支援活動を始めて3日目の早朝、海岸部を含めた石巻市街地が一望できるという日和山に登りました。テレビなどで流された石巻の津波の画像の多くはここから撮影された物のようです。
山から下りて車を停め、旧北上川沿いに走る県道7号線界隈を視察しました。ある交差点で一人の老婦人を見かけました。下の画像はその交差点から北側を撮ったものです。すっかり津波による瓦礫に埋もれていますが、画像の手前左下側から中央部にかけて県道7号線が走っていました。
Googleのストリートビューで、震災前のほぼ同じアングルの画像を見ることが出来ました。
この通りの奥に、ご婦人がご主人と営んでいた旅館があったそうです。反対側の交差点の方が近いのですが、そちらもやはり瓦礫で埋もれて近づけないのでこちらに回ってきたという事でした。震災当日、ご主人はデイサービスである施設に行っていたそうです。地震の後、津波を避けるため施設からは6台の車に分乗して避難したそうですが、うち避難所に無事たどり着けたのは先頭の1台のみであとの5台は津波にのまれてしまったそうです。ご主人はそのうちの1台に乗っていたもようで、それ以来安否不明、ご自身は市役者の3階の避難所に待避しています。経営していた旅館を見に来たのは、近くの商店街の知人たちなら何かご主人の安否情報を持っていないかと思ってだそうですが、残念ながら道路は画像のような状態で近づくことも困難です。
現地で合流し当日まで一緒に活動していた佐々木康介君(26歳ニートが社会復帰を目指すまでのブログ)が、自分のスマートフォンを使ってネット上の安否確認サイトで調べはじめてくれました。しかし、ご婦人には娘さんがいて一緒に安否確認をしてくれていると聞いて、佐々木君に検索をやめてもらいました。佐々木君も意図を即座に理解してくれたようです。震災からすでに12日がたち、もし確定した安否情報がもたらされるとしても、それは良い情報ではないでしょう。それにそうしたネットでの検索・調査などは娘さんがやっているでしょうし、もしかしたら情報を得ていてお母様に伝えるタイミングをみているということも考えられます。
穏やかにお話をされるご婦人の目は潤み、左の目からは涙があふれていました。なにか困っている事はないか水や食事は足りているかと聞くと、避難所では食事も出るし特に困っていないと答えてくれます。しばらく間をおいて、市役所(避難所)から歩いて来たので喉が渇いたのでお水をいただけないかと遠慮がちにおっしゃいます。すぐに車に戻って、ペットボトルの麦茶と出発時に伯母から預かった和菓子の詰め合わせの箱を渡しました。こうしたこともあろうかと思って常に車に積んでいたのです。そういえば、そのご婦人は私の母親や伯母(母親の姉)と同世代の方のようです。この事を戻ってから伯母にも報告しましたが、お菓子は文字通りこのご婦人のために預かったような不思議な気持ちになりました。
さて、これは避難所で皆さんと一緒に召し上がって下さいと手渡すと、すこし驚いたように見ず知らずの方にこんなに親切にしてもらって申し訳ありません。
とそれはそれは丁寧にお辞儀をされました。おそらくは戦争や戦災も経験し、それでもこれまで一生懸命働いて日本を支え我々を育ててくれた人に、なんでこれしきのことで頭を下げられなくてはならないのでしょう。申し訳ないし、もったいないことです。
集合時間が迫っていたこともあって、分かれた婦人が瓦礫の山の間を戻っていく後ろ姿を黙ってしばらく黙って見送ることしか出来ませんでした。50年も生きてきて、こうした状況でかける言葉やあらわす態度や行動も持ちあわせていないというのは情けないことです。車に乗ってもらうか、私一人でも一緒に歩いて避難所までついていって、その間にお話でも聞かせてもらうかくらいの機転がなぜきかなかったのかといまでも後悔しています。