ガリ版伝承館に行ってきた

雨の中休みのような先週・10月1日(土)、東近江市のガリ版伝承館と、西堀榮三郎記念探検の殿堂に行ってきた。

ガリ版伝承館。創業者の堀井家の旧宅とのこと。

ガリ版伝承館。創業者の堀井家の旧宅とのこと。

前者は、以前から気になっていた。懐かしさ半分、それと65歳になったらパソコン・インターネットをやめると公言していることもあって(65歳までに止めること、する事)、自分にとっての原初的な情報発信とか記憶伝承の方法としてガリ版というのもあるかなと思ったりしていた。実際に、鉄筆、ヤスリ、ロウ原紙を目にすると時間のフィルターで淡くぼかされていた記憶が、リアルな感覚を伴ってよみがえる。あの鉄筆でロウ原紙を刻んでいく作業は、指と手首を緊張させ、相応に神経を使う作業だったのだ。それを10代の終わりから20代のはじめにかけて、連日のように繰り返していた。若く、肩こりというものを知らなかった当時だからやれたものの、今ならとても無理そうだ。そのせいで、すっかり癖となった金釘流の文字と重い筆圧というものに、その後ずっと悩まされていた。これは本当に、おもな筆記の手段がいったんキーボードに代わるまで続いた。

「ホリイ」製の謄写版

「ホリイ」製の謄写版



どうも下の記述で、「ホリイ」の謄写版と思っていたのは、当時関西で普及していたという「サカタ」のものだったのではと訂正します。いい加減な記憶でものを書いて申し訳ありませんでした。[2016年10月23日]


なんでも凝り性だった私は、ガリ切り(カットと言っていた)とか、謄写版による印刷(こちらはスットと言った)にも多少のこだわりがあって、通常1000枚刷る事ができれば上出来だったロウ原紙と謄写版で、2000枚慎重にやれば3000枚近く刷ることが出来た。そんな事、今となっては何の自慢にもならないのだが、そうしたこだわりの中で、謄写版は萬古(ばんこ)「堀井」の二つのメーカーのものがあり、使い勝手とか作りの良さとかで、「萬古」のものの方がずいぶん上等に思えた。当時の学生自治会のボックスとか、寮の作業部屋には、たいてい複数の謄写版が並んでいた。「萬古」のものが多数を占めていたように記憶しているが、たまに先客がいる場合など、空いている「堀井」の器械を使った。堀井のものは全体に作りが悪く、快適で安定した作業が出来ない。謄写版というのは、単純な機構のものだが、下の台、ロウ原紙と絹のスクリーンを固定してインクの着いたローラーに押され続ける枠、それを絆ぐ丁番など、相応の負荷を受けながらスムーズに安定した動作が保たれないとリズムよく印刷が出来ない。


当時は、堀井が特許を持っていた創業社だとは知らなかった。むしろ、萬古と比べて品質の落ちる安物の製品しか作れない二流メーカーだと思っていた。そんな事も関係しているのか、堀井謄写堂ホリイ株式会社は、倒産してしまったようだが、萬古は、バンコ株式会社として、今も存在している。加えて、今も鉄筆を販売している。どうも、ペーパークラフトとかネイルアートに使えるらしい。

ガリ切りに使うヤスリ、修正液、鉄筆、ロウ原紙など。

ガリ切りに使うヤスリ、修正液、鉄筆、ロウ原紙など。

ロウ原紙、鉄筆、ヤスリ、ブラシと机の上に並べられていると、昔日の作業環境を思い出すが、一つ足りないことに気付く。当時、スパノールという商品名の薬品を使っていた。それとブラシを使って、ヤスリにこびりついたロウ原紙のカスをこそぎ落とすのだ。これもほとんど必需品と言えた。これは今もある工業用の洗浄剤のようだが、一般には市販されていない(さすがのネット通販でも見ない)。これを今から40年も前に、背広姿のおじさんが夜の大学の怪しげで雑然とした学生自治会の部屋や寮に売りに来ていた。良くしたもので、ちょうど在庫が切れそうな頃を見計らったように来る。今思うと、あの人はいったい何だったのだろう?まあ、それで助かっていたのだからいいのだけれど、不思議な気がする。本来の大学の業務用には、普通に昼間にまとめて納入するだろうから、問屋か小売店の営業マンがノルマの帳尻合わせか、あるいは横流しの小遣い稼ぎだったのか?ほとんど毎日のように大量のビラ類がまかれていた当時の京大なら、我々以外の○○同盟とか、×学同とか合わせるとそこそこの量はさばけただろうなと思う。