叔父の告別式に東京・目黒に行く 1

例によって泥縄で確定申告を最終日・16日にすませる。翌17日はその三日前に亡くなった横浜の叔父の告別式のため東京に出かけた。目黒の五百羅漢寺という所。横浜に住んでいてなぜ目黒かと思ったが、生前に墓地を購入し合わせて菩提寺としていたとのことだった。スマートでお洒落だった叔父には、この目黒という地はよく似合っていると、式の前に周辺を少し散策して感じた。

目黒川。この日の東京は18度まで気温が上昇。花粉が目と鼻にきた。

目黒川。この日の東京は18度まで気温が上昇。花粉が目と鼻にきた。

目黒駅を降りて、目黒通りを西に向かう。山手通りの大鳥神社を超えて目黒寄生虫館に寄る。名前からイメージされるおどろおどろしい施設では全くない。外観も展示スペースも目黒のお洒落なブティックという風情で、ともすればタブー視されがちなテーマを明るく健康的に展示している。そうだ世界的に見れば、まだ寄生虫というのは健康問題でもあるのだ。入館は無料で、館内の撮影も自由だ。ただし、他の見学者の映り込みに注意して下さいと掲示されてある。なんと言う良心的な配慮かと感心する。ここのミュージアムショップがまた絶妙で、キワモノと冗談の境目にきわどく滑り込んでいる。ちなみに定番の立体サナダムシT シャツは、私は着る根性はなく、着て歩く、電車に乗るのも問題なしと断言する某女史へのお土産にする。自分用には大人しめ(?)の別のプリントのものを購入。合わせてフタゴムシの付箋と虫を図案化したイラストの入った定規を買う。これは普通にかわいいぞ。

目黒寄生虫館の展示スペース。明るく開放的に展示することで、広く啓発したいという健全かつ積極的な姿勢がすばらしいと思う。

目黒寄生虫館の展示スペース。明るく開放的に展示することで、広く啓発したいという健全かつ積極的な姿勢がすばらしいと思う。

寄生虫館の角を南に折れて、三折坂をから龍泉寺(目黒不動)へ。私は大阪と東京を比較する時は、実際に関西が長かった事もあり大阪びいきになるが、坂が多くその周辺の風情という面では圧倒的に東京がいい。)三折坂(みおりざかというのは、3回折れるという意味と不動さんへの参道で御降りと呼ばれたからとも言う云々。そこから五百羅漢寺とは少し道を外れるが林試の森公園に寄る。ここは旧林野庁の林業試験場だった所で、後に都に払い下げられ公園として整備されたそうだ。その由来通り、内外の幅広い樹種が観察できて1日遊べそうだ。関東でこんな大きなクスは初めて見たように思う。ここのサクラはほぼ満開で、遠足の保育園児と思しき団体が早、花見をしている。近所のお年寄りたちが散策がてら立ち話に興じている。名残惜しいが、さすがに不謹慎に遊んでばかりもいられないと思って式場に向かう。出口近くに小さな月桂樹を見つける。スマートで粋だった叔父のたむけとして棺に入れたいと思って1枚、もう1枚。合わせて2枚の葉を頂戴した。カレーやサラダに入れるわけではないので、と自分で言い訳をする。それと古い話になるが、大学の農学部と理学部があった北部構内にやはり月桂樹があって、ポテトサラダとかカレーを作る時は何枚か頂戴していた。叔父とは同じ京大(三高)つながりで、これも何かの縁かと思った。それに私と違って仕事でも私生活でも歳月を全うして米寿の祝いも済ませて逝った叔父には、勝者の証ともされた月桂樹が似合う。ひねくれ者の私が、ヤッカミなしに素直にそんなふう思えるような穏やかで誰に対してもいつも謙虚で優しい人だった。

林試の森公園の桜は、早くも満開だった。

林試の森公園の桜は、早くも満開だった。

一年

一年前の今日は、空が低く暗い寒々しい日だったと記憶しています。通夜と葬儀を行った翌日と翌々日は、日差しも戻り穏やかな秋晴れでした。葬儀が終わり家から棺を載せて斎場に向かう霊柩車の運転手が、しばらく寒い日が続いて昨日までは斎場が混んで順番待ちのような状態だった。今日は比較的空いている。お母さんは頑張ってくれたのですね云々。そう言えば前日の18日の夜、名古屋の電気文化会館でのギアン・ケラスさんのバッハ無伴奏チェロ組曲のコンサートを予約していた。週末には容態の改善の兆しもあるとされていたのが、この日のあらためての検査で、回復の見込みなしとされた。

結局18日は、持ちこたえて翌19日の夕方に亡くなることになってしまいましたが、1日待ってくれたというか、せっかく楽しみにしていたのだから行けばよかったのにと言われていたような気が今さらします。もちろん、そんな状況で、コンサートなんか行けるはずもなかったのですが。前にも書きましたが、5年前父親の心肺停止の報を受けたのは東京へ向かう新幹線の中でした。やはり当日夜、新宿のオペラシティでのパトリシア・プティボンのリサイタルのチケットを予約購入してありました。宿まで取ってあったのですが、折り返し四日市に戻りました。混乱して錯綜する想いの中で、なんでもう1日待ってくれないと思っていました。父親の場合は、体はずいぶん弱っていましたが、重篤な状態というわけではありませんでした。現に急性期の病院を退院させられる予定で、次の事を塩梅している最中だったのです。

こうした偶然に都合の良い意味付与をする事を好みませんが、2人の亡くなり方が、その性格のある面を現しているようにも思えてきます。

海蔵川のサクラの落ち葉

海蔵川のサクラの落ち葉

今年は、いつも雑種犬タローを散歩させる海蔵川のサクラの葉の色づきが鮮やかです。昼休みに拾ってきた何枚かの落ち葉をスキャンしてみました。別に山のナナカマドや山漆でなくても、近くにも艶やかな紅葉を見ることが出来るのだ、と自分を慰めています。

 

一周忌でした

今日は、昨年の11月19日に亡くなった母親の一周忌の法要でした。あらためて、こうした法事は送った者の言い訳と自分に対する取り繕いのための儀式という気がしてきます。本当の意味で、死者を悼み慈しむような気持ちをもって臨んでいるのは、今日も出席してくれた母親の2つ上の伯母だけのようにも思えます。

このブログのアクセス解析を見ると、介護とか看取り関連のキーワードでの検索結果から訪問して下さる人がかなりの数いらっしゃるようです。たとえば、棺 着物とかのキーワードでの訪問者は、ほとんど毎日のようにいらっしゃいます。ちなみに、実際にその検索結果を見てみると、1ページ目のデヴィ夫人がどうのといったガセのような記事の間に、このブログのある記事が出てきて不思議な気分になります。葬儀屋とかお坊さんとか、あるいは地域のお年寄りとか親族にも相談出来ない看取りとか介護の関わる微妙な問題について、多くの人がネットをさまよっているのかなと感じます。経験した葬儀の事や看取りのこと、加えて一年の間に、あらためて介護職員初任者研修に参加してわかった事、気がついたことなど書きかけてやめてしまっています。もういいかという思いもありますが、遅ればせながらでもあげていこうかと思います。

月命日

今日19日は、母親の月命日にあたります。8ヶ月となりました。あと、明後日21日は母親の誕生日で生きていれば満86才になっていました。だからと言って特に何もしているわけではありません。ただ、ようやく最近になって5年前の仕事と生活のペースに戻りつつあるという気はしています。

昨日、近くに一人で住む伯母(母親の姉)が従姉妹夫婦に引き取られて名古屋に行きました。母親(妹)が亡くなってから、めっきり弱って認知症の兆候もボチボチ出始めていました。それで従姉妹夫婦の店の近くに高齢者向けマンションが既に手配されていて、そこにいずれと話が進んでいたようでした。そうしたおりに、詳しくは書いても仕方ありませんが、以前から繰り返されてきた早朝からの救急車騒動を2日続けて引き起こし、なかば強引に連れていくことになったようです。私も、伯母の家に顔を出して様子を見ながら従姉妹夫婦と今後のことも含めて少し話をしました。立ち去り際に、伯母がなにか残りたいとか言ったのでしょう。お嫁さんが、おる(居るという意味)と言っても、もう無理だと分かったでしょうとたしなめるような声が聞こえました。かわいそうに思いましたが仕方がない。もう老い先そう長くはないのだから私が面倒を見るからここに居させてあげてくれ、と私自身も言わない。まあ言っても遠慮されるでしょうが、それも含めて仕方がない事だと思っています。

