ロシア革命から100年だったのだ

ジョン・リードが伝えたロシア革命

今年はロシア革命から100年にあたり、先日11月7日はレーニン率いるボルシェビキがケレンスキー臨時政府を倒した10月革命から100年だったんですね。もう巷間話題にもなりませんが、ソ連邦崩壊以降は、虐殺と抑圧の歴史のはじまりのようにも考えられて、革命そのものが語られなくなってしまった。私自身も、かつて高橋和巳が情勢論と喝破したような嘘くさい政治論議はしたくありません。ただ、ロシア革命というと、かつてジョン・リードが目撃し描いた下のような世界を思い起こす事にしています。

かくも一生懸命に理解し決定しようと努めている人々を、私は未だかつて見たことがなかった。かれらは身動き一つせず、一種の恐ろしいような熱心さをこめて、演説者をみつめ、思考の努力で眉はしわ寄り、額には汗をにじませて立っていた。子供のような無邪気な澄みきった瞳と、史詩の勇士のような顔をもつ、偉大な巨人たち。・・・・

中略

都市、地方、全戦線、全ロシアのあらゆる兵営でくりかえされつつある、かかる闘争を想像せよ。連隊を見守り、あちこちへ急行し、議論し、脅迫し、懇願する不眠のクルイレンコ(ボルシェビキの軍務人民委員←投稿者注)たちを想像せよ。そして同様なことが、すべての地方の労働組合、工場、村落、遠くはなれたロシア艦隊の軍艦の上、でおこなわれているさまを想像せよ。広大な国のいたるところで演説者を見つめている無数のロシア人たち、一生けんめいで理解しようとし又選ぼうとし、ふかく考えこみー最後には満場一致で決定する労働者、農民、兵士、水兵たちを考えてみよ。ロシア革命とはかかるものだったのだ。・・・・

ジョン・リード著 原光雄訳 『世界をゆるがした十日間』上 岩波文庫 p224-228

この著者のジョン・リードをウォーレン・ベイティが演じた『レッズ』という映画がありました。その中の1シーンです。リードがソビエトの集会に参加しています。周りの労働者にアメリカから来たと知られて発言を促されます。リードは、私には代議権がない。と断ります。労働者は怪訝な顔をしてそんなものは必要ないと言い、リードは驚きながら壇上に上げられます。それまでの西欧的でお上品な、それゆえどこか嘘くさい代議制とか民主主義(的手続き)とは違う働く者・戦う者の意志決定の様子を象徴的に示すシーンでした。


しばらく前に、『ブラッドランド ヒトラーとスターリン大虐殺の真実』上下:ティモシー・スナイダー著という本を読みました。このロシア10月革命からわずか20年後に、西からヒトラー東からスターリンの1,400万人にのぼる非戦闘員の大虐殺がはじまります。この本では、ロシア西部・ウクライナ・ベラルーシ、それにバルト諸国にポーランドをブラッドランド(流血地帯)として、そこでの殺戮の様子を生々しく記述しています。ナチのユダヤ人やロマ・ポーランド人などに対する虐殺は早くから糾弾されてきました。しかし、スターリンとソ連の虐殺は、その現場がソ連国内とソ連支配の東欧にあったために実体が明らかにされてきませんでした。加えて、ソ連がナチと対抗する連合国側であったこと、西側諸国にソ連を擁護する共産党系あるいは民主勢力が、根強くあったため意図的に隠蔽され続けてきたのだとされています。


それでも100年前のロシアには、リードが記録したような本当に働く者が、自らの運命を決定するために文字通り命をかけて戦うという真実の世界があった。それは今でも世界中の進歩と変革を信じる人たちに記憶されるべきだと思います。

私の読んだ岩波文庫版の『世界をゆるがした十日間』の奥付には、

1957年10月25日 第1刷発行
1977年6月20日 第28刷発行

とあります。つまりこの本の日本語訳はちょうどロシア革命から40年後にその第1刷が発行されています。私が買った版はその20年後つまりロシア革命から60年後の発行のものです。たぶん時間をおかずに読んだはずです。それから既に40年が経っています。そうした時間の感覚から言うと100年前は紙の上のかび臭い歴史にしてしまうべきものではない。

私の読んだ『世界をゆるがした十日間』の奥付。40年前!

また引用ですが、自分のための備忘録としてお許しください。

ぼくらが耳を傾けるさまざまな声のなかには、いまや沈黙した声のこだまがまじってはいないか?(中略)もしそうだとすれば、かつての諸世代とぼくらの世代とのあいだには、ひそかな約束があり、ぼくらはかれらの期待をになって、この地上に出てきたのだ。

過去は、ひそやかな向日性によって、いま歴史の空にのぼろうとしている太陽のほうへ、身を向けようとつとめている。あらゆる変化のうちでもっとも目だたないこの変化に、歴史的唯物論者は、対応できなければならない。

ヴァルター・ベンヤミン 「歴史の概念について」野村修編訳・『ボードレール』岩波文庫 p328-330

ロシア革命に関する2冊の本


プロレタリアートは、机上の抽象でなく実体であり、ロシアの唯一の救いだったのだ

それともう1冊、これも随分以前に読んだものですが、ロシア革命を考えるというか感じるために面白い本です。

長谷川毅著 『ロシア革命下 ペトログラードの市民生活』中公新書 1989年

この本は1917年3月から18年5月に至るペトログラードの市民生活を、低俗新聞の社会面に載った記事によって再現するとするものです。ちょうど2月革命から、10月革命を経て、とりあえずボルシェビキにより社会生活の安定がもたらされつつあった期間の記録になります。

この間のことについては、ケレンスキーの臨時政府とその戦争継続政策がとか、レーニンの封印列車と4月テーゼがとか、コルニーロフの反乱とか表立った政治の表面のことは勉強してきました。しかし、実際の当時のロシアの都市や農村、前線の兵隊の状態などなにも具体的なことは知らないし、イメージさえ持てなかった。それをこの本は、当時の低俗新聞の記事の寄せ集めで、生々しく語ってくれています。いわばジョン・リードの本が描いた世界の裏側の事になります。

そこでは、強盗、殺人、脱獄、脱走、ほかありとあらゆる暴力沙汰が横行し、治安機関は無力化しています。意味のなくなった戦争を止めることができないケレンスキーの臨時政府と、なにも具体的に決められないドォーマ(国会)、今のシリアやイラクのような状態だったと思えば良いのでしょうか。そうした中で唯一統制の取れた意志決定のもとに活動できる集団が、工場労働者の労働組合であり、それに兵士・水兵(農民)を加えたソビエトの組織する赤衛隊だった。つまり、プロレタリアートというのは、本の中の概念ではなくて、当時のロシアでは、本当に社会の付託に耐えうるただひとつの実体だったのだ。それが、その後の内戦、内ゲバと粛清、外からの干渉戦争により疲弊し、実体としても解体させられていく。その中で、いかなる選択が可能だったのかという事なんだと感じました。

松下竜一 『その仕事』全30巻 2 大道寺将司さんの句

大道寺将司さんの獄中からの2冊の句集。

松下竜一さんが、『狼煙を見よ』で取り上げた”狼”の大道寺将司さんの俳句です。松下さん、大道寺さんの母親、支援者の荒木さんが立て続けに亡くなった2004年のものです。

その時の来て母環る木下闇こしたやみ

母死せるあした色濃き(がく)の花

悼 松下竜一さん

竜天に夏草の根を引つ摑み

封状の文字の滲みや虎が雨

『棺一基 大道寺将司全句集』より

引用3句目の竜天は、季語の竜天に登ると亡くなった松下さんの名前・竜一をかけたものでしょう。大道寺さんが、亡くなった人が天に登るという発想をしているとは思えません。数少ない掛け替えのない支援者で理解者であった松下さんが亡くなっても、弔いに出向くことも出来ない。それで、拘置所の作業なのでしょうか、運動場の草をむしるしかない。その無聊さと無念さを、天と閉ざされた狭い地を這うように囚われている自分を対比させ詠んでいる。そんなふうに読めます。

相次ぐ訃報を獄中で聞いた2004年というのは、大道寺さんにとっては辛い年だったでしょう。 大道寺将司さんと、お母さんは普通の親子とは違う関係であった、でもかえって、それゆえに深い絆で結ばれていたようです。詳しくは、松下さんの本を読んでいただくとして、松下さんがいなければ、この爆弾無差別殺人犯にそうした情に満ちた生い立ちと家族関係があった事など、知る由もなかったのです。

1句目、2句目はこのやはり看取ることの出来なかった母親の死を悼んだ句です。痛切な思いが伝わってきます。父親が亡くなってから、お母さんは北海道から暑い関東に越して来たそうです。なれない都会で、電車からホームへの転倒による骨折、加齢からくる圧迫骨折を繰り返しながら面会を続けてくれた。その母親を、ようやく涼しい木下闇に還すことなった。また訃報を伝えられた朝に目にしたものに獄屋のガクアジサイがあったのでしょう。そうした目にしたり耳にしたりした自分以外の周りのものに託すように言葉にする事でしか自分の悲しみを表現できない。そうしたことは確かにあるし、あった。大道寺さんは、松下さんか辺見庸に、逆縁にならなかったのが、まだ救いだ。と言ったそうですが、死刑囚の言として、それもつらい。

中学生の頃に習った有名な斎藤茂吉の歌を思い出します。

のど赤き玄鳥つばくらめふたつ屋梁はりにゐて足乳たらちねの母は死にたまふなり

斎藤茂吉というのは、自身精神科医でありながら随分ややこしい人間だったようです。歌壇での論敵に対する執拗で陰湿な攻撃的文章を読むと気分が悪くなります。今のネットでのギスギスして不毛なやり取りのようです。斎藤茂太や北杜夫が茂吉に触れたものを読んでも、どうもすっきりしないものを感じます。今は削除されていますが、wikipediaの茂吉に関する項では、おもに夫人に対する家庭内暴力云々の記述もありました。山形の田舎から、東京の医師の家に15歳で養子に出された三男坊の僻みかと安直に考えたりもします。そういったものが、まったくなかったとも言えないでしょう。生母に対する恩讐入り混じった感情も整理されぬままの喪失の悲しみを言葉にするには、こうした形しかなかったのかなと思います。たまふという敬語使いも、この時代の親に対するものとしては当たり前かもしれませんが、なにかよそよそしさを感じます。一方で、生みの母ではなかった年子(松下さんによる仮名)さんの将司さんに対する深い情愛と、それに応える句という形で残されたものがここにあります。

方寸(ほうすん)に悔数多あり麦の秋

面会の礼状に書き添えた句だそうですが、これも良い句です。


引用の4句目、虎が雨は季語ですが、その文字の滲みは、虎ならぬを名乗った自分の涙によると云うのは、少し深読みのし過ぎでしょうか。

松下竜一 『その仕事』全30巻 1 買ってしまった

物を減らすと言いつつまた増やしてしまいました。買ったものは、松下竜一 『その仕事』 全30巻。古本で送料込みで30,000円弱でした。もちろんアマゾン及びその登録業者からではありません。

松下竜一・『その仕事』30巻。並べるスペースがないので、畳に直置きしている。

きっかけは、松下さんの『狼煙を見よ 東アジア反日武装戦線”狼”部隊』をまた読みたくなったからです。先日亡くなった大道寺将司さんとご両親、その妻・あや子さんと東アジア反日武装戦線について書かれたドキュメントです。ずっと以前に求めて読んだものは、誰かの手元に渡ったまま戻ってきませんでした。松下さんの著作は、地元・四日市の図書館には所蔵が少なく、この『狼煙を見よ』もありません。津市にある三重県立図書館には、『その仕事』全30巻を所蔵していて、四日市図書館を通じて借りていました。たびたび、それを繰り返すのも面倒なのと、これから10年あるいは20年、読書を何年続けられるか分かりませんが、松下さんの本なら手元に置いて、いつでも手に取る事が出来るようにしたいと思いました。

それと、私の連れ合いが、この著作集の中でも1冊をついやして取り上げているある冤罪事件(『記憶の闇 甲山事件<1974→1984>』)の裁判闘争の事務局を務めていました。松下さんは、公判の傍聴やその後の集会にも参加してくれて、知遇を得ています。書かれている文章の通りの、真面目で謙虚な人だったそうです。また、いつも伊藤ルイさんと連れ立って来てくれたとのこと。伊藤ルイさんは、関東大震災の際、甘粕正彦ら憲兵隊により虐殺された大杉栄と伊藤野枝さんの娘さんです。そのルイさんの半生も松下さんは本にされています(『ルイズ 父に貰いし名は 』)。もちろんこれも『その仕事』の中に含まれています。そんな関係もあって、松下さんの本ならばと合意がえられました。

松下さんは、その出世作・『豆腐屋の四季』こそベストセラーになったようですが、家業の豆腐屋をやめて文筆業を始めてからのほうが、かえって生活は苦労なされてようです。それは、『その仕事』30巻に収められている作品の主なテーマを見ても分かります。私などにとっては、いずれも興味深いものなのですが、おそらくは一般受けのしないものばかりでしょう。たとえば、東アジア反日武装戦線や、大杉栄・伊藤野枝の遺児を書いた前掲3書の他にも、

『久さん伝』
大杉栄の仇を取ろうと陸軍大臣を狙撃したアナーキスト・和田久太郎の半生
『とりでに拠る』
大分でのダム建設に反対して、最後まで蜂ノ巣城に篭って戦った宮原知華
『檜の山のうたびと』
ハンセン病歌人・伊藤保の半生
『怒りていう、逃亡には非ず』
ダッカ事件で出獄し日本赤軍コマンドになった一般刑事囚・泉水博のこと
風成かぜなしの女たち』
大分県臼杵で、セメント工場建設のための埋め立てに反対した女性たちの闘争

などなど、一般の人の感覚からみると、こんな本だれが買うのだろう。むしろよく出版してもらえたなあとすら思います。自分の書きたいもの、書かなくてはという思いにのみ從って書き続けたからでしょう。物書きとしては当たり前のようですが、同じように社会的な観点のノンフィクションを書いている澤地久枝さんとか、辺見庸の場合は違う。何が受けるか、何を書いたら売れるのかを一方でちゃんと計算というかリサーチした上でテーマを選んでいるように感じます。それは、彼らが雑誌編集者とか通信社記者という商業主義的媒体にいたということと関係していると思います。30歳までひたすら豆腐屋家業に追われてきた松下さんとは違います。

台湾の木工書・『木工職人 基礎手工具』 
その1 買ってみた

阿部藏之さんのブログで紹介されていた台湾の木工の教科書が面白そうだったので取り寄せてみた。

台湾の木工書その名も『木工職人 基礎手工具』。発注から20日足らずで着いた。

台湾から物を買ったことがなかったが、出版元(?)のMUGOのショップサイト・MUGO 木工職人からたどっていくと、オンラインでも購入できそうだ。中国語もよくわからないが、漢字から類推していって何とかなった。そうか携帯電話のことを手機というのか、とかなかなか面白い。購入の具体的な手続きに関しては、あちらから英語のメールが来たので助かった。やりとりの具体的内容は省くが、こうした場合は、いい恰好せずに、たどたどしく発信するほうが良い。そうすれば、向こうもこちらの英語力を察して書いてくれる。

発送の方法と料金に関して多少のやり取りをした。最初、S.F.Expressという中国本土の物流会社を使って日本円で4,000円以上かかるが良いかとメールにあった。いくらなんでも4,000円は高い。それは、商品代金含めた値段かと問い合わせると、送料だけだとのこと。このS.F.Expressのサイトを見ると、スタンダードとエコノミーという2つのタイプがあるが、別に急がないからエコノミーにするか、他の発送方法はないかと尋ねる。すると、Chunghwa Post Co., Ltd. つまり中華郵政(台湾の郵便局)であれば300NT$(台湾ドル)で発送できると返事が来る。それでもまだ少々高い気がするが、まあ常識的範囲なので、それでお願いする。

9月7日にオンラインで注文して、上記のようなやりとりを経て17日に出荷したと連絡があり、昨日25日に書留扱いで着いた。高いと思った送料だが、書留ならこんなものか。安全さ確実さを優先させたのだろう。カード決済の結果は以下の通り。本自体は、定価・450NT$(台湾ドル・元)が、356NT$となっていた。税金の関係かと思ったが、オンラインの値段もはなから356NT$になっていた。

  • 『木工職人 基礎手工具』 NT$ 356(台湾ドル・元) → 1,320円
  • 送料 NT$ 300(台湾ドル・元)→ 1,123円

別に送料の件もぼったくろうという意図もなく、またメールのやりとりの間隔(こちらはなるだけ即日に返信しているが、あちらからは2~3日かかる)などみても、まだこの会社は若い会社で、台湾域内がメインで、中国本土とか中国語圏以外への発送など実績がないのかなとも思う。それでも誠意を持って対応してくれたと感じた。これがまだ玉石混淆でいっぱいスパムの飛んでくる中国本土の会社だったら、怖くてカード決済の取引などしていないでしょう。興味のある人は購入してみても良いかと思います。本の中身については、また次にします。

京都に納品、三月書房に寄る

日曜日は、京都に納品でした。ここ何年か仕事をいただくリピーターのお客さんです。今回は高座椅子で、宅配便での発送も出来たのですが、毎回お邪魔すると美味しいお酒とか気の利いたお菓子などいただくので、それが楽しみでもあり直接届けました。

こうした椅子は、お寺の法事の際などによく見かけるようになりました。畳とかフローリングで、慣れた座の生活を続けたい。ただ膝の負担が年々気になってくるという人のために、こうした高座椅子の需要は増えるように思います。

幅は、立派な体格のお客さんに合わせて57センチ。頑丈に組んであります。座の高さ、全体の高さは、お客さんんの指示で19センチと35センチ。メイプル、クリ、牛革。

少しだけ世間話をして、道が込まない早いうちに帰らせてもらいました。週末は、いつも新名神の亀山ジャンクションあたりから大変な渋滞になるのです。それでも多少時間があるので、久しぶりに寺町二条の三月書房に寄りました。この書店については、前にも少し書きました。学生の頃から折を見て通っていました。2間間口の小さな町の本屋という風情ですが、その品揃えが独特というか、硬派な主張が感じられます。たとえば、アナーキズム関連の書籍と雑誌、演劇・映画・コミック関係、様々な詩集・歌集・句集、民俗学関係、ファッションではない建築の本、ある種の政治・社会問題の本、など私の知る40余年そのポリシーは変わっていないように思います。私も、京都にいた頃に、白水社の古い版のブレヒト戯曲集とか、ベケットの1冊版の戯曲全集、ちくま文庫の柳田邦男全集の内の何冊か、それと中公文庫の折口信夫全集の何冊か、そんなものを買っていました。それから東京水平社関係とかアナキズム関連の書籍とか、ここでしか見たことのないものも買っていたなあ。あの小さい書店に、柳田とか折口の全集を全巻揃えてあって、それを分売してくれていました。大手書店はもちろん、大学の生協の書店でも後年はそうした対応をしてくれなかったように思います。それで、比較的売れ筋のような本でも、気になった本は、ここで買うようにしていました。

こうした本屋で、様々な本に囲まれ、その背表紙を眺めながら、そして気になった幾冊かを手にして目を通す。図書館とはまた少し違った幸せな時間です。休日ということもあってか、狭い店内に他にも3人のお客さんがいました。麻のシャツをザックリとまとった初老の男性、白いブラウスにデニムのスカートの自然な白髪の40代くらいかと思われる女性、もうひとり普通にジーンズにポロシャツの若い女性は、ずっと詩集のコーナーで、おそらくは誰かの詩集を読みふけっています。

そこへ、何十年か前のゴルフウェアのような妙ないでたちの60代も後半とおぼしき男性が2人入ってきます。あ、あったとかいいながらコミックのコーナーへ。そこでやれ、つげ義春がどうの、ガロが、カウンターカルチャーが云々と立ち話をはじめます。特に大声というわけでもなかったのでしょうが、狭い店内の事、延々と続く軽薄な語りがどうしても耳に入って気が散ります。まあ、これ以上続けるとお決まりの団塊に対する悪口になってしまうのでやめておきます。

話がずれますが、最近こうした自然な白髪の相応の年齢の女性をよく見かけるようになりました。それと、これまで2回ほど、街でベリーショートというか坊主頭の女性を見ました。私はいわゆる居職で、外に出ることが少ないし都会の生活とも無縁なので、知らないだけで、あるいはこういう人たちは増えているのかな。中山千夏さんなどが、その先駆けなのでしょうか。今、中国政府により軟禁状態にあるという劉霞さんもそうですね。いずれも、颯爽としてそれでいてごく自然な自信と意志を醸し出すお姿で、カッコよく素敵だなと思いました。誰が儲かるのか美魔女だのアンチエージングといった市井のキャンペーンに惑わされず、黒髪という根深い価値概念に抗って、今の自身の姿をひたすら肯定することから、ファッションや生き方を考えているのだと思います。ただ、それは頭ではわかっても、実際に一歩踏み出すには大変な勇気が必要でしょう。あれもはやりなのか、オッサンたちがショボい顎鬚を伸ばすのとは違います(例の加計某など、ネズミ小僧にしか見えません)。店内で、静かに本を探して開くこの白髪の、私にしたらまだ若い女性と、オレだって若い頃はガロなんか読んでいたんだぜとか言いたいだけのオッサンたちを、こうして間近で対比すると嫌になります。彼らと私なんて、傍から見れば同じひとくくりのオッサンです。気をつけたいと思います。

今や、アマゾンで本を買うのは犯罪とは言い過ぎかもしれませんが、グローバリズムに手を貸し、こうした優良な小規模小売店潰しに加担することになるのは確かです。もう本も、なるだけ図書館で借りて買うまいと思っているのですが、納品の時に、ここで買うのならいいだろうと、これもまた自分を合理化する屁理屈のようにも思います。


