委嘱します(「『作戦記録画』小史 1937〜1945」 河田明久  所収)。 この中に藤田嗣治が含まれています(その他、藤島武二、石井柏亭、石川寅治、田辺至、中村研二)。

南昌飛行場の焼打 『藤田嗣治画集 異郷』を撮影

南昌飛行場の焼打
『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

武漢進撃 『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

武漢進撃
『藤田嗣治画集 異郷』を撮影

この時、藤田の描いた作戦記録画2点、《南昌ナンチャン飛行場の焼打》と《武漢ウーハン進撃》は、翌々年1941年5月の第5回大日本海洋美術展に出展されます。この2点の絵は、この後に描かれることになる暗く禍々しさにあふれた玉砕画に比べると、なんとも気の抜けたような絵に思えます。そもそもどんな作戦を記録した絵なのかもよく分かりません。《南昌飛行場の焼打ち》は、まだエコール・ド・パリの乳白色に繊細な線描というフジタらしさを感じさせる絵かもしれません。中央から右側に大きく描かれた飛行機とその搭乗員などは非常に細密に繊細に描かれています。遠方に黒煙がたなびき、破壊された青天白日の国章のついた飛行機などもあります。しかし、「作戦」の緊張感は感じられません。もう1枚の《武漢進撃》となると、さらにこれのどこが、「作戦記録画」なのかわかりません。一応長江が舞台としてもただそこを小さな軍用鑑が進んでいるだけ。絵としても面白くもない拙劣な出来で、2枚提出というノルマによって、いやいやながら描いただけの絵のように見えます。

この《武漢進撃》の製作年を見ると1938〜1940年となっています(7)。中国への従軍の約半年後の39年4月、藤田はフランスへ行きます。ナチのパリ占領から逃げるように日本に戻るのが翌40年7月です。早描きで知られた藤田が、この軍の宿題たる作戦記録画を、2年間も放り出してパリへ行っていたということになるのでしょうか?この時期のパリ行についても、色々取りざたされた(されている)ようです。田中穣などは、洋行帰りに甘い日本画壇に対してもう一度”国際画家フジタ”のメッキをつけなおしてくる必要がある9 p234)と思い立ったためとしています。とにもかくにも、この時期までの藤田は、戦争画に対して積極的に取り組む意欲を持っていなかったのは確かでしょう。

ところが、40年7月にパリから戻った時から藤田は変わります。パリでは、迫り来るドイツ軍の占領を目前にした喧騒を目の当たりにしてきたわけですし、戻った日本も1年の間に随分変わっています。国家総動員法が施行され、この年から画家だけでなく、文学者や音楽家も次々に従軍して中国へ向かっています。社会の変化に敏感で抜け目のない藤田が、そうした動向に気付かないはずがない。帰国早々にトレードマークにしていたオカッパ頭を角刈りにします。それを、毎日新聞にスクープさせ大々的に報道させます(田中穣・)。エコール・ド・パリのフジタから、国家総動員体制下の臣民・藤田への転身をアピールしたのでしょう。

その40年9月から、前年のノモンハン事件の指揮をとった退役中将荻洲立兵からの依頼で、《哈爾哈河畔之戦闘》を描くことになります。軍からの委嘱ではなく退役軍人とはいえ個人の依頼で描いた絵は、後に陸軍に献納されて作戦記録画となる。製作にあたり荻洲の斡旋で戦闘の舞台となった中国東北部に取材し、戦車や戦闘機にも搭乗したといいます。

藤田の甥で、当時慶応に在学中で藤田のアトリエの近くのアパートにくらしていた葦原英了は、その間の様子について次のように書いています。

荻洲中将というのは、ノモンハン事件に参加して、敗戦の責を負って予備役に編入された人である。この人は戦死した部下の霊をねぎらうために、自分の貰った一時賜金を全部投げ出して、永久に記念として残る戦争画の製作をフジタへ依頼してきたのであった。

フジタがこの絵から戦争記録画に本腰を入れ出したというのは、依頼者の頑張りが何をおいてもフジタを圧倒し尽くしたということである。荻洲中将は何かといえば製作中のアトリエに現れ、兵隊の鉄砲の持ち方がいけないの、バンドの締め方が間違っているのと指摘した。そしてお仕舞いには実物の兵隊を陸軍から借りてきて、アトリエでポーズさせたりした。鉄兜に網をかぶせて、その網目に草やら葉のついた小枝をさしたりした兵隊が、広くもない庭を駆け廻ったり、伏せたり、鉄砲を打つ恰好をしたりしていた。ノモンハンの草原に生えている草花をありのまま描いてもらいたいというわけで、フジタを現地に派遣すべく尽力して、遂にそれを実現させたほどの頑張り方であった。