四十九日

一昨日は母親の遺品の中で、唯一鑑定書のついた貴金属である指輪を、昨日は自慢であった着物を、それぞれ一番ふさわしいであろう人にもらっていただきました。それで、今日は兄弟3人と伯母をはじめ主な親族に集まってもらって、四十九日の法要を実家で行いました。法要の後で、兄弟と伯母で遺骨を墓に収めました。これで満中陰というか忌明けといって、無事亡くなった人を仏として送り出すことになるという事だそうです。

昨日の晩は、母親の着物を納めた箪笥の引き戸にあった幾冊かのアルバムを兄弟3人で眺めて、これは誰だ、ここはどこだったかとか話していました。こちらのご縁さんがよく口にされる、亡くなったひとは仏になって念仏を唱えるひとの中に戻ってきて、その人達を結びつけるというのは、こういうことかとも思ったりします。

正月の料理らしきもので、最後まで残った黒豆も昨日で完食してもらって、今日はレンゲでほんの一掬いお汁を頂いてあとは庭に流しました。5合の黒豆をヒタヒタにみたし続けてもらって、ご苦労様という気持ちと、それにやっぱりこれを下水に流すのは環境負荷という面でためらわれます。薄めてドリンクとして再利用という手もあるようですが、もう若くはない身としてはやはり糖分が気になります。

母親を送る一連の儀式と、正月気分が二つながら終わって、すこし気が抜けたようなフヌケた状態になります。明日は葬儀屋が祭壇を引き取りに来る予定で、そうすればまたいつもの日常に戻れるでしょう。世間でも明日の月曜日から実質の仕事はじめという所が多そうです。一本の赤い和ろうそくがあります。仏壇の奥にしまわれていたもので、いつぞやの法事でまともなろうそくを切らしてしまって、これに火をつけようとした事がありました。それは慶事に使うものでダメだと父方の親族にたしなめられました。祭壇も今晩で終わりだし派手好きだった母親も面白がるかもしれないと火を付けてみます。たわむれと、はなむけにそのまま暫く、燃え尽きるにまかせます。

RICOH GXR A12 50mm

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こうしてフヌケたような状態で、まあそれでもいいかという具合の夜は、マリアージュ・フレールのマルコポーロという紅茶がぴったり合うなあ。コーヒーなんて野蛮な飲み物はゴメンだぜ。そう言えば、このお茶を教えてくれたひとは短歌が好きだったけど、それも白蓮とかの激しい歌だった。でも白蓮の歌とか、もうひとつも思い浮かばない。今、手元にある鎌倉右大臣もいいけれと、前にネットからは消してしまった古い「工房日誌」から良寛の古い歌をローカルのディスクから引っ張り出します。老前整理?そんなもの、アベノミクスとかいうバブルの二番煎じのための下準備のキャンペーンだろう。少し前は、もったいないじゃなかったのかい。

さて、以下は2009年4月の古い「工房日誌」の記事です。


)月読(つくよみの ひかりを待ちて 帰りませ 山路は栗の いがの多きに 312

たまさかに来ませる君をさ夜嵐いたくな吹きそ来ませる君に 579

天が下にみつる玉より)黄金(こがねより春の初めの君がおとづれ 4

あづさゆみ春になりなば草の)(いほをとく訪ひてましあひたきものを 635

註) 歌の末尾の数字は引用元の『良寛歌集 ─ 吉野秀雄 校註』 東洋文庫556 平凡社での通し番号です

前2首は、阿部定珍を、後2首は貞心尼を詠んだ歌らしい。いずれの歌も恋の歌のようでもあり、友人の来訪を待ち焦がれ帰途を案ずる歌でもあるように読める。人によりまた時により違う感興をもたらす。実際に斎藤茂吉は、あづさゆみ〜の歌を友に贈った歌であろうとしていた(斎藤茂吉・『良寛和歌集私抄』、後に訂正)。前に引用した歌

