レイテ島で「戦死」した伯父・服部誠一のこと 1

わたしの伯父・服部誠一せいいち()は1944年(昭和19年)フィリピン・レイテ島で戦死しています。戦病死と伝えられたそうです。

わたしの父親の兄弟は6人です(男5女1)。うち二人(三男、長女=第5子)は夭折しています。誠一さん(いくら故人とはいえ自分の親族に敬称をつけるのは無作法かもしれませんが敢えてそう呼ばせてもらいます)は四男になります。ちなみにうちの父親は末子の五男です。父親を最後にもう兄弟は全員故人となっています。

父親の遺したアルバムの中に何枚か誠一さんの写真が残されていました。他の兄弟や親の写真などはせいぜい1〜2枚しか貼られていないのに複数の写真がまとめてありました。それには1枚1枚に説明書きが添えられています。この記事の画像の説明書きキャプション()もそれに拠っています。遺品の一部として分けられたのでしょうが、戦死した(させられた)兄への思慕と無念の気持ちが伝わっています。

次兄・芳三と幼い誠一
15歳の服部誠一
19歳の服部誠一
軍服の服部誠一
上の写真の裏書き。「派遣当時 威六五五六部隊中岡隊中退教育隊」とあります。

誠一さんについて父方の親戚などから聞かされた話など残念ながらあまり記憶にありません。ひとつは夭折した妹が脳に障害がありその子の面倒をよく見る優しい人だったこと。もうひとつやはり徴兵され敗戦後はシベリアに抑留されていた長兄が、弟の死を悼んで大岡昇平の『レイテ戦記』を繰り返し読んでいたことくらいです。

身内に対するひいき目もありますが、こうして残された写真を見ていると本当にいい若者です。直接記憶にある父方の兄弟4人に比べても一番上優しい聡明そうな顔をしています。大事にそだてられた事もうかがえます。戦争で死んだ(殺された)のは260万人という顔のない数字ではなくて、「英霊」とか言う戦争責任(者)をごまかすノッペラボウで意味不明なものではなく、こうした身近に生きた人間であったのだとあらためて思います。思い起こさなくてはいけなかったのです。

「関心失えば壊れる憲法」『中日新聞』日曜版

中日新聞日曜版、内容はテキストに。
『中日新聞』2020年5月3日憲法記念日・日曜版

東海3県(愛知・三重・岐阜)を中心に発行部数2,200万部、購読者割合60%とされる中日新聞の日曜版で、こうした全面記事が子供向けに載せられるのは嬉しいことです。かの朝日新聞が政府批判にすっかり腰抜けになり、従前からの権威主義的な物言いばかりが目につくようになってしまいました。ときの権力者に対しては常に批判的で監視の目を持ち憲法を守るというのは最低限のメディアの役割でしょう。

見出しとイラストの説明にはこうあります。

13条 個人の尊重

憲法学者の多くが最重要と考える条文
  • おとなしい子、活発な子、スポーツが好きな子、勉強が好きな子
  • みなさんは一人一人違って、そのままで守られています

9条 平和主義

非武装は世界に先がけたルール
  • 戦争で悲惨な目に遭ったから、日本国憲法は誕生しました
  • もめ事は、戦いではなく、話し合いで解決する。それが私たちのルールです。

立憲主義

権力から国民を守る
  • 強い人が勝手にルールを決めて弱い人をいじめたりしたら困りますよね
  • 憲法は強い人たちに対するブレーキです

2019年参議院選挙

随分更新をサボっていますが、恒例の選挙前の自宅写真です。これを載せねばブログなんてやっている意味がない。

7月19日の自宅写真

右に写っているのはユウガオとゴーヤのグリーンカーテンです。なぜかユウガオもゴーヤも蔓が伸び葉ばかりがやたらと大きくなって花を着けません。自宅でダンボールコンポストで作った堆肥を大きめのプランターに詰めて栽培しています。そのせいかとも考えたりします。この3年あまり、正確に言うと3年前のゴールデンウィーク以降ダンボールコンポストによる生ゴミの処理を始めてから、生ゴミというものをほとんど出していません。出すのは発酵されにくい玉ねぎの茶色の皮とコーヒーのフィルターの紙くらいかな。あとは魚の頭やはらわたから野菜くずはもちろん卵の殻、廃油までなんでも堆肥にしています。ただ最近は発酵を促進させるために入れた米ぬかが多すぎたかなと思っています。そのため窒素過多で茎葉ばかりがいつまでも大きくなっているかと考えています。