フジタは荻洲中将の余りにも強い熱意に、初めのうちはたじたじだったが、次第に戦争画そのものに興味を覚えてゆくようだった。戦闘帽のデッサンから、鉄兜、靴、背嚢、水筒、ゲートル、さては小銃、短剣、機関銃、迫撃砲、大砲など兵器に至るデッサンまで何百枚と出来た。戦車にも乗ったり、戦闘機にも乗ったりした。そして戦車や戦闘機の絵もたくさん描かれた。上空の雲の絵までが何十枚と出来たいた。戦争期記録画に必要なこういうデタイユが、腕を通してフジタの知識となった。そうして、フジタは次第次第に戦争画に熱意を覚えていった。

葦原英了 「小説 藤田嗣治」『芸術新潮』1950年5月号 『僕の二人のおじさん 藤田嗣治と小山内薫』2007年9月 新宿書房 11 所収

哈爾哈河畔之戦闘 上 全体 下 部分 『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

哈爾哈河畔之戦闘
上 全体 下 部分
『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

さて、この当初退役軍人という一個人の委嘱によって製作されたはずの絵は、いつの間にか陸軍の作戦記録画として、41年7月東京上野の第2回聖戦美術展に出品されます。そこでの評判を、田中穣はつぎのように書いています。

フジタの戦争画中もっとも率直に、日本の古い合戦絵巻の魅力を現代的に再現した作品となった。

「平治物語絵巻」や「猛攻襲来絵詞」など鎌倉時代の傑作とされる合戦絵巻の持つ日本の大和絵様式が、そのまま現代の油絵の郵送闊達な合戦絵巻に写しかえられているすばらしさに、人びとは目を奪われ、舌をまいた。

たしかに国家総動員体制といっても、まだこの時期は、出征兵士の家族以外のほとんどの人間にとっては、所詮他人事だったと思います。そうした他人ごととしての戦争というのは、こうしたあっけらかんとした勇壮な絵巻として眺めるには心地よいものだったのでしょう。今の日本で、多くの人たちにとって、あの三代目のアホぼんの進める海外派兵や憲法改正の威勢のよい中身のない形容詞まみれの言葉が、おそらく心地よく響くのとよく似ているように思います。

藤田嗣治の戦争画について 1

もう終了してしまいましたが、先月、名古屋市美術館での藤田嗣治展(生誕130年記念 藤田嗣治展 —東と西を結ぶ絵画— 4月29日~7月3日)に行ってきました。なお、兵庫と府中では現在開催中、今秋開催予定です(展示会概要)。


これは、以前にこのブログでも書いたことがあるのですが(「モーツアルトのピアノ協奏曲」)、美術評論家で画廊経営者でもあった洲之内徹は、司修との会話の中で、藤田は戦争責任なんて感じていないと思う、藤田の絵は戦争画しかない、あとはクズだよと言い放ったそうです(司修・『戦争と美術』1992年 岩波書店)。もちろん表立ってこんな事を言ったり書いたりはしていないようです。私は、洲之内徹という人が大嫌いなのですが、絵に対する眼力は確かで、あたりさわりのないありきたりの事しか言えない凡百の評論家とは比すべくないと思っています。また、自身が美大出の左翼活動家で転向者という事もあって、戦中戦後の画家たちの振る舞いに対する覚めた冷徹な見方をしています。この藤田に対するオフレコな発言も、藤田の絵と人に対するきわめて的確な見方だと、展示を見てあらためて思いました。