三月書房で、買った本は写真の3冊。合わせて6,804円で、貧乏自営業者にはかなりの散財になりますが、その本についてはまた別に。

『クレーの天使』 谷川俊太郎
『残(のこん)の月 大道寺将司句集』
『サンチョ・パンサの帰郷』 石原吉郎

藤田嗣治の戦争画について 2


哈爾哈ハルハ河畔之戦闘》について

《哈爾哈河畔之戦闘》は、藤田嗣治が戦争画のエースとしてのめり込むように製作を始める端緒となったと言われています。製作の経過からも内容からも、そうだったと思われます。その間の経緯を少し見ておきます。

1938年5月に、陸軍の「中支那派遣軍報道部」(上海)というところが、8人の洋画家を招待して絵画の製作を依頼します。翌年7月、その「作品」は、第1回聖戦美術展に出品されのちに最初の作戦記録画とされたそうです。対抗するように同年9月、海軍軍事普及部が、6人の洋画家を中国南部・中部に派遣、一人2点の絵を委嘱します(「『作戦記録画』小史 1937〜1945」 河田明久  所収)。 この中に藤田嗣治が含まれています(その他、藤島武二、石井柏亭、石川寅治、田辺至、中村研二)。

南昌飛行場の焼打 『藤田嗣治画集 異郷』を撮影

南昌飛行場の焼打
『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

武漢進撃 『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

武漢進撃
『藤田嗣治画集 異郷』を撮影

この時、藤田の描いた作戦記録画2点、《南昌ナンチャン飛行場の焼打》と《武漢ウーハン進撃》は、翌々年1941年5月の第5回大日本海洋美術展に出展されます。この2点の絵は、この後に描かれることになる暗く禍々しさにあふれた玉砕画に比べると、なんとも気の抜けたような絵に思えます。そもそもどんな作戦を記録した絵なのかもよく分かりません。《南昌飛行場の焼打ち》は、まだエコール・ド・パリの乳白色に繊細な線描というフジタらしさを感じさせる絵かもしれません。中央から右側に大きく描かれた飛行機とその搭乗員などは非常に細密に繊細に描かれています。遠方に黒煙がたなびき、破壊された青天白日の国章のついた飛行機などもあります。しかし、「作戦」の緊張感は感じられません。もう1枚の《武漢進撃》となると、さらにこれのどこが、「作戦記録画」なのかわかりません。一応長江が舞台としてもただそこを小さな軍用鑑が進んでいるだけ。絵としても面白くもない拙劣な出来で、2枚提出というノルマによって、いやいやながら描いただけの絵のように見えます。

この《武漢進撃》の製作年を見ると1938〜1940年となっています(7)。中国への従軍の約半年後の39年4月、藤田はフランスへ行きます。ナチのパリ占領から逃げるように日本に戻るのが翌40年7月です。早描きで知られた藤田が、この軍の宿題たる作戦記録画を、2年間も放り出してパリへ行っていたということになるのでしょうか?この時期のパリ行についても、色々取りざたされた(されている)ようです。田中穣などは、洋行帰りに甘い日本画壇に対してもう一度”国際画家フジタ”のメッキをつけなおしてくる必要がある9 p234)と思い立ったためとしています。とにもかくにも、この時期までの藤田は、戦争画に対して積極的に取り組む意欲を持っていなかったのは確かでしょう。

ところが、40年7月にパリから戻った時から藤田は変わります。パリでは、迫り来るドイツ軍の占領を目前にした喧騒を目の当たりにしてきたわけですし、戻った日本も1年の間に随分変わっています。国家総動員法が施行され、この年から画家だけでなく、文学者や音楽家も次々に従軍して中国へ向かっています。社会の変化に敏感で抜け目のない藤田が、そうした動向に気付かないはずがない。帰国早々にトレードマークにしていたオカッパ頭を角刈りにします。それを、毎日新聞にスクープさせ大々的に報道させます(田中穣・)。エコール・ド・パリのフジタから、国家総動員体制下の臣民・藤田への転身をアピールしたのでしょう。

その40年9月から、前年のノモンハン事件の指揮をとった退役中将荻洲立兵からの依頼で、《哈爾哈河畔之戦闘》を描くことになります。軍からの委嘱ではなく退役軍人とはいえ個人の依頼で描いた絵は、後に陸軍に献納されて作戦記録画となる。製作にあたり荻洲の斡旋で戦闘の舞台となった中国東北部に取材し、戦車や戦闘機にも搭乗したといいます。

藤田の甥で、当時慶応に在学中で藤田のアトリエの近くのアパートにくらしていた葦原英了は、その間の様子について次のように書いています。

荻洲中将というのは、ノモンハン事件に参加して、敗戦の責を負って予備役に編入された人である。この人は戦死した部下の霊をねぎらうために、自分の貰った一時賜金を全部投げ出して、永久に記念として残る戦争画の製作をフジタへ依頼してきたのであった。

フジタがこの絵から戦争記録画に本腰を入れ出したというのは、依頼者の頑張りが何をおいてもフジタを圧倒し尽くしたということである。荻洲中将は何かといえば製作中のアトリエに現れ、兵隊の鉄砲の持ち方がいけないの、バンドの締め方が間違っているのと指摘した。そしてお仕舞いには実物の兵隊を陸軍から借りてきて、アトリエでポーズさせたりした。鉄兜に網をかぶせて、その網目に草やら葉のついた小枝をさしたりした兵隊が、広くもない庭を駆け廻ったり、伏せたり、鉄砲を打つ恰好をしたりしていた。ノモンハンの草原に生えている草花をありのまま描いてもらいたいというわけで、フジタを現地に派遣すべく尽力して、遂にそれを実現させたほどの頑張り方であった。