昨日は、四日市にあの総理大臣が来たようです。北海道のように連れ合いと帰れコールをしにいけばよかったと反省しています。歴代最低とか史上最悪とか、それはもう少しあとにある程度は歴史的な評価が必要でしょう。他にもレーガンの恥ずべき太鼓持ちとなって日本をアメリカの不沈空母かつ原発だらけにした中曽根康弘とか、自衛隊の海外派兵に道を開いた小泉純一郎とかがいます。ただ、いまの総理大臣がもっとも品性下劣で器量・教養とも最低な人物であることだけは確かです。このコンプレックスと歪んだ権力欲しかない人間は、憲法を変えた総理大臣として名を残したい。それで祖父や父親、兄に対する劣等感をはらしたいだけの人間に思えてきます。

比例区は写真の通り。それに選挙区は三重県では旧民主党勢から共産党までの野党統一候補が立ちましたのでそちらに投票いたします。

何があろうと公権力による殺人は許されない

公権力によって、7人もの殺人が一挙に行われる。それも事前の予告もなしに早朝から。そんなおぞましくも野蛮な国に私は住んでいる。

東京拘置所では3人が処刑されたという。刑場は1つしかないそうだ。それで遅くとも11時くらいには7人執行の報が流れた。朝の6時に一人目に執行が告げられたとして、一人ひとりに執行の告知からどれほどの時間が与えられたのだろう。検死や遺体の処理、清掃の時間も必要だ。遺書を残す時間もないだろう。ゆっくりそれまでの人生を振り返り罪を悔いる時間もなかろう。機械的にうむを言わさず流れ作業のように執行していったのだろうか。アンジェイ・ワイダの映画『カチンの森』の最後のシーン、ソ連の屠殺人が後ろ手してに前にかがませたポーランドの将校の頚椎を流れ作業のように拳銃で撃ちぬいていくシーンを思い出す。ヴィクトル・ザスラフスキーの『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』によると、それが一番確実で流血も少ない処刑方法で、もうソ連にはその当時そうした処刑専門の部隊があった。それは20年代からの自国民への大量虐殺による十分な経験によるものだった。今の北朝鮮の公開処刑の方がまだマシに思えてくる。日本でも戦後しばらくは、死刑の執行の数日前には通告がされていたという。それで死刑囚は自らの気持ちをを整理し遺書をしたため、場合によっては親族との面会もゆるされたらしい。いつからか今のような無機的・官僚的・非人間的な方法が慣例化されてしまったのか。それに抗議する意味もあってか永山則夫は自分の番が来た時は徹底的に暴れると公言し、同じ東京拘置所の死刑囚・故大道寺将司さんによればそれを実行したようだ。永山さん、よくやった!


つい最近やっと気がついたことだが、人間にとって、こっそり死ぬほど悲惨なことはない。

革命前の中国では、死刑囚は、刑の執行前にまず大通りを引き廻す。そのとき当人は、自分は無実だと訴えたり、役人を罵倒したり、自分の英雄ぶりを誇ってみせたり、あるいは死ぬことはこわくないと宣言したりする。その演技がクライマックスに達すると、見物についてくるヤジ馬からのヤンヤの喝采がおこり、あとでその噂は人から人へ伝わる。私がまだ若いころは、しょっちゅうそんな話をきかされたものだ。その度に私は、こういう光景を野蛮と思い、そのような処置を残酷だと考えた。

(中略)処刑前の死刑囚に公開発言をゆるすのは、むしろ成功した帝王の恩恵であり、かれらがまだ自分の力を信じている証拠だ、ということだ。自信があればこそ、せめて死ぬ前に自己陶酔にふけり、併せて人々に最期を知らせるため、死刑囚に発言をゆるすだけの余裕があるのだ。むかし私が残酷とばかり考えていたのは、不十分な判断だった。恩恵の意味がまじっているのを見のがしていた。私は、友人や学生の死とぶつかるたびに、その死んだ日時がわからず、場所がわからず、死因がわからないときは、それがわかるときよりも、もっと深い悲しみと不安を感ずるのが常である。そのことから逆の場合を類推すると、暗い部屋で少数の屠殺者の手で命をおとすのは、おおぜいの前で死ぬよりも、いっそう淋しいにちがいない。

魯迅 「二 隠された死について」「深夜に記す」から 『魯迅評論集』竹内好編訳 岩波文庫p50-52

私は、学生時代のうち3年間ほどをYMCA(学Y)の寮に住んでいた。万里小路東一条の角にある敷地には、ヴォーリスの設計による会館と私のいた京大の寮とともに府立医大の寮もあった。木造の小さなでも風情のある建物でせいぜいが3〜4人ほどしか居住できなかったと記憶している。今日、処刑された中川智正さんもそこに住んでいたこともあると、彼が逮捕されてしばらくしてからかつての寮生から聞いた。彼は私より6歳若い。それに退寮してから寮に出向くこともほとんどなかったので、おそらく顔を合わせたこともなかったと思う。それでも今日の報道で若い時のかれのまだ無垢さを完全にはなくしていない映像が流されると、彼がかつて私たちが暮らしたあの同じ敷地にいて、たとえば自転車で志賀街道から荒神橋を渡りシアンクレールの角を折れて(または万里小路通りを今出川まで出て、出町柳から鴨川を渡って・・・)大学に通う姿を想像してしまう。やはり悲しい。

私が殺人事件の被害者の家族だったら、加害者と同じ空気を吸っていると考えるだけで強い憤怒と嫌悪感を覚えるでしょう。早くあいつらを殺してくれ。できれば同じ苦しみを味あわせて。残念ながら犯罪加害者の中には更生も後悔も期待できないような人間がやはりいる。ドストエフスキーがイワン・カラマーゾフに言わせているように人を陵辱し殺めること(だけ)に性的な昂奮を感じるような連中も存在している。それでもやはり国家による殺人は許されるべきではないと信じます。この件に関してはまた別に書かなくてはと思います。

期日前投票に行ってきました (2017衆)

本日の我が家

 

  • 比例区 社民党
  • 少選挙区(三重3区) 野村まさひろ(共産党)
  • 最高裁裁判官国民審査 全員✘

 

私の投票行動は以上の通りです。22日(日)に仕事が入る可能性があるのと、もうこれ以上ろくでもない選挙報道など見たくもない。それで早々と期日前投票に行ってきました。

ふたたび、『あたらしい憲法のはなし』について

  • 『あたらしい憲法のはなし』 文部省

  • 『あたらしい憲法のはなし』について

  • 『あたらしい憲法のはなし』のオンライン・ドキュメント 2005年1月付け記事

  • 今から、12年前の2005年1月に私のホームページに載せた記事とドキュメントの紹介です。小泉純一郎、神崎武法らによってイラクへの自衛隊派兵がなされ、憲法改正が画策されたことに危機感を持ってアップしたものです。今、安倍晋三、山口那津男、小池百合子、松井一郎・橋下徹、そうしたゴロツキのような連中によって私たちの憲法が、本当に台無しにされようとしています。この『あたらしい憲法のはなし』には、戦争で負けた日本人が、どんな思いで憲法を作ったか、そして守ろうとしたかが平易な言葉で、でも強く書かれています。あらためて、もう一度読んで欲しい。広めて欲しいと思います。

    この12年前の『あたらしい憲法のはなし』についてでも書きましたが、今も、オンラインのドキュメントとしてルビをふったものは、残念ながら他にないようです。今なら、国内にたくさんいる外国人労働者やその家族に読んでもらうためにもルビは有用です。よく誤解というか歪曲されていますが、日本国憲法は、国民だけの権利を定めたものではありません。多くの条項は、その主語を何人もとされています。また特に主語を定めていない条項もそれに準じるものです。日本国憲法施行下にある人は、何人もその権利を知らされ、守られなくてはなりません。もちろん不法滞在者も含む在日外国人も、有事に逃れてくるであろう難民もその対象になります。それを、はなから射殺云々と言い放つ人間が副首相というのですから、本当におぞましい限りです。

    ちゃんとしたHTMLで、ルビをふるのは今でも相応に面倒な作業です。あらためて、このドキュメント(ruby要素つきHTMLソース)は自由に使ってもらって構いません。リンクはもちろん、コピーして自分のサイトやローカルディスクの保存などの、2次配布、3次配布も、商業利用も歓迎です。あえて言えば、 GPL に準じるものと考えています。これは、要するに先にあげたような、どんな利用も可能だが、それにあらたにクローズドなライセンスを被せるのは許さないと言う事です。

