三里塚の3月 その2

古典的レジスタンスゲリラはもう今のものではない

前の記事のモロトフのカクテル投擲の前にも出撃しています。その前日の深夜だったと思いますが、これも定かではありません。もう40数年前のことです。 ヘルメットにタオルといういつもの格好に鉄パイプを携え、ただしカクテルを持っていったかは記憶にありません。どこに行き何をするのかは知らされません。またそうした軍事機密について問わないという事を了解はしている程度には皆兵士でした。

灯りもない夜道をどの程度歩いたか小高い雑木林の丘に駐屯しました。ここで夜を明かすのかはたまた時間を合わせてどこかに夜襲をかけるのか、どちらにしろもう早く決めてくれよと苛ついていました。3月末とはいえ北総の台地の夜は冷え込むのです。どれくらい経ったか遠くにヘリコプターの飛行音が聞こえます。その音が大きくなり強いライトを点けたヘリが視認できるくらいになると、それがほぼ真っすぐに私たちの方へ向かって飛んでくるのが分かりました。ほどなくこちらに到着して頭上でホバリングします。手が届きそうなという表現はやはり大げさでしょうが、その時はそう感じました。投石すれば届きそうです。かなり低い高度であった事はたしかです。仰ぎ見るその機体はでかいし、頭の真上で聞くヘリの爆音や風圧は凄まじいものです。催涙ガスか着色放水でもくらうのかと怯えながらじっとしているしか術はありません。ずいぶん長い時間そうしていたようにも思いますがよく覚えていません。やがてヘリはそのまま去ってきました。

それから20〜30分ほどもしてからでしょうか。再びヘリが現れます。やはりまっすぐ私たちの頭上にやって来てホバリングします。何かしらの準備を整えてきて今度こそ攻撃されるのだろうと覚悟を決めて身構えていましたが、やはりそのまましばらく頭上にいて旋回して去っていきました。私たちもしばらくその場に待機していましたが、やがて作戦が変更されたのか単に指揮していたやつがびびったのか、そのまま何もせずに小屋に戻りました。衛星も含めたさまざまな監視網によって我々も含めた反対派の動向はあらかた把握されていたのでしょうが、ヘリの赤外線スコープによってこちらの人数など詳細を把握しにきたと思われます。2回目は、脅しとバレバレだぞお前らという警告か?

とりあえず作戦中止となったわけですが、何の目的で何が目標で夜中にそんなところに出張ったのか知らされていませんでしたし、もちろん今もわかりません。それでも一旦出撃した以上何もせずにすごすごと戻ることに強い敗北感がありました。それに、ここがベトナムであのヘリが米軍の攻撃用ヘリコプター・アパッチだったら、ロケット砲と機銃掃射を食らわされて最後にナパーム弾など落とされて、たちまち皆殺しにされていただろうなとか思っていました。まだベトナム戦争が終わって(サイゴンが開放されて)3年足らずでした。もっともベトナムの賢く勇敢な民族解放戦線のゲリラはこんな間抜けなことはしない。我々のやっていることは警察と国の過剰警備の境界線の隙間にうごめく半合法の戦いでしかない。まあ分かっていたことだけど。

私たちの行動もやはり筒抜けだったわけです。そのこともあらためて実感させられました。たぶんずっとどこかから昼夜を問わず監視されていた。それに当時(1970年代後半)すでに軍事衛星も実用化されていました。さすがに今のようにリアルタイムというわけではなく画像解析にはある程度時間はかかったかもしれません。それよりかなり時間は遡りますが、ベトナムですでに米軍は軍事衛星によるスパイを行っています。1968年のテト攻勢の時、ベトナムの総司令官であったボー・グエン・ザップはその事を承知の上で逆手にとります。ジャングルの空の見える空き地であえて顔を晒すように上を向いてバレーボールに興じた。司令官が呑気に遊んでいるのだから予想された攻勢はなかろうと油断させた云々。後に西側のテレビのインタビューでこのように回顧していました。あまりに出来すぎた話に思えて真偽は不明なのですが、軍事衛星による偵察というのがこの頃にはすでに実用化されