この季節、この日、読みたくなる話

 

どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう?そして子どもは時にずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?

つまり、人形をこわしたからといって泣くか、すこし大きくなってから友だちをなくしたからといって泣くか、それはどっちでも同じことです。この人生では、なんで悲しむかということはけっして問題でなく、どんなに悲しむかということだけが問題です。子どもの涙はけっしておとなの涙より小さいものではなく、おとなの涙より重いことだって、めずらしくありません。


船長ははとばに立って、小さなヨーニーの手をひき、ときどき腕時計を見、待ちかねていました。だが、ヨーニーのおじいさんとおばあさんはきませんでした。いや、こられなかったのです。ふたりはもう何年もまえに死んでしまっていたのですから!おとうさんはただ子どもをふり捨てようと思って、ドイツへ送ったのであって、そのさきのことは考えようとはしなかったのです。

その当時ヨーニーは、じぶんがどんな目に合わされたかがまだよくわかりませんでしたが、大きくなってから、夜、まんじりともしないで泣きあかすことが、いくどもありました。四つの時に加えられたこの悲しみを、彼は一生のあいだ忘れることができないでしょう。彼は気の強い少年ではあるのですけれど。


何ごともなれてしまえば、それまでだよ。とヨーニーはいいました。じぶんの両親をえらぶことはできないしね。ときどきぼくは、両親がぼくを迎えにここに現れた場合のことを考えるが、そうすると、ぼくはひとりでこここにいられるほうがどんなに楽しいかってことに、はじめて気がつくんだよ。それはそうと、船長さんが1月3日にハンブルグに着いて、ぼくをたずね、二日間ベルリンにつれていってくれるって。すてきだろう。彼はあいてに向かってうなずきかけました。心配しないでくれたまえ。ばくはひどく幸福じゃないよ。幸福だといえば、うそになるだろう。しかし、ひどく不幸でもないよ。


エーリッヒ・ケストナー 高橋健二訳 『飛ぶ教室』より