右 委嘱者の元軍人・軍人に絵を説明する藤田。左 所在不明の2枚の藤田の戦争画 『藤田嗣治画集 異郷』・林洋子監修より

右 委嘱者の元軍人・軍人に絵を説明する藤田。左 所在不明の2枚の藤田の戦争画 『藤田嗣治画集 異郷』・林洋子監修より

日本の戦争画に関しては、その返還や公開に関しては色々な曲折があったようです。特に藤田嗣治のそれに関しては未亡人の君代さんの意向などもあって一筋縄にはいかなかったようです。それでも、この司修さんの『戦争と美術』が出版された1990年代からは少しづつ公開されはじめ、芸術新潮の特集『カンヴァスが証す画家たちの「戦争」』1995年8月号などで、図録としても紹介されだしました。元美術少年としては、この戦争画の問題はずっと気になっていました。とくに敗戦の夏になると、司さんの本を取り出して、その冒頭に掲載されているシャガールの「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」への献辞を読み返したりしていました。このシャガールの痛切な自己批判とナチを通り越してドイツ人やその画家に対する糾弾と怨念の言葉は心を打ちます。美術が政治や、まして戦争と無縁な超越した存在では決してありえない事を思い知らされます。シャガールの献辞は、「日本の侵略戦争の犠牲になった中国人(アジア人)画家(作家・音楽家・すべての表現者)展」のそれとして、文中のデューラー、クラナッハ、ホルバインを、藤田嗣治、川端龍子、横山大観と読みかえれば、日本の戦争画の果たしたもうひとつの役割が見えてきます。             

少し長くなりますが、このシャガールの「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」への献辞を文末に引用しておきます。わたしの書いたものなど、まあどうでもよいですがこの献辞だけでもぜひご一読下さい。


結論から書いておくと、私は藤田嗣治の絵が嫌いです。とくに今回見た彼の戦争画対しては強い嫌悪感を覚えました。なにかしらおぞましいものを前にした時の血圧が上がり、胃がキリキリとして悪いものがこみ上げてくる感覚です。この嫌悪感は、針生一郎がこの絵に対して作者の魂はまったくここに関与していないと喝破したように、いくら戦争画とはいえ死者(この場合は米兵になるが)や死にゆくものに寄せる同情、哀れみ、たむけ、痛憤そうした人間らしい一切の思いが感じられないことからくるのでしょう。かれら(玉砕してゆく兵隊)を手ゴマのようにもてあそぶ態度で、嬉々として兵士たちの絶望的な死闘を描き続けたのでは、と河田明久は指摘しています。そのとおりだったのでしょう。あとでもう少し詳しく検討したいと思います。

次に、藤田の戦争責任、この直截な表現が嫌なら藤田の戦争画がそれを見る人に与えた影響はきわめて大きい。藤田自身のものも含めて、戦争画の数々を図版で見ていると、彼は名実とも美術界における戦争協力のトップランナーであったとわかります。今回の展示の「アッツ島玉砕」は、玉砕戦肯定・賛美の絵であり、その後の追随者エピゴーネンたちによる同じような暗い玉砕賛美の模倣画の先駆けとなります。また最後の戦争画である「サイパン同胞臣節を全うす」は、軍人の玉砕とともに民間人の集団自決を臣節として賛美・強要するものになっていると思います。ただ、こちらは敗戦によって追随者エピゴーネンどもが蠢き出す間もなかっただけの話です。この点も、敗戦後の戦争責任に対する論争とも関わってきますが後でもう一度触れます。


さて、はじめに整理・俯瞰する意味もあって藤田嗣治の戦争画(軍委嘱の作戦記録画及び戦争に関係する絵画)で手持ちの書籍や図録と市と県の図書館で見ることができたものを列挙すると下の表のようになります。当然遺漏もあると思いますが、敗戦後、米軍に接収されその後無期限貸与という形で、現在東京国立近代美術館に所蔵されている藤田の絵は14点とされています。それは網羅していますし、あらかたこんなものでしょう。このうち今回の名古屋の展示で出展されていたものは、以下の3点です。

  • アッツ島玉砕
  • ソロモン海域に於ける米兵の末路
  • サイパン島同胞臣節を全うす

続きます


藤田嗣治の「戦争画」一覧
題名 製作年 出品 所蔵先 注)1 備考 収録誌・画集 注)2
千人針 1937年 所在不明 (7)
千人針 1937年 個人蔵 (7)
島の訣別 1938年 第25回二科展 事変室 所在不明 6
南昌ナンチャン飛行場の焼打 1938〜39年 第5回大日本海洋美術展(1941年5月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 3 , 7
武漢ウーハン進撃 1938〜40年 第5回大日本海洋美術展(1941年5月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 7
哈爾哈ハルハ河畔之戦闘 1941年 第2回聖戦美術展(1941年7月) 東京国立近代美術館 個人委嘱、後に献納。陸軍作戦記録画 (2) , 3 , 6 , 7
十二月八日の真珠湾 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 7
シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 (5) , 7
二月十一日(ブキ・テマ高地) 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 所在不明 陸軍作戦記録画 6
佛印・陸からの進駐 1943年 陸軍美術展(1943年3月) 所在不明 陸軍作戦記録画 (7)
佛印・海からの進駐 1943年 陸軍美術展(1943年3月) 所在不明 陸軍作戦記録画 (7)
アッツ島玉砕 1943年 国民総力決戦美術展(1943年9月) 東京国立近代美術館 後、軍に献納。陸軍作戦記録画に (2) , 3 , 4 , (5) , 6 , 7
ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943年 第2回大東亜戦争美術展(1943年12月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 4 , (5) , 6 , 7
○○部隊の死闘 ー ニューギニア戦線 1943年 第2回大東亜戦争美術展(1943年12月) 東京国立近代美術館 陸軍戦争記録画 6 , 7
神兵の救出到る 1944年 陸軍美術展(1944年3月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 3 , (5) , 6 , 7
血戦ガダルカナル 1944年 陸軍美術展(1944年3月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 (5) , 7
ブキテマの夜戦 1944年 文部省戦時特別美術展(1944年11月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 7
大柿部隊の奮戦 1944年 文部省戦時特別美術展(1944年11月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 7
薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945年 陸軍美術展(1945年4月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 6 , 7
サイパン島同胞臣節を全うす 1945年 陸軍美術展(1945年4月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 3 , 4 , (5) , 7
  • 注)1 所蔵先・東京国立近代美術館とあるのは、接収元の米国からの無期限貸与という扱いらしい。
  • 注)2 収録誌・画集のナンバーは巻末の参考文献から。( )内は、文中口絵として掲載のもの。

シャガールの献辞(「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」)

わたしは彼ら全員を知っていたか?
わたしは彼らのアトリエにいたか?
わたしは彼らの芸術作品を近々と、あるいは、離れて、見たか?
そして今、わたしはわたし自身を離れ、
わたし自身の実体を離れて、
彼らの知られざる墓へおもむく。
彼らはわたしを呼ぶ。彼らはわたしを、
自分たちの墓穴へ引きずり込む・・・
わたしは、無辜の罪を犯した者だ。
彼らはわたしに問う。「おまえはどこにいたのだ?」
・・・わたしは逃げていました・・・
彼らはあの死の浴室に連れて行かれ
自分たちの汗を味わった。
彼らが不意に、まだ描かれていない自分たちの絵画の光をみたのは、
そのときだった。
彼らは達成されなかった歳月を数えた。
夢を、夢を満たすためにたくわえ、待ち望んでいた歳月を
・・・眠らなかった、眠たくなかった・・・
彼らは、自分たちの頭の奥にある、子供時代の跡を突き止めた。
そこでは、衛星を持つ月が、彼らに輝かしい未来を告げていた。
暗い部屋の中や、山々や谷間の草地の中での若い愛が、
かたちのいいあの果実が、
温かい乳が、咲き乱れる花々が
彼らにパラダイスを約束していた。
彼らの母親の両手と両眼は、
彼らとともにあの遠距離列車に乗っていた。
わたしには見える。
今、彼らはぼろをまといて、裸足で、
沈黙の道を、足を引きずりながらのろのろ歩いているのだ。
イスラエルの兄弟たちの、ピサロの、そして
モディリアーニの・・・わたしたちの兄弟たちは・・・ロープに導かれ、
デューラーの、クラナッハの、
そしてホルバインの息子たちにみちびかれた・・・
あの焼却炉の中の死へと導かれていった。
どうすれば、わたしは涙を流すことができるだろう。
涙を流すには、どうすればいいのだ?
彼らが塩漬けにされてから、
長い年月が経った・・・わたしの目からこぼれた塩に・・・
彼らはあざけりとともに乾燥され、だからわたしは
最後の希望を捨てるべきなのだろう。
嘆き悲しむにはどうすればいいのだ?
わたしの屋根から、最後の屋根板がはがされている音が、
毎日、聞こえてくるのに。
かつてわたしが置き去りにされ、
いずれはそこによこたわって眠るための
ほんのささやかな土地を守るために、
戦うには疲労しすぎているときに。
わたしには、あの炎が見える。立ちのぼって行くあの煙とあのガスが、
あの青い雲を黒雲に変えるのが見える。
わたしには、むしり取られたあの髪の毛と歯が見える。
あの髪の毛と歯は、わたしに向かって不穏な棺衣を投げかける。
わたしは、スリッパや、衣類や、灰やがらくたの山のまえの
この砂漠に立って、カーディッシュの一節をつぶやいている。
そして、そんなふうに立っていると・・・
わたしの絵から、わたしに向かって下りて来るものがある。
片手に七弦の竪琴を持っているあの描かれたダビデだ。
わたしが嘆き悲しみ、
詩篇を唱えるために、彼は手を貸したいと思っている。
ダビデに続いて、わたしたちのモーゼが下りてきてこう言う。
誰も恐れるな、
新しい世界のために、わたしが新しい銘板を彫り上げるまで、
おまえは静かに横たわっているべきだ、と。
最後の火花が消え、
最後の死体が消滅する。
新たなる大洪水を前に、それはじっと動かなくなる。
わたしは起き上がり、きみに別れを告げる。
わたしはこの道をたどって新たなる神殿へおもむき、
きみの絵のために、
一本の蝋燭に火をともす。

(英文からの邦訳、麻生九美)司修・『戦争と美術』より重引


藤田嗣治の戦争画に関する参考文献の一部

藤田嗣治の戦争画に関する参考文献の一部

参考文献

  1. 『戦争と美術』 司修 1992年7月 岩波書店
  2. 『日本の戦争画 ーその系譜と特質』 田中日佐夫 1985年7月 ぺりかん社
  3. 『カンヴァスが証す画家たちの「戦争」』 芸術新潮1995年8月号
  4. 『LEONARD FOUJITA』生誕130年記念藤田嗣治展 ー東と西を結ぶ絵画図録 2016年
  5. 『戦争と美術 1937〜1945』 針生一郎他 2007年 国書刊行会
  6. 『画家と戦争 日本美術史の空白』河田明久 別冊太陽 2014年8月 平凡社
  7. 『藤田嗣治画集 異郷』 林洋子監修 2114年2月 小学館
  8. 『戦争画とニッポン』 椹木野衣x会田誠 2015年6月 講談社
  9. 『評伝 藤田嗣治』 田中穣 1988年2月 芸術新聞社
  10. 『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』 近藤史人 2002年11月 講談社
  11. 『僕の二人のおじさん 藤田嗣治と小山内薫』 葦原英了 2007年9月 新宿書房

GO VOTE 0710
自分の未来は自分で選ぶ

もう明日の事になってしまいましたが、学生時代の友人から案内が来ていました。そのチラシを貼っておきます。京都在住の人、とくに学生や大学関係者の人、気にとめておいて下さい。それで、こんな事をしている連中もいるという事で投票に行ってくれると嬉しいです。

govote0710

期日前投票に行ってきました。
比例区は「福島みずほ」(社民)、選挙区は「芝ひろかず」(民進)と書きました。

昨日、期日前投票を済ませてきました。比例区は、「福島みずほ」(社民党)、選挙区ではいやいやながら民進党の候補に入れました。今回は、自民党に対抗する野党統一候補ということで、共産党が候補擁立を控えたので仕方ありません。それでもまだ忸怩たる気分が抜けませんが、共産党や社民党の皆さんは、内心はもっと残念な思いをしていることでしょう。まあ、広報の公約に自民党による憲法9条改正の流れを止め、平和を守るとあるので良しとします。

公選法上差し障りがある?でも、自宅の写真を自分のブログにあげただけです。

公選法上差し障りがある?でも、自宅の写真を自分のブログにあげただけです。

投票後、例によって、某新聞社の腕章をした人間が出口調査と称して寄ってきましたが、お断りしました。少し前の選挙の時でしたが、朝日新聞を名乗る非通知の電話がかかってきて、無作為抽出で選挙の事前アンケートをお願いしたい云々。たどたどしいいかにもアルバイト風の感じの声でした。もちろん断りました。なぜ非通知の電話に、私の個人情報(年齢・職業・性別)や政治思想や行動を言わなくてはならない。協力してほしかったら、まずは番号通知にして、このアンケートの企画部署とその責任者と君の名前を明らかにしてからかけ直せと言って切りました。ふざけたことに、何日かしてまた非通知で、同じ声で朝日新聞だがアンケート云々の電話がありました。この時は、さすがに腹がたって、何日か前にちゃんと理由を挙げて断ったはずだ、責任者をだせ、無理なら名前だけでも教えろと怒鳴ったら、今度は向こうから電話を切ってきました。