フジタは荻洲中将の余りにも強い熱意に、初めのうちはたじたじだったが、次第に戦争画そのものに興味を覚えてゆくようだった。戦闘帽のデッサンから、鉄兜、靴、背嚢、水筒、ゲートル、さては小銃、短剣、機関銃、迫撃砲、大砲など兵器に至るデッサンまで何百枚と出来た。戦車にも乗ったり、戦闘機にも乗ったりした。そして戦車や戦闘機の絵もたくさん描かれた。上空の雲の絵までが何十枚と出来たいた。戦争期記録画に必要なこういうデタイユが、腕を通してフジタの知識となった。そうして、フジタは次第次第に戦争画に熱意を覚えていった。

葦原英了 「小説 藤田嗣治」『芸術新潮』1950年5月号 『僕の二人のおじさん 藤田嗣治と小山内薫』2007年9月 新宿書房 11 所収

哈爾哈河畔之戦闘 上 全体 下 部分 『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

哈爾哈河畔之戦闘
上 全体 下 部分
『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

さて、この当初退役軍人という一個人の委嘱によって製作されたはずの絵は、いつの間にか陸軍の作戦記録画として、41年7月東京上野の第2回聖戦美術展に出品されます。そこでの評判を、田中穣はつぎのように書いています。

フジタの戦争画中もっとも率直に、日本の古い合戦絵巻の魅力を現代的に再現した作品となった。

「平治物語絵巻」や「猛攻襲来絵詞」など鎌倉時代の傑作とされる合戦絵巻の持つ日本の大和絵様式が、そのまま現代の油絵の郵送闊達な合戦絵巻に写しかえられているすばらしさに、人びとは目を奪われ、舌をまいた。

たしかに国家総動員体制といっても、まだこの時期は、出征兵士の家族以外のほとんどの人間にとっては、所詮他人事だったと思います。そうした他人ごととしての戦争というのは、こうしたあっけらかんとした勇壮な絵巻として眺めるには心地よいものだったのでしょう。今の日本で、多くの人たちにとって、あの三代目のアホぼんの進める海外派兵や憲法改正の威勢のよい中身のない形容詞まみれの言葉が、おそらく心地よく響くのとよく似ているように思います。

藤田嗣治の戦争画について 1

もう終了してしまいましたが、先月、名古屋市美術館での藤田嗣治展(生誕130年記念 藤田嗣治展 —東と西を結ぶ絵画— 4月29日~7月3日)に行ってきました。なお、兵庫と府中では現在開催中、今秋開催予定です(展示会概要)。


これは、以前にこのブログでも書いたことがあるのですが(「モーツアルトのピアノ協奏曲」)、美術評論家で画廊経営者でもあった洲之内徹は、司修との会話の中で、藤田は戦争責任なんて感じていないと思う、藤田の絵は戦争画しかない、あとはクズだよと言い放ったそうです(司修・『戦争と美術』1992年 岩波書店)。もちろん表立ってこんな事を言ったり書いたりはしていないようです。私は、洲之内徹という人が大嫌いなのですが、絵に対する眼力は確かで、あたりさわりのないありきたりの事しか言えない凡百の評論家とは比すべくないと思っています。また、自身が美大出の左翼活動家で転向者という事もあって、戦中戦後の画家たちの振る舞いに対する覚めた冷徹な見方をしています。この藤田に対するオフレコな発言も、藤田の絵と人に対するきわめて的確な見方だと、展示を見てあらためて思いました。

右 委嘱者の元軍人・軍人に絵を説明する藤田。左 所在不明の2枚の藤田の戦争画 『藤田嗣治画集 異郷』・林洋子監修より

右 委嘱者の元軍人・軍人に絵を説明する藤田。左 所在不明の2枚の藤田の戦争画 『藤田嗣治画集 異郷』・林洋子監修より

日本の戦争画に関しては、その返還や公開に関しては色々な曲折があったようです。特に藤田嗣治のそれに関しては未亡人の君代さんの意向などもあって一筋縄にはいかなかったようです。それでも、この司修さんの『戦争と美術』が出版された1990年代からは少しづつ公開されはじめ、芸術新潮の特集『カンヴァスが証す画家たちの「戦争」』1995年8月号などで、図録としても紹介されだしました。元美術少年としては、この戦争画の問題はずっと気になっていました。とくに敗戦の夏になると、司さんの本を取り出して、その冒頭に掲載されているシャガールの「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」への献辞を読み返したりしていました。このシャガールの痛切な自己批判とナチを通り越してドイツ人やその画家に対する糾弾と怨念の言葉は心を打ちます。美術が政治や、まして戦争と無縁な超越した存在では決してありえない事を思い知らされます。シャガールの献辞は、「日本の侵略戦争の犠牲になった中国人(アジア人)画家(作家・音楽家・すべての表現者)展」のそれとして、文中のデューラー、クラナッハ、ホルバインを、藤田嗣治、川端龍子、横山大観と読みかえれば、日本の戦争画の果たしたもうひとつの役割が見えてきます。             

少し長くなりますが、このシャガールの「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」への献辞を文末に引用しておきます。わたしの書いたものなど、まあどうでもよいですがこの献辞だけでもぜひご一読下さい。


結論から書いておくと、私は藤田嗣治の絵が嫌いです。とくに今回見た彼の戦争画対しては強い嫌悪感を覚えました。なにかしらおぞましいものを前にした時の血圧が上がり、胃がキリキリとして悪いものがこみ上げてくる感覚です。この嫌悪感は、針生一郎がこの絵に対して作者の魂はまったくここに関与していないと喝破したように、いくら戦争画とはいえ死者(この場合は米兵になるが)や死にゆくものに寄せる同情、哀れみ、たむけ、痛憤そうした人間らしい一切の思いが感じられないことからくるのでしょう。かれら(玉砕してゆく兵隊)を手ゴマのようにもてあそぶ態度で、嬉々として兵士たちの絶望的な死闘を描き続けたのでは、と河田明久は指摘しています。そのとおりだったのでしょう。あとでもう少し詳しく検討したいと思います。