わかれにし心の闇に迷ふらしいづれか阿字の君がふるさと

この歌も、本来の意味は「仏の道に分かれて(捨てて)心の闇の中に迷っている君の本当の心のふるさとは何処なのだ」と叱責し窘めるものなのだろう。しかし、私には「まあ、仕方がない。今は迷い惑っても、そうした時もあるさ。でも自分のこころのふるさとをまた考えてみる時がくるさ。」と、現状をひたすら肯定しながら諭してくれているように読める。決して非難などされているように感じない。

本当に良い歌、あるいは芸術というのはそういうものだと思う。平易で具体的な描写でありながら、描く世界、呼び覚ます感情、ましてや倫理や規範や世界観を押しつけない。むしろ優しく包みながら、外の世界に対する穏やかで優しい心持ち、澄んだもの高いものへの憧れ、そうしたとっくに忘れてなくしたつもりでいたものを、たとえ一時であれ呼び覚ましてくれる。感じ、考えるのは自分自身なのだ。

阿部定珍
西蒲原郡渡部村。通称は酒造右衛門。家世々庄屋をつとむ。壮にして和歌詩文を好み江戸に遊ぶこと三年諸名家と交わる。帰来家職を)(ぎ理民の材を発揮す。公暇風月を友とし吟詠雅懐を)(ぶ。良寛)国上(くがみ在庵の時より施主たり交遊たりしは其文書によりて明なり。天保九年六月二十日、西国霊場巡拝のため土佐にありて)瘧病(おこりのため死す。
貞心尼
長岡藩士、奥村某の女、幼にして浄業を慕ふ。妙齢に至り北魚沼郡小出郷の医師某に嫁し、幾年ならずして不幸所天を喪ひ深く無常を観じ、遂に柏崎町洞雲寺泰禅和尚に従ひて剃度を受け、後不求庵に住す。是より先良寛禅師の高徳を敬慕せしが、文政の末年禅師を島崎村に訪うて和歌を学び且つ道義を受く。師其敏慧にして和歌に堪能なるを愛し、懇切に指導せしと。始めて値遇せしは、師七十歳貞心二十九歳の時なり。爾来六星霜、花に鳥に月に雪に風に雨に往訪して敬事し、歌を練り道を講じ其傾写を受け、禅師終焉の際所謂末期の水を呈せいしは弟子としては此尼公のみなりきと。又禅師の詩歌の今日に伝はりしも尼公の蒐集せし力多きに居る。又禅師の肖像として後世に遺るもの亦此尼公の描写せしものなり。(中略)明治五年二月十日寂す。(後略)

斎藤茂吉 「良寛和尚雑記」 『斎藤茂吉選集 第15巻 歌論』岩波書店

四七日の法事でした

今日は母親の四七日の法事でした。このあと年末にかかる五七日と六七日の法事はパスさせてもらって、年始の5日に忌明けとも呼ばれる四九日の法事を予定しています。これでとりあえずの一通りの弔いの儀式は終わりです。

別に私は信心があるわけではありません。こうした儀式を、今の一般的な家庭よりも比較的律儀にやるのは、ひとつはそれに従い守ってきた親の信仰とか習俗、さらには義理というものを、子どもとして尊重したいという事です。本当は、それだけです。それでもやるからには、ちゃんとやりたい。今は、火葬が終わって骨を拾った後に、早々に初七日の法要を、まさについでにしてしまうのが一般的です。家族も親族も、みな忙しいので七日後に再び集まるのは難しい。それならば、一緒にまとめて済ましてしまえという事らしのですが、まあ何というご都合主義というか嘘・偽りに満ちた行為なのでしょう。不信心モノを自覚する私が、そう思うのに、それがまかり通っている事がどうも理解できません。本当に忙しいのなら、初七日も含めて七日ごとの法事なんてやらなければいいし、本当にやりたいと思うなら、少人数でも一人でもやればいいと思います。たぶん、どこかでそれを思いついた人がいて、それを葬儀屋があざとく便乗して葬儀のプランの中に取り入れて、それで済ませることになるのなら、という忙しい人の安直な意識につけこんだのでしょう。