それをきっかけに、この新聞を定期購読するのをやめました。もともと妙に上から目線で権威主義的なこの新聞も好きではなかったのですが、この傍若無人で稚拙かつ横柄ともいえる調査方法に嫌気がさしました。他に選択肢もないとて惰性で続けていたのです。

もう、テレビを中心にマスなメディアは選挙もワイドショーのネタのような扱いです。当落予想など競馬の着順やや野球の順位予想かのようです。風だの政局だのと、なんの得にもならないのに勝ち馬の乗るようにしむけているとしか考えられません。こうして、本来のそして自民や公明が意図的に隠している争点をますます見えなくしています。私は、もうかなり以前から選挙関連のメディア情報は見ないようにしています。そのかわり、選挙広報や政見放送とビラの類はしっかりと読みます。

もし、ワシントン・ポスト紙が日本で発行されていたら、今回の選挙では、自公及び改憲勢力以外への投票を呼びかけているでしょう。知られているようにアメリカ合州国の有力紙は、選挙の前には自紙の選挙争点への見解と支持政党を表明します。トランプに対しては、早い段階で批判を加えています。今回は、本当に問われてるのは憲法の改正問題です。それに加えて、政権党と権力による報道や表現などへの有形無形の規制が、ある危険な一線を越えようとしていると感じます。メディアにとってそれは死活問題なはずですが、もう抵抗する気概さえなくしているのでしょうか。

辺野古へ行ってきました その1

9月30日(水)から、昨日4日(日)まで、沖縄に行っておりました。辺野古(へのこ)の海を見て、そこでの新基地建設に反対する座り込み闘争に、短期間ですが参加してきました。戻ってきた今の感想は、自分にとっても有意義で、たいへん楽しかった。もちろん、本来の目的として工事用ゲート前に座り込むことで、抗議と反対の意志を示せました。その事で機動隊に排除されるまでの何分何十秒だけでも、工事車両の進入を遅らせる事が出来たと、今はそれで納得しています。義務感とか使命感とか言った大仰なものでなくまた行きたいと思うし、きっと行くでしょう。なにか切迫した事態となって、人とその数が必要となれば、少々の事は放り出して行きます。

昼前のキャンプ前での抗議デモ

昼前のキャンプ前での抗議デモ

こうした感想は、不謹慎に過ぎると言われるかもしれません。あとで触れたいと思いますが、この運動は誰でも、いつでも、どんな形での参加も歓迎されます。その懐の深さと、実際の参加している人たちの多様さから、また行きたい、楽しいと思わせてくれるのだと思います。まずは、辺野古に行ってみたいが、どうしたらよいのか、どう行ったら良いのか分からない、迷っているという人のために行き方を紹介します。不明な点があれば、分かる範囲でお応えします。私たち自身が、何もわからないまま、まずは行ってみるかと出かけました。

こちらにメールを下さい → roktal@d6.dion.ne.jp


県外から辺野古への行き方

那覇空港から辺野古のテント村への行き方は、この記事を書いている段階でおもに3通りあります。

沖縄バス

テント村へは、「辺野古」バス停下車で10分ほどです。バス停を降りると進行方向・右手にキャンプ・シュワブが見えます。そのまま北(進行方向)に歩くと、県道329号線の右手にキャンプシュワブのゲートがあり、それに向かい合ってテント村があります。

キャンプシュワブ・ゲート前のテント

キャンプシュワブ・ゲート前のテント。10月4日で、455日!

島ぐるみ会議 辺野古バス

  • 那覇空港→モノレール(県庁前下車)→県民広場→辺野古テント村直行
  • 参加費 1,000円
  • 9時半集合 10時出発 17時半解散
  • 問い合わせ 島ぐるみ会議事務局 080-6482-4963

くわしくは、こちらの島ぐるみ会議のfacebookページに案内とチラシがあります。

初めてで、とりあえず一度行ってみたい人はこのバスを利用するのが良いと思います。ゲート前のテント村に直接行くことが出来ます。海のテントに行って辺野古の海も見ることができます。

レンタカー

キャンプシュワブ前での主な行動は、辺野古の埋め立てやその前のボーリング調査のための工事用資材や作業員の搬入を阻止することにあります。そのため工事用の ゲート前に座り込みます。それが連日朝の7時前後になります。そのため6時に集まって打ち合わせが行われます。これに間に合おうと思えば、事前に宿を取っ てレンタカーで乗り付ける事になります。数少ない近くの宿は長期滞在されている人で一杯のようですから、宿は名護の西側も含めたビジネスホテルなどが現実的です。名護市内であれば車で30分あれば充分です。車は、329号線沿いのキャンプ南側の変電所の近辺の歩道側の空き地に皆さん停めています。

早朝、工事用ゲート前の座り込みを排除する機動隊

早朝、工事用ゲート前の座り込みを排除する機動隊

沖縄のレンタカーは、 他県では考えられないくらい安い!私たちも、9月30日から10月4日まで、5日間借りて13,000円ポッキリでした。複数人で複数日滞在する、または 観光を含めて他にも行くつもりならレンタカーが良いと思います。空港周辺で予約しておきましょう。レンタカー屋専用の送迎バス乗り場もあります。あとで別に書きたいと思いますが、名護の屋我地島という所に国立療養所愛楽園があり、その中に交流会館がありました。今年の6月に出来たばかりのようですが、沖縄のハンセン病の歴史とその中での患者の差別され虐げられてきた歴史に触れることが出来ます。今は橋でつながっていますが、かつては隔離された離島だったのでしょう。何も知らなかった事、知ろうとしなかった事に対して、粛然とした思いにさせられます。辺野古に行ったら、ここへも是非行くべきだと思います。

続けます。

命の海と平和を守る! 相馬由里さん(辺野古「平和丸」船長)の報告会

一昨日・13日、辺野古「平和丸」船長の相馬由里さんの講演に行ってきました。相馬さん、その冒頭で今日から辺野古を離れてしばらく息抜きが出来るとか言って、いたずらっぽく笑っていました。でも、講演の最後に今日もカヌーで海に出た仲間の女性の抗議の叫びを、揚げられたSNSの音声で流しながら声を震わせていました。

支援要請のタオルを掲げる相馬さん

支援要請のタオルを掲げる相馬さん

相馬さんは、介護福祉士として働きながら好きなダイビングで沖縄に通っていたそうです。どうせならと、まず西表島に移住して、それから16年。その間にお金がなくなって員弁のデンソーに季節工として2年半いたこともあったとか。辺野古の米軍新基地(移転ではない、新しい基地なんだ!)に反対するのは、何より好きなきれいな海を守りたいから。それに、仕事で沖縄戦で受けた傷を持った人の介護をしたから、また苛烈な戦争体験の一端を聞いて、戦争はダメだと思ったからと言う。

働きながら、反対運動に忙殺されながら船舶免許を取った。それに昨年はケアマネージャーの資格を取ったそうです。ケアマネは受験資格が厳しい上に問題もむずかしく合格率3割程度と言われています。居丈高なところの全くないむしろ穏やかで謙虚な人ですが、一方でものすごく頑張る人だという事が分かります。そんな真面目でよく働く心優しい人が、仕事を通して、趣味や生活を通して、基地の問題に向き合わざるを得なかった。そして今、仕事を辞めて専従として活動している。仕事を辞める決断がついたのは、施設の利用者の人に相談したら、私が今、体が動けばすぐにでも辺野古へ行くと逆に言われたからだとおっしゃっていました。


さて、会場の聴衆を眺めて、相馬さん曰く。
今日は高齢の方が多いですね。もし、お子さんやお孫さんが、この夏にでも沖縄に行くことがあれば、そこに米軍の新しい基地が作られようとしていると、教えて上げて下さい。もしご自身が沖縄へ行かれたら、なぜ隣に米軍の車が当たり前に走っているのか、そのAナンバーとかYナンバー、なぜイオンでドルが使えるのか、なんでもいいから米軍の存在と、それが当たり前になっている沖縄の現実というものを感じて下さい。

