寺田夏子の墓 3

寺田寅彦之妻
阪井重季長女
寺田夏子の墓むかって左側面 「寺田寅彦之妻/阪井重季長女」とある
明治三十五年十一月十六日/行年二十際
寺田夏子の墓むかって右側面 「明治三十五年十一月十六日/行年二十歳」とある

寺田夏子は1902(明治35)年11月15日、療養(隔離)先の桂浜で亡くなり、19日にこの寺田家の墓所に葬られました。夏子は1883(明治16)年7月10日生まれとされていますから、わずか19歳と4ヶ月を過ぎたばかりとなります。墓誌に行年二十歳とあるからか、20歳で死んだという記述が時々みられますが、それはいわゆる数え年のことです。そうすると「どんぐり」に描かれた小石川公園への散策は寅彦の日記から1901(明治34)年2月3日のこととされていますから、夏子はまだ17歳だった。寅彦自身も23歳の学生です。それを頭においてこの作品を読むとまたひとしおいとおしさがつのります。

寅彦は後年というかもう晩年に、最初の妻・夏子をここに葬ったときの事を書いています。

自分が若くして妻をうしなったときも、ちっとも涙なんか出なかった。ただ非常に緊張したような気持ちであった。親戚の婦人たちが自由自在に泣けるのが不思議な気がした。遺骸を郊外山腹にある先祖代々の墓地に葬った後、なまなましい土饅頭の前に仮の祭壇をしつらえ神官が簡単なのりとをあげた。自分は二歳になる遺児をひざにのせたまま腰をかけてそののりとを聞いていたときに、今まで吹き荒れていた風が突然ないだように世の中が静寂になりそうして異常に美しくなったような気がした。山の木立ちも墓地から見おろされるふもとの田園もおりから夕暮れの空の光に照らされて、いつも見慣れた景色がかつて見たことのない異様な美しさに輝くような気がした。そうしてそのような空の下に無心の母なき子を抱いてうつ向いている自分の姿をはっきり客観した、その瞬間に思いもかけず熱い涙がわくように流れ出した。

「十七 なぜなくか」「自由画稿」 寺田寅彦全集第十巻(岩波書店1962年7月) p63-64

この文章は、「自由画稿」というおそらくは雑誌の連載の随筆のひとつの中にあります。「なぜ泣くか」と題され、人が涙を流す例として瀕死のわが子を治療する医者の話や、テニスンの詩、芥川龍之介の小説などがあげられています。そのなかに以下はある男の告白である。として引用符をつけて、上の文章があります。この「なぜなくか」という論考ははっきりいって冗長でなにが言いたいのかもわからないようなものです。あわせて18題ある「自由画稿」そのものが面白くない。9題目の「歯」というのが父親や自分の入れ歯のことを具体的に扱っていて興味をひくくらいです。このある男の告白の部分だけは唐突に現れ異質でかつ生々しい情景描写になっています。ある男とは寅彦自身であり、これは夏子をこの墓所で葬ったときの記憶とされています。

それならばなぜこんな回りくどい書き方をしたのでしょう。もう晩年となった寅彦にはやはりなくった2番めの妻との間の4人の子どももいますし、再再婚した3番目の妻の紳もいます。いまさら若い日に亡くした妻のことを書くことに気が引けたということもあるでしょう。それと、30年以上経っても一人称で語ることをためらわれるような痛みを引きずっていたしょうか。他にも療養中の夏子を種崎に見舞ったときにその地で行われた盆踊りを書いたものがあります(「田園雑感」(1921(大正10)年7月)。この部分はまた簡潔ながら背景の描写から踊りの様子もいきいきと描かれたとてもよい文章ですが、また別項で引用します。ただ、ここでも寅彦は見舞ったのは肺結核でそこに転地しているある人であり、病人はそれからまもなくなくなったと他人事のような書き方をしています。

寅彦には「どんぐり」の他には夏子を事を直接描いたまとまった作品はありません。ただ「雪ちゃん」という「どんぐり」の前に書かれた(全集の日付から)らしい短編があります。そこでは本来いない亡妹に似ているという雪ちゃんが登場します。