そうした事とは別に、7日ごとの法要とか49日での忌明けというのは、うまく出来た習慣というか習俗だなと思います。残された者にとっては、49日間というのは、気持ちの整理をして、様々な手続きをすませ、そして遺品を整理・処分するのに程よい時間のように思います。もちろん、いわゆる逆縁とか、事故とか急病で家族をなくした人にとっては、わずかひと月あまりでは気持ちの整理など出来ないでしょう。あくまで、順番で亡くなった人の場合です。7日ごとというのも、気持ちも含めて整理していく際の区切りとして良いタイミングです。それと、多少なりと落ち込んで立ち直れない遺族を見守り、その様子を見るために7日ごとに他の家族や親族が集まるという意味もあります。

4年前に前に父親が亡くなった時に、7日ごとの法事を毎週なるだけ兄弟が3人集まって、実家でやろうと話し合いました。それは、認知症の母親に少なくとも毎週一回は父親が亡くなったという事実に向きあわせて、それを摺りこむように認識させたいという思いからでした。その前後の母親の様子から、父親が亡くなったという事実が記憶からなくなり、また入院していた病院に見舞いに行くとかいう徘徊行為が始まることが十分予想されました。幸いにして、そうした状況にはならなかったのですが、ちょうど四七日の法事の時に倒れて、翌日から入院となりました。極端な脱水と栄養不足で医師からはこのままでは一週間もたないと言われて、結局一ヶ月あまりの入院となりました。そうなるまでに、なぜ気が付かなったのかという思いもありますが、最低限の見守りにはなったかなと考えています。

今回も、妹を先に亡くした伯母の落ち込み方がひどく、気持ちにせめてものハリを持ってもらい、親族たる我々が見守るためにも7日ごとの法事は有用かと思います。それもあって従兄弟も毎回名古屋から出向いて参加してくれています。とか考えていると、父親の時も、今回も岡山とか藤沢の兄弟が、前には二人とも、今回は交代でも7日ごとに帰省して、参加してくれているのは、他ならぬ私のことが気になってということもあるかと今さら気が付きました。まあ男同士というのは、あまりそんなこと言わないものだし、こちらも泣き言や愚痴は言わないようにしてきたし、まあいいかとしておきます。


それと、私は喪に服してなんかいません。黒い服で通しているわけでもないし、肉や魚も普通に食べています。こちらのお坊さんは、仏教徒にとって、死は不浄なものでもなんでもない。誰にでも訪れるもので、仏になるひとつの過程にすぎないとおっしゃいます。不信心者の私にとっては、焼かれて再び一部は土に戻り、多くは水蒸気や二酸化炭素や、ある種の塩類などの無機物になって、大気に拡散してくことです。ですから、喪中云々のハガキなんて当然出していませんし、例年年賀状を出している人には、例年以上に遅れると思いますが出すつもりにしています。


アジ南蛮漬け

小アジ南蛮漬け

 

さて、以前に買ったアジ包丁をようやく使うことが出来ました。魚屋にあった小アジを2皿・23尾、ワタとゼイゴを取って南蛮漬けにしました。こんなもの食いきれるのかと思っていたら、例によって美味しく漬かり始めた頃にはなくなってしまいました。

母親の葬儀のこと 1

葬儀は、残された者のために行う儀式だとよく言われます。

そのとおりに違いないのですが、そうであれば葬儀は、残された者の亡くなった人への愛惜の情や悼む気持ちを出来る限り素直に表明してもらえる場と機会でありたい。そのために概ね以下のように決めました。翌日には通夜ということで、葬儀屋の段取りもあって兄弟には事後報告で、ほぼ独断で決めました。

  • いわゆる葬儀場・会館は使わない。狭くて汚くても親の暮らした家で行う。
  • 献花・香典・弔電の類はすべて断る
  • 実際に母親と親交のあった家族・親族、ご近所、友人にのみ参加してもらう
  • 儀式としての通夜式は行わない、僧侶も呼ばない。通夜の晩は出来る限り弔問客に自由に出入りしてもらう。
  • 母親が認知症であったこと、施設に入所してそこで臨終を迎えたことなど、晩年の様子を隠さず伝える
告別式の朝の実家

告別式の朝の実家

実家は、かつて鋳物屋や万古屋(陶器)などが多くあった下町で、タバコ屋と駄菓子屋を兼ねた小さな店を営んでいました。今思うと、よくここに親子5人暮らしていたなというくらいの小さなしもた屋です。でも、この程度の家でも妙な見栄を張らず、本当に母親を悼む気持ちを持った人にだけ集まってもらえば、十分に葬式は出せるはずだと思いました。実際には我々を含めて30人ほどの人に集まってもらえましたが、多少窮屈でしたが、逆に知らない同士も含めてお互い良い距離感で接してもらえたのではないかと思います。なにより、棺が同じ高さ目線にあるというか同じ畳の上にあるというのは、まだ故人が仏ではなくこちらの世界にいるということを感じさせて、良いものでした。通夜の間は、葬儀屋の了解を得てずっと棺の上蓋を外して置いたので、訪れてくれた人に直接顔を見てもらい、あるいは話しかけてもらったり触れてもらうことも可能でした。もちろん誰のものであれ、死体に触れるのはもちろん近くに寄るのもいやだという人もいるでしょうから、強要はしません。それぞれの形で別れを惜しんでもらいました。母親が若い時に、親代わりになってお世話をさせてもらったという人も来てくれました。いまは目が悪いそうですが、枕元に座り棺の縁を両手でつかみ、覗きこむようにして顔を見ながらおばちゃん、おばちゃん!と呼びかけてくれます。書いてきてくれた手紙を語りかけるように読み上げて、そのまま棺に収めてくれました。私自身が遺族なので、おかしな話ですが、その真情に触れて、もらい泣きしそうになって困りました。

通夜には僧侶をあえて呼びませんでした。お坊さんを呼び経をあげてもらうと、どうしたってそれ中心の儀式になってしまいます。少なくとも私はそうです。そういう儀式も必要だとは思いますが、通夜くらいはそうあってほしくない。縁なき衆生たる私にはお経なしですませても良かったのですが、色々考えて、従兄弟に唱導してもらって正信偈しょうしんげを読んでもらいました。プロのお坊さんと違って、たどたどしさもありましたが、それがかえって仏の前で平等な門徒どうしが集まって経を唱えているという雰囲気が醸しだされて良いものでした。そのあとは、いわゆる通夜ふるまいになるのですが、お酒が用意してなかったりで、招く方も招かれる方もこうした通夜の仕方は久しぶりか初めての人もありそうで、母親が好きだった賑やかな宴という程にはなりませんでした。

翌日の告別式は、まあ通常の葬儀場で行われているような次第で、淡々と進みました。それでも進行を務めてもらった葬儀屋が比較的若い人で、またマイクを使わない地声だったので、あのいやらしい慇懃かつ大仰なものには聞こえませんでした。焼香は、回し焼香といって小さな焼香台を順に回してもらってその場で行なってもらいました。それぞれのペースや作法で、やってもらうことができるし、こちらも一々返礼をする煩わしさから解放されて良かったです。商業主義の葬儀場でよくある棺と遺族が、焼香台を挟んで一般の参列者と向かい合うようにパイプ椅子に座る構図は、故人を悼む気持ちを分断してないがしろにする葬儀屋の陰謀のように思っていました。ここでは、座る位置は少し違っても、ふすまを取り払った畳の上に棺もすべての参列者も座っています。あまりにも当たり前の姿なのですが・・・。

ある経験から(松田和美さんのこと)、こうした場合のBGMは、モーツアルト、それもレクイエムとかいった辛気臭いものではなくて、パパゲーノとか、ケルビーノやバルバリーナなんかの思いっきりノーテンキなアリアなどを流したいと思っていましたが、さすがにそこまで気がまわりませんでした。

喪主の挨拶に時間をもらって、父が亡くなって以降の、すなわち母親が入院・介護施設への入所によって家族とごく少数の親族以外の人の前に出れなくなってからのことを報告しました。もちろん、認知症のことも末期の措置とそれについての考えも触れました。こうした場合、大事なことは遺族としての心情の告白などというつまらないことではなく、家族だけしか知りえなかった故人に対する情報の提供だと信じています。