次に、藤田の戦争責任、この直截な表現が嫌なら藤田の戦争画がそれを見る人に与えた影響はきわめて大きい。藤田自身のものも含めて、戦争画の数々を図版で見ていると、彼は名実とも美術界における戦争協力のトップランナーであったとわかります。今回の展示の「アッツ島玉砕」は、玉砕戦肯定・賛美の絵であり、その後の追随者エピゴーネンたちによる同じような暗い玉砕賛美の模倣画の先駆けとなります。また最後の戦争画である「サイパン同胞臣節を全うす」は、軍人の玉砕とともに民間人の集団自決を臣節として賛美・強要するものになっていると思います。ただ、こちらは敗戦によって追随者エピゴーネンどもが蠢き出す間もなかっただけの話です。この点も、敗戦後の戦争責任に対する論争とも関わってきますが後でもう一度触れます。


さて、はじめに整理・俯瞰する意味もあって藤田嗣治の戦争画(軍委嘱の作戦記録画及び戦争に関係する絵画)で手持ちの書籍や図録と市と県の図書館で見ることができたものを列挙すると下の表のようになります。当然遺漏もあると思いますが、敗戦後、米軍に接収されその後無期限貸与という形で、現在東京国立近代美術館に所蔵されている藤田の絵は14点とされています。それは網羅していますし、あらかたこんなものでしょう。このうち今回の名古屋の展示で出展されていたものは、以下の3点です。

  • アッツ島玉砕
  • ソロモン海域に於ける米兵の末路
  • サイパン島同胞臣節を全うす

続きます


藤田嗣治の「戦争画」一覧
題名 製作年 出品 所蔵先 注)1 備考 収録誌・画集 注)2
千人針 1937年 所在不明 (7)
千人針 1937年 個人蔵 (7)
島の訣別 1938年 第25回二科展 事変室 所在不明 6
南昌ナンチャン飛行場の焼打 1938〜39年 第5回大日本海洋美術展(1941年5月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 3 , 7
武漢ウーハン進撃 1938〜40年 第5回大日本海洋美術展(1941年5月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 7
哈爾哈ハルハ河畔之戦闘 1941年 第2回聖戦美術展(1941年7月) 東京国立近代美術館 個人委嘱、後に献納。陸軍作戦記録画 (2) , 3 , 6 , 7
十二月八日の真珠湾 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 7
シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 (5) , 7
二月十一日(ブキ・テマ高地) 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 所在不明 陸軍作戦記録画 6
佛印・陸からの進駐 1943年 陸軍美術展(1943年3月) 所在不明 陸軍作戦記録画 (7)
佛印・海からの進駐 1943年 陸軍美術展(1943年3月) 所在不明 陸軍作戦記録画 (7)
アッツ島玉砕 1943年 国民総力決戦美術展(1943年9月) 東京国立近代美術館 後、軍に献納。陸軍作戦記録画に (2) , 3 , 4 , (5) , 6 , 7
ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943年 第2回大東亜戦争美術展(1943年12月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 4 , (5) , 6 , 7
○○部隊の死闘 ー ニューギニア戦線 1943年 第2回大東亜戦争美術展(1943年12月) 東京国立近代美術館 陸軍戦争記録画 6 , 7
神兵の救出到る 1944年 陸軍美術展(1944年3月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 3 , (5) , 6 , 7
血戦ガダルカナル 1944年 陸軍美術展(1944年3月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 (5) , 7
ブキテマの夜戦 1944年 文部省戦時特別美術展(1944年11月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 7
大柿部隊の奮戦 1944年 文部省戦時特別美術展(1944年11月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 7
薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945年 陸軍美術展(1945年4月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 6 , 7
サイパン島同胞臣節を全うす 1945年 陸軍美術展(1945年4月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 3 , 4 , (5) , 7
  • 注)1 所蔵先・東京国立近代美術館とあるのは、接収元の米国からの無期限貸与という扱いらしい。
  • 注)2 収録誌・画集のナンバーは巻末の参考文献から。( )内は、文中口絵として掲載のもの。

シャガールの献辞(「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」)