    HTMLのソース(マークアップされたもと言語)をダウンロードするには、下のリンクを右クリックして、名前を付けてリンク先を保存(Firefoxの場合)などお使いのブラウザに合わせて操作して下さい。上のリンクでも同様の操作で出来ます。詳しくは、『あたらしい憲法のはなし』についてにも書いてあります。

    『あたらしい憲法のはなし』 文部省


    GPLについてのリンク

  • GNU General Public License (原文)
  • GNU一般公衆ライセンス (日本語訳)
  • 藤田嗣治の戦争画について 2


    哈爾哈ハルハ河畔之戦闘》について

    《哈爾哈河畔之戦闘》は、藤田嗣治が戦争画のエースとしてのめり込むように製作を始める端緒となったと言われています。製作の経過からも内容からも、そうだったと思われます。その間の経緯を少し見ておきます。

    1938年5月に、陸軍の「中支那派遣軍報道部」(上海)というところが、8人の洋画家を招待して絵画の製作を依頼します。翌年7月、その「作品」は、第1回聖戦美術展に出品されのちに最初の作戦記録画とされたそうです。対抗するように同年9月、海軍軍事普及部が、6人の洋画家を中国南部・中部に派遣、一人2点の絵を委嘱します(「『作戦記録画』小史 1937〜1945」 河田明久  所収)。 この中に藤田嗣治が含まれています(その他、藤島武二、石井柏亭、石川寅治、田辺至、中村研二)。

    南昌飛行場の焼打 『藤田嗣治画集 異郷』を撮影

    南昌飛行場の焼打
    『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

    武漢進撃 『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

    武漢進撃
    『藤田嗣治画集 異郷』を撮影

    この時、藤田の描いた作戦記録画2点、《南昌ナンチャン飛行場の焼打》と《武漢ウーハン進撃》は、翌々年1941年5月の第5回大日本海洋美術展に出展されます。この2点の絵は、この後に描かれることになる暗く禍々しさにあふれた玉砕画に比べると、なんとも気の抜けたような絵に思えます。そもそもどんな作戦を記録した絵なのかもよく分かりません。《南昌飛行場の焼打ち》は、まだエコール・ド・パリの乳白色に繊細な線描というフジタらしさを感じさせる絵かもしれません。中央から右側に大きく描かれた飛行機とその搭乗員などは非常に細密に繊細に描かれています。遠方に黒煙がたなびき、破壊された青天白日の国章のついた飛行機などもあります。しかし、「作戦」の緊張感は感じられません。もう1枚の《武漢進撃》となると、さらにこれのどこが、「作戦記録画」なのかわかりません。一応長江が舞台としてもただそこを小さな軍用鑑が進んでいるだけ。絵としても面白くもない拙劣な出来で、2枚提出というノルマによって、いやいやながら描いただけの絵のように見えます。

    この《武漢進撃》の製作年を見ると1938〜1940年となっています(7)。中国への従軍の約半年後の39年4月、藤田はフランスへ行きます。ナチのパリ占領から逃げるように日本に戻るのが翌40年7月です。早描きで知られた藤田が、この軍の宿題たる作戦記録画を、2年間も放り出してパリへ行っていたということになるのでしょうか?この時期のパリ行についても、色々取りざたされた(されている)ようです。田中穣などは、洋行帰りに甘い日本画壇に対してもう一度”国際画家フジタ”のメッキをつけなおしてくる必要がある9 p234)と思い立ったためとしています。とにもかくにも、この時期までの藤田は、戦争画に対して積極的に取り組む意欲を持っていなかったのは確かでしょう。

    ところが、40年7月にパリから戻った時から藤田は変わります。パリでは、迫り来るドイツ軍の占領を目前にした喧騒を目の当たりにしてきたわけですし、戻った日本も1年の間に随分変わっています。国家総動員法が施行され、この年から画家だけでなく、文学者や音楽家も次々に従軍して中国へ向かっています。社会の変化に敏感で抜け目のない藤田が、そうした動向に気付かないはずがない。帰国早々にトレードマークにしていたオカッパ頭を角刈りにします。それを、毎日新聞にスクープさせ大々的に報道させます(田中穣・)。エコール・ド・パリのフジタから、国家総動員体制下の臣民・藤田への転身をアピールしたのでしょう。