少人数であったこと、焼香がスムーズに行なってもらえたこと、などからか出棺前の故人とのお別れに十分な時間がとれたのも幸いでした。私は、臨終の日に買ってきて、その時も枕元にあったバラの花を棺に入れました。伯母は、自ら選んだ着物を、横浜から来てくれた叔母は、一週間前に買って直接着せてくれたばかりの緑の素敵なカーディガンとスカーフを、親代わりと言ってくれた早苗さんは母親が好きだったという大振りなミカンを、よく施設の母親を見舞ってくれていた同世代のご婦人は、やはりよく持って行って食べさせくれたという大きくて甘そうなプリンを、など参列してくれた多くの人が棺を囲み、言葉をかけ、棺を閉じる時は花で埋めてくれました。後で聞くと、兄は私が被災地住田町の仮設住宅のご婦人から頂いて、母親の病室に慰めのために置いていた小さな手製のフクロウの手まりを入れたそうです。それは、いただいた経緯もあって形見としてとっておこうかと思っていたので、残念でしたが、東北の被災地の仮設住宅で生まれて、三重まで来て、そこで認知症の老女をしばし慰めてくれて、ひとつの役目を終えて一緒に灰になったというのも、まあいいかと思います。


自分に対するケジメという意味もあって母親の看取りに関することは、あと1回で終わろうと思っていたのですが、長くなりました。もう少しだけ続けさせて下さい。自分なりに考えてまとめた、葬儀のあり方という事も最後に書かせて下さい。

棺の中に納めた着物のこと

母親の火葬の際に、棺に納めた着物は実家の箪笥から引っ張りだしたものの中から、伯母に選んでもらいました。

通夜の朝に、棺の前で伯母がどうしても和子には着物を着せてやりたいと言います。実は老健から実家に戻る時に仮に着替える時も、納棺師が死装束に着替えさせてくれる時も、好きだった着物を着せてやりたいと言っていました。それで、せめて棺の中に納める事が出来るようにと実家の二階の母親の箪笥から目ぼしい物を引っ張りだしたのですが、伯母の記憶にある母親自慢の着物がありません。それでも時間がなかったので、引っ張りだした中から選んでもらったのが前の記事の写真で棺にかけられていたものです。

通夜に集まる弔問の皆さんの母親の思い出話のネタになるように、施設にも持っていった古いアルバムや未整理の写真の何枚かを選んでいたのですが、よく見ると棺にかけた着物を着た母親の写真があります。

ひとつはまだ赤子の兄を抱いた写真、兄は今60歳ですからおおよそ60年前、母親が25、6の頃になります。

kazuko_makoto

60年前の赤子の兄と母親

 

もうひとつはまだ学生だったと思われる私と父親と写っているもの。およそ35年ほど前になります。

学生時代の私と両親

両親と学生時代の私

よくわからないのですが、たしかに伯母の言うとおり何かのおりには、もっと上等な着物を着て母親は出かけていったような記憶があります。それとこの着物も、普段着的に着ていたかな。本当のところ、よく覚えていません。ただ、箪笥から出したこの着物には仕付け糸が付いたままでした。何回目かの洗い張りに出して、それ以降着る機会がなかったのでしょうが、そうして長い間大切に着続けてきた好きな着物であったのは確かなようで、一緒に棺に入れられて燃やしてもらうにふさわしいものであったように思います。


さて、昨日はお寺とお世話になっていた介護施設に挨拶に行き、そのあと母親の年金の廃止などの手続きに必要な書類を市役所に取りに行きました。それで一日が終わってしまいました。今日は、母親の遺品整理というと聞こえがいいですが、遺品の処分のための片付けを弟と二人で終日行なっていました。中には見てはいけない、見たくないようなものもありますが、もう今さら母親や父親の生臭い過去を詮索する気にもなりません。それらしいものは、そのまま開かれることなく葬ります。明日は、初七日の法要になります。実家の整理や片付けは、もう暫く時間がかかりますが、兄はすでに今日から仕事に復帰しましたし、弟も明日帰ります。私も、明後日からは通常の仕事中心の生活に戻ります。ここの記事も、あと1回、葬儀のことについて触れてからこの話題は終わりにします。