何かを要求するのでもなく、もちろん上から目線で物を語るのではなく、機会があれば自分で感じて欲しい。そうした素直な目は持って欲しいという訴えです。心に染みます。


戦争になぜ反対しなかったそう(さか)しげに我ら言ったはず

先週の朝日歌壇に佐佐木幸綱選で載った春原さんという人の歌です。馬場あき子さんや高野公彦さんの選ではありません。安倍晋三とその茶坊主たちや、名前を出すのもおぞましい大臣病の宗教政党指導者たちのゴリ押しする戦争法案や憲法改悪への危うさを心ある人は感じている。ここへ来てまた橋下徹が出てきた。安倍と3時間の会談だそうだ。

6月15日というのは、今から55年前、日米安保条約の改定に反対するデモで、国会南門で樺美智子さんが亡くなった日です。私たちが学生の頃は、まだその事が語り継がれていました。そして、ショボイながらデモをしました。それを、私たちは語り継ぐことが出来なかった、しなかった。今の若い人の大半は樺さんの名前も知らないでしょう。

まずは、なんでも現地に行くことだと思いました。それと、津のJFEで辺野古基地のケーソンが作られようとしている。それに反対するビラまきなどもこの日の主催者が工場前で行っている。これは行かねば、行きたいと思います。

平和憲法の破棄、戦争立法に反対します

私は、日本国憲法の第九条と前文を、とても美しい文章だと思います。そこには、戦争で亡くなったたくさんの人の無念と、生き延びた人の後悔と反省、そこから生まれた平和な世界への理想とそれを目標に進んでいこうという意志が感じられます。憲法の改正を主張するなら、それに代わる理想を、同じように美しい説得力のある言葉で語ってください。安倍晋三や、菅義偉、それに憲法の改正を主張する橋下徹や石原元都知事やという人たちの言葉は、みな聞くに耐えないように汚い。自主憲法とか、改正とかいうなら、戦争や軍隊で何かを守るというなら、その守るべき何かとその理想をきちんと聞かせて下さい。

65歳までに、すること、しなければならない事がありました。私たちがそうであったように、徴兵や空襲や核兵器に怯えることなく、若い人たちが生きていける日本や世界を残すことです。もう少し頑張らねばと思います。

今から、10年前に自分のウエブサイトで、古い憲法の副読本あたらしい憲法のはなしを、ルビつきのオンラインドキュメントとしてアップしました。そのドキュメントと、アップにあたって書いた文章(「あたらしい憲法にはなし」のオンラインドキュメント)と注釈(「あたらしい憲法のはなし」について)とともに、URLを貼っておきます。是非一読ください。

あたらしい憲法のはなし 文部省 1947年


日本国憲法

前文

2

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

3

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

4

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

14日には、戦争に反対し、原発を廃止する候補と政党に投票します

私のように、50代も後半になると今の政治が経済がというよりも、自分たちは世代としてどんな日本や世界を若い人達や子供たちに残すのかという事に関心が行きます。私たちが、徴兵されて戦争に駆り出されることなく、飢えることもなく、また福島の東電事故はありましたが、核廃棄物や廃炉原発の負担や恐怖にとりあえず直面せずにすんだ事に、私は保守の政治家も含めて大人だった人たちに感謝しています。私は、日本がまた軍隊を海外に出す、そこで若い兵隊に人殺しをさせ、また殺されるような国にしたくはありません。これからもずっと日本が世界に冠たる平和国家として憲法にいう名誉ある地位を保ち続けて欲しいと思います。若い人達が、政治や権力により駆り出されて武器を持って海の外にいくようなことを望みません。50基以上の老朽廃炉原発を抱え、行き場のない核廃棄物の処理に右往左往して、住民同士を喧嘩させ、あげく過疎の地方に札ビンタで押し付けるような今以上に野蛮な国になってほしくはありません。

今、自民党とそのコバンザメのような醜悪で無定見な公明党に選挙で勝たせてしまったら、これから4年間、フリーハンドでやりたい放題な権限を与えることになります。取り返しのつかない事になりかねません。

私は、少選挙区(三重3区)は共産党の候補に、比例区は社民党に投票します。もしそのことで日本がおかしくな事になったら、その責任の一端は当然負います。

自民党や公明党が好きで支持する人は仕方がない。でも、そこに投票した事を覚えておいて下さい。棄権は一番無責任で卑怯です。もし、長生き出来たら、あの時自分は○○党に入れたとちゃんと言いましょう。せめて、昭和のはじめに大人だったジジ、ババのように、時代が・・・とか、みんなが・・・とか言って、200万人もの若い人を殺させた事に言い逃れする無責任な人間にならないようにしましょう。