    その40年9月から、前年のノモンハン事件の指揮をとった退役中将荻洲立兵からの依頼で、《哈爾哈河畔之戦闘》を描くことになります。軍からの委嘱ではなく退役軍人とはいえ個人の依頼で描いた絵は、後に陸軍に献納されて作戦記録画となる。製作にあたり荻洲の斡旋で戦闘の舞台となった中国東北部に取材し、戦車や戦闘機にも搭乗したといいます。

    藤田の甥で、当時慶応に在学中で藤田のアトリエの近くのアパートにくらしていた葦原英了は、その間の様子について次のように書いています。

    荻洲中将というのは、ノモンハン事件に参加して、敗戦の責を負って予備役に編入された人である。この人は戦死した部下の霊をねぎらうために、自分の貰った一時賜金を全部投げ出して、永久に記念として残る戦争画の製作をフジタへ依頼してきたのであった。

    フジタがこの絵から戦争記録画に本腰を入れ出したというのは、依頼者の頑張りが何をおいてもフジタを圧倒し尽くしたということである。荻洲中将は何かといえば製作中のアトリエに現れ、兵隊の鉄砲の持ち方がいけないの、バンドの締め方が間違っているのと指摘した。そしてお仕舞いには実物の兵隊を陸軍から借りてきて、アトリエでポーズさせたりした。鉄兜に網をかぶせて、その網目に草やら葉のついた小枝をさしたりした兵隊が、広くもない庭を駆け廻ったり、伏せたり、鉄砲を打つ恰好をしたりしていた。ノモンハンの草原に生えている草花をありのまま描いてもらいたいというわけで、フジタを現地に派遣すべく尽力して、遂にそれを実現させたほどの頑張り方であった。

    フジタは荻洲中将の余りにも強い熱意に、初めのうちはたじたじだったが、次第に戦争画そのものに興味を覚えてゆくようだった。戦闘帽のデッサンから、鉄兜、靴、背嚢、水筒、ゲートル、さては小銃、短剣、機関銃、迫撃砲、大砲など兵器に至るデッサンまで何百枚と出来た。戦車にも乗ったり、戦闘機にも乗ったりした。そして戦車や戦闘機の絵もたくさん描かれた。上空の雲の絵までが何十枚と出来たいた。戦争期記録画に必要なこういうデタイユが、腕を通してフジタの知識となった。そうして、フジタは次第次第に戦争画に熱意を覚えていった。

    葦原英了 「小説 藤田嗣治」『芸術新潮』1950年5月号 『僕の二人のおじさん 藤田嗣治と小山内薫』2007年9月 新宿書房 11 所収

    哈爾哈河畔之戦闘 上 全体 下 部分 『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

    哈爾哈河畔之戦闘
    上 全体 下 部分
    『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

    さて、この当初退役軍人という一個人の委嘱によって製作されたはずの絵は、いつの間にか陸軍の作戦記録画として、41年7月東京上野の第2回聖戦美術展に出品されます。そこでの評判を、田中穣はつぎのように書いています。

    フジタの戦争画中もっとも率直に、日本の古い合戦絵巻の魅力を現代的に再現した作品となった。

    「平治物語絵巻」や「猛攻襲来絵詞」など鎌倉時代の傑作とされる合戦絵巻の持つ日本の大和絵様式が、そのまま現代の油絵の郵送闊達な合戦絵巻に写しかえられているすばらしさに、人びとは目を奪われ、舌をまいた。

    たしかに国家総動員体制といっても、まだこの時期は、出征兵士の家族以外のほとんどの人間にとっては、所詮他人事だったと思います。そうした他人ごととしての戦争というのは、こうしたあっけらかんとした勇壮な絵巻として眺めるには心地よいものだったのでしょう。今の日本で、多くの人たちにとって、あの三代目のアホぼんの進める海外派兵や憲法改正の威勢のよい中身のない形容詞まみれの言葉が、おそらく心地よく響くのとよく似ているように思います。

    藤田嗣治の戦争画について 1

    もう終了してしまいましたが、先月、名古屋市美術館での藤田嗣治展(生誕130年記念 藤田嗣治展 —東と西を結ぶ絵画— 4月29日~7月3日)に行ってきました。なお、兵庫と府中では現在開催中、今秋開催予定です(展示会概要)。


    これは、以前にこのブログでも書いたことがあるのですが(「モーツアルトのピアノ協奏曲」)、美術評論家で画廊経営者でもあった洲之内徹は、司修との会話の中で、藤田は戦争責任なんて感じていないと思う、藤田の絵は戦争画しかない、あとはクズだよと言い放ったそうです(司修・『戦争と美術』1992年 岩波書店)。もちろん表立ってこんな事を言ったり書いたりはしていないようです。私は、洲之内徹という人が大嫌いなのですが、絵に対する眼力は確かで、あたりさわりのないありきたりの事しか言えない凡百の評論家とは比すべくないと思っています。また、自身が美大出の左翼活動家で転向者という事もあって、戦中戦後の画家たちの振る舞いに対する覚めた冷徹な見方をしています。この藤田に対するオフレコな発言も、藤田の絵と人に対するきわめて的確な見方だと、展示を見てあらためて思いました。

    右 委嘱者の元軍人・軍人に絵を説明する藤田。左 所在不明の2枚の藤田の戦争画 『藤田嗣治画集 異郷』・林洋子監修より

    右 委嘱者の元軍人・軍人に絵を説明する藤田。左 所在不明の2枚の藤田の戦争画 『藤田嗣治画集 異郷』・林洋子監修より

    日本の戦争画に関しては、その返還や公開に関しては色々な曲折があったようです。特に藤田嗣治のそれに関しては未亡人の君代さんの意向などもあって一筋縄にはいかなかったようです。それでも、この司修さんの『戦争と美術』が出版された1990年代からは少しづつ公開されはじめ、芸術新潮の特集『カンヴァスが証す画家たちの「戦争」』1995年8月号などで、図録としても紹介されだしました。元美術少年としては、この戦争画の問題はずっと気になっていました。とくに敗戦の夏になると、司さんの本を取り出して、その冒頭に掲載されているシャガールの「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」への献辞を読み返したりしていました。このシャガールの痛切な自己批判とナチを通り越してドイツ人やその画家に対する糾弾と怨念の言葉は心を打ちます。美術が政治や、まして戦争と無縁な超越した存在では決してありえない事を思い知らされます。シャガールの献辞は、「日本の侵略戦争の犠牲になった中国人(アジア人)画家(作家・音楽家・すべての表現者)展」のそれとして、文中のデューラー、クラナッハ、ホルバインを、藤田嗣治、川端龍子、横山大観と読みかえれば、日本の戦争画の果たしたもうひとつの役割が見えてきます。             

    少し長くなりますが、このシャガールの「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」への献辞を文末に引用しておきます。わたしの書いたものなど、まあどうでもよいですがこの献辞だけでもぜひご一読下さい。


    結論から書いておくと、私は藤田嗣治の絵が嫌いです。とくに今回見た彼の戦争画対しては強い嫌悪感を覚えました。なにかしらおぞましいものを前にした時の血圧が上がり、胃がキリキリとして悪いものがこみ上げてくる感覚です。この嫌悪感は、針生一郎がこの絵に対して作者の魂はまったくここに関与していないと喝破したように、いくら戦争画とはいえ死者(この場合は米兵になるが)や死にゆくものに寄せる同情、哀れみ、たむけ、痛憤そうした人間らしい一切の思いが感じられないことからくるのでしょう。かれら(玉砕してゆく兵隊)を手ゴマのようにもてあそぶ態度で、嬉々として兵士たちの絶望的な死闘を描き続けたのでは、と河田明久は指摘しています。そのとおりだったのでしょう。あとでもう少し詳しく検討したいと思います。

    次に、藤田の戦争責任、この直截な表現が嫌なら藤田の戦争画がそれを見る人に与えた影響はきわめて大きい。藤田自身のものも含めて、戦争画の数々を図版で見ていると、彼は名実とも美術界における戦争協力のトップランナーであったとわかります。今回の展示の「アッツ島玉砕」は、玉砕戦肯定・賛美の絵であり、その後の追随者エピゴーネンたちによる同じような暗い玉砕賛美の模倣画の先駆けとなります。また最後の戦争画である「サイパン同胞臣節を全うす」は、軍人の玉砕とともに民間人の集団自決を臣節として賛美・強要するものになっていると思います。ただ、こちらは敗戦によって追随者エピゴーネンどもが蠢き出す間もなかっただけの話です。この点も、敗戦後の戦争責任に対する論争とも関わってきますが後でもう一度触れます。


    さて、はじめに整理・俯瞰する意味もあって藤田嗣治の戦争画(軍委嘱の作戦記録画及び戦争に関係する絵画)で手持ちの書籍や図録と市と県の図書館で見ることができたものを列挙すると下の表のようになります。当然遺漏もあると思いますが、敗戦後、米軍に接収されその後無期限貸与という形で、現在東京国立近代美術館に所蔵されている藤田の絵は14点とされています。それは網羅していますし、あらかたこんなものでしょう。このうち今回の名古屋の展示で出展されていたものは、以下の3点です。

    • アッツ島玉砕
    • ソロモン海域に於ける米兵の末路
    • サイパン島同胞臣節を全うす

    続きます


    藤田嗣治の「戦争画」一覧
    題名 製作年 出品 所蔵先 注)1 備考 収録誌・画集 注)2
    千人針 1937年 所在不明 (7)
    千人針 1937年 個人蔵 (7)
    島の訣別 1938年 第25回二科展 事変室 所在不明 6
    南昌ナンチャン飛行場の焼打 1938〜39年 第5回大日本海洋美術展(1941年5月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 3 , 7
    武漢ウーハン進撃 1938〜40年 第5回大日本海洋美術展(1941年5月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 7
    哈爾哈ハルハ河畔之戦闘 1941年 第2回聖戦美術展(1941年7月) 東京国立近代美術館 個人委嘱、後に献納。陸軍作戦記録画 (2) , 3 , 6 , 7
    十二月八日の真珠湾 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 7
    シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 (5) , 7
    二月十一日(ブキ・テマ高地) 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 所在不明 陸軍作戦記録画 6
    佛印・陸からの進駐 1943年 陸軍美術展(1943年3月) 所在不明 陸軍作戦記録画 (7)
    佛印・海からの進駐 1943年 陸軍美術展(1943年3月) 所在不明 陸軍作戦記録画 (7)
    アッツ島玉砕 1943年 国民総力決戦美術展(1943年9月) 東京国立近代美術館 後、軍に献納。陸軍作戦記録画に (2) , 3 , 4 , (5) , 6 , 7
    ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943年 第2回大東亜戦争美術展(1943年12月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 4 , (5) , 6 , 7
    ○○部隊の死闘 ー ニューギニア戦線 1943年 第2回大東亜戦争美術展(1943年12月) 東京国立近代美術館 陸軍戦争記録画 6 , 7
    神兵の救出到る 1944年 陸軍美術展(1944年3月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 3 , (5) , 6 , 7
    血戦ガダルカナル 1944年 陸軍美術展(1944年3月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 (5) , 7
    ブキテマの夜戦 1944年 文部省戦時特別美術展(1944年11月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 7
    大柿部隊の奮戦 1944年 文部省戦時特別美術展(1944年11月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 7
    薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945年 陸軍美術展(1945年4月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 6 , 7
    サイパン島同胞臣節を全うす 1945年 陸軍美術展(1945年4月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 3 , 4 , (5) , 7
    • 注)1 所蔵先・東京国立近代美術館とあるのは、接収元の米国からの無期限貸与という扱いらしい。
    • 注)2 収録誌・画集のナンバーは巻末の参考文献から。( )内は、文中口絵として掲載のもの。

    シャガールの献辞(「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」)

    わたしは彼ら全員を知っていたか?
    わたしは彼らのアトリエにいたか?
    わたしは彼らの芸術作品を近々と、あるいは、離れて、見たか?
    そして今、わたしはわたし自身を離れ、
    わたし自身の実体を離れて、
    彼らの知られざる墓へおもむく。
    彼らはわたしを呼ぶ。彼らはわたしを、
    自分たちの墓穴へ引きずり込む・・・
    わたしは、無辜の罪を犯した者だ。
    彼らはわたしに問う。「おまえはどこにいたのだ?」
    ・・・わたしは逃げていました・・・
    彼らはあの死の浴室に連れて行かれ
    自分たちの汗を味わった。
    彼らが不意に、まだ描かれていない自分たちの絵画の光をみたのは、
    そのときだった。
    彼らは達成されなかった歳月を数えた。
    夢を、夢を満たすためにたくわえ、待ち望んでいた歳月を
    ・・・眠らなかった、眠たくなかった・・・
    彼らは、自分たちの頭の奥にある、子供時代の跡を突き止めた。
    そこでは、衛星を持つ月が、彼らに輝かしい未来を告げていた。
    暗い部屋の中や、山々や谷間の草地の中での若い愛が、
    かたちのいいあの果実が、
    温かい乳が、咲き乱れる花々が
    彼らにパラダイスを約束していた。
    彼らの母親の両手と両眼は、
    彼らとともにあの遠距離列車に乗っていた。
    わたしには見える。
    今、彼らはぼろをまといて、裸足で、
    沈黙の道を、足を引きずりながらのろのろ歩いているのだ。
    イスラエルの兄弟たちの、ピサロの、そして
    モディリアーニの・・・わたしたちの兄弟たちは・・・ロープに導かれ、
    デューラーの、クラナッハの、
    そしてホルバインの息子たちにみちびかれた・・・
    あの焼却炉の中の死へと導かれていった。
    どうすれば、わたしは涙を流すことができるだろう。
    涙を流すには、どうすればいいのだ?
    彼らが塩漬けにされてから、
    長い年月が経った・・・わたしの目からこぼれた塩に・・・
    彼らはあざけりとともに乾燥され、だからわたしは
    最後の希望を捨てるべきなのだろう。
    嘆き悲しむにはどうすればいいのだ?
    わたしの屋根から、最後の屋根板がはがされている音が、
    毎日、聞こえてくるのに。
    かつてわたしが置き去りにされ、
    いずれはそこによこたわって眠るための
    ほんのささやかな土地を守るために、
    戦うには疲労しすぎているときに。
    わたしには、あの炎が見える。立ちのぼって行くあの煙とあのガスが、
    あの青い雲を黒雲に変えるのが見える。
    わたしには、むしり取られたあの髪の毛と歯が見える。
    あの髪の毛と歯は、わたしに向かって不穏な棺衣を投げかける。
    わたしは、スリッパや、衣類や、灰やがらくたの山のまえの
    この砂漠に立って、カーディッシュの一節をつぶやいている。
    そして、そんなふうに立っていると・・・
    わたしの絵から、わたしに向かって下りて来るものがある。
    片手に七弦の竪琴を持っているあの描かれたダビデだ。
    わたしが嘆き悲しみ、
    詩篇を唱えるために、彼は手を貸したいと思っている。
    ダビデに続いて、わたしたちのモーゼが下りてきてこう言う。
    誰も恐れるな、
    新しい世界のために、わたしが新しい銘板を彫り上げるまで、
    おまえは静かに横たわっているべきだ、と。
    最後の火花が消え、
    最後の死体が消滅する。
    新たなる大洪水を前に、それはじっと動かなくなる。
    わたしは起き上がり、きみに別れを告げる。
    わたしはこの道をたどって新たなる神殿へおもむき、
    きみの絵のために、
    一本の蝋燭に火をともす。

    (英文からの邦訳、麻生九美)司修・『戦争と美術』より重引


    藤田嗣治の戦争画に関する参考文献の一部

    藤田嗣治の戦争画に関する参考文献の一部

    参考文献

    1. 『戦争と美術』 司修 1992年7月 岩波書店
    2. 『日本の戦争画 ーその系譜と特質』 田中日佐夫 1985年7月 ぺりかん社
    3. 『カンヴァスが証す画家たちの「戦争」』 芸術新潮1995年8月号
    4. 『LEONARD FOUJITA』生誕130年記念藤田嗣治展 ー東と西を結ぶ絵画図録 2016年
    5. 『戦争と美術 1937〜1945』 針生一郎他 2007年 国書刊行会
    6. 『画家と戦争 日本美術史の空白』河田明久 別冊太陽 2014年8月 平凡社
    7. 『藤田嗣治画集 異郷』 林洋子監修 2114年2月 小学館
    8. 『戦争画とニッポン』 椹木野衣x会田誠 2015年6月 講談社
    9. 『評伝 藤田嗣治』 田中穣 1988年2月 芸術新聞社
    10. 『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』 近藤史人 2002年11月 講談社
    11. 『僕の二人のおじさん 藤田嗣治と小山内薫』 葦原英了 2007年9月 新宿書房