昨日の朝、思い立って山に行って行きました。私の場合、山というと行く所は決まっているし、そのコースも最近は定点観測している樹木のいくつかを回ることが多くなりました。本当は何十年も前から見ている木に会いに行く、感覚的にもそういう感じなのですが、なんだか木工作家
の言辞めいていやなので今後は使いません。
入山規制の関係もあってこの5年ほど見ていなかったミズナラを目指しました。朝、出る時は特に意識していなかったのですが、車を降りて登山靴の紐を絞めるときには、そうだ今日はあのミズナラを見に行こうと考えていました。その木は源流域の沢筋にある巨木なのですが、5年前にはナラガレにやられてすでに立ち枯れ状態でした。7年ほど前の画像でもすでに樹勢は衰え葉の茂り具合も悪い。記憶では、そのさらに4〜5年前まではあの立派に大きく振った枝に青々とした葉をたたえていたように思います。ナラガレというか、寄生する線虫が導管に入って塞がれてしまう、つまり水を絶たれた状態にされてしまうようですが、そうなるとこうした巨木でもたちまち枯死してしまうのですね。
ですから、予想はしていたのですが、やはり倒れていました。それに枝の先端の部分は、すでに朽ちているし、太い幹の部分も雨と腐朽菌にやられて上皮なども剥がれ落ちていたり苔がむしていたりします。たとえでも言葉の修辞でもなく、実際に土に還ろうとしています。もう何年も前に倒れていたのですね。倒れても立派な大きな枝ぶりの樹勢はかわりません。名残りを留めているというよりも立っている時とは別の角度からその姿を見せてくれるため、あらためて良い木だったんだなと感心しました。
不思議と喪失感とか悲壮感はわきません。このまわりにも、というかこの森全体で、そこかしこに倒木があります。それぞれ倒れた時期が違い腐朽の具合も違います。大きな時間の流れの中で命の循環がある、無機物と有機物の環がつながりまわっていく。私達理系の人間は、それを熱力学の法則という理屈で説明し、宗教は輪廻とか縁起という言葉で説明しようとしています。森の中というのは、当たり前の話ですが、それが実際に止まることなく行われていると、その中に身を置いて実感しました。下山し、近くの温泉の湯に浸かった時は、すこし肩の力が抜け、身が軽くなっているように思いました。