わたしは彼ら全員を知っていたか?
わたしは彼らのアトリエにいたか?
わたしは彼らの芸術作品を近々と、あるいは、離れて、見たか?
そして今、わたしはわたし自身を離れ、
わたし自身の実体を離れて、
彼らの知られざる墓へおもむく。
彼らはわたしを呼ぶ。彼らはわたしを、
自分たちの墓穴へ引きずり込む・・・
わたしは、無辜の罪を犯した者だ。
彼らはわたしに問う。「おまえはどこにいたのだ?」
・・・わたしは逃げていました・・・
彼らはあの死の浴室に連れて行かれ
自分たちの汗を味わった。
彼らが不意に、まだ描かれていない自分たちの絵画の光をみたのは、
そのときだった。
彼らは達成されなかった歳月を数えた。
夢を、夢を満たすためにたくわえ、待ち望んでいた歳月を
・・・眠らなかった、眠たくなかった・・・
彼らは、自分たちの頭の奥にある、子供時代の跡を突き止めた。
そこでは、衛星を持つ月が、彼らに輝かしい未来を告げていた。
暗い部屋の中や、山々や谷間の草地の中での若い愛が、
かたちのいいあの果実が、
温かい乳が、咲き乱れる花々が
彼らにパラダイスを約束していた。
彼らの母親の両手と両眼は、
彼らとともにあの遠距離列車に乗っていた。
わたしには見える。
今、彼らはぼろをまといて、裸足で、
沈黙の道を、足を引きずりながらのろのろ歩いているのだ。
イスラエルの兄弟たちの、ピサロの、そして
モディリアーニの・・・わたしたちの兄弟たちは・・・ロープに導かれ、
デューラーの、クラナッハの、
そしてホルバインの息子たちにみちびかれた・・・
あの焼却炉の中の死へと導かれていった。
どうすれば、わたしは涙を流すことができるだろう。
涙を流すには、どうすればいいのだ?
彼らが塩漬けにされてから、
長い年月が経った・・・わたしの目からこぼれた塩に・・・
彼らはあざけりとともに乾燥され、だからわたしは
最後の希望を捨てるべきなのだろう。
嘆き悲しむにはどうすればいいのだ?
わたしの屋根から、最後の屋根板がはがされている音が、
毎日、聞こえてくるのに。
かつてわたしが置き去りにされ、
いずれはそこによこたわって眠るための
ほんのささやかな土地を守るために、
戦うには疲労しすぎているときに。
わたしには、あの炎が見える。立ちのぼって行くあの煙とあのガスが、
あの青い雲を黒雲に変えるのが見える。
わたしには、むしり取られたあの髪の毛と歯が見える。
あの髪の毛と歯は、わたしに向かって不穏な棺衣を投げかける。
わたしは、スリッパや、衣類や、灰やがらくたの山のまえの
この砂漠に立って、カーディッシュの一節をつぶやいている。
そして、そんなふうに立っていると・・・
わたしの絵から、わたしに向かって下りて来るものがある。
片手に七弦の竪琴を持っているあの描かれたダビデだ。
わたしが嘆き悲しみ、
詩篇を唱えるために、彼は手を貸したいと思っている。
ダビデに続いて、わたしたちのモーゼが下りてきてこう言う。
誰も恐れるな、
新しい世界のために、わたしが新しい銘板を彫り上げるまで、
おまえは静かに横たわっているべきだ、と。
最後の火花が消え、
最後の死体が消滅する。
新たなる大洪水を前に、それはじっと動かなくなる。
わたしは起き上がり、きみに別れを告げる。
わたしはこの道をたどって新たなる神殿へおもむき、
きみの絵のために、
一本の蝋燭に火をともす。

(英文からの邦訳、麻生九美)司修・『戦争と美術』より重引


藤田嗣治の戦争画に関する参考文献の一部

藤田嗣治の戦争画に関する参考文献の一部

参考文献

  1. 『戦争と美術』 司修 1992年7月 岩波書店
  2. 『日本の戦争画 ーその系譜と特質』 田中日佐夫 1985年7月 ぺりかん社
  3. 『カンヴァスが証す画家たちの「戦争」』 芸術新潮1995年8月号
  4. 『LEONARD FOUJITA』生誕130年記念藤田嗣治展 ー東と西を結ぶ絵画図録 2016年
  5. 『戦争と美術 1937〜1945』 針生一郎他 2007年 国書刊行会
  6. 『画家と戦争 日本美術史の空白』河田明久 別冊太陽 2014年8月 平凡社
  7. 『藤田嗣治画集 異郷』 林洋子監修 2114年2月 小学館
  8. 『戦争画とニッポン』 椹木野衣x会田誠 2015年6月 講談社
  9. 『評伝 藤田嗣治』 田中穣 1988年2月 芸術新聞社
  10. 『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』 近藤史人 2002年11月 講談社
  11. 『僕の二人のおじさん 藤田嗣治と小山内薫』 葦原英了 2007年9月 新宿書房

古本市

一昨日の青空古本市で買った2冊。いずれも100円

青空古本市で買った2冊

青空古本市で買った2冊

懐石全書 春夏秋冬 1 一月二月三月 淡交社

懐石は茶道の精神を持って料理されるのですから、まず心入れのある手料理であらねばなりません。山海の珍味や、季節はずれのものをご馳走するのではなく、四季折々の旬の新鮮な材料を茶事の趣向によって取り合わせ、演出し、その素材を充分生かした調理に心がけるのです。それは煮すぎず、焼きすぎず、あまり手を加えすぎず、できるだけ自然のままに仕立て、熱いものは熱く、冷たいものは冷たく、かおりと熱を大事にして、つくりたてのほやほやをこぎれいに盛り合わせて客にすすめます。これが懐石ではないでしょうか。

あまり手を加えすぎずに反応している気もしますが、別に懐石云々と構えずに普段の料理の心がけとしては、間違っていなかったかなあと嬉しくなります。それでもこの本に書かれているような、あとひと手間のような料理を作りたいなあと思います。100円で随分楽しめそうです。

エンツェンスベルガー 国際大移動 野村修訳 晶文社
エンツェンスベルガー著・野村修訳という私の定番のような本ですが、これは持っていませんでした。

エンツェンスベルガーの『スペインの短い夏』という本は、内戦下の共和国側スペインの指導者でアナーキストのドゥルティの短い生涯のドキュメントです。私にとっては、歴史書あるいはドキュメントというのはかくあるべきというお手本です。ベンヤミンの「歴史の概念について」という論考を、実際のドキュメントとして形にするとこうなるのか。実際に、エンツェンスベルガーもこのベンヤミンの論考を意識して書いているのだと思います。原著は、1992年の発行となっていますが、今のヨーロッパのレイシズムやネオナチの台頭や、日本のヘイトスピーチを考える一助にしたいと思います。

やはり50円とか、100円で買ってもらった本たちも、新しい持ち主の手で楽しんでもらっているかなあとか考えていると、これも楽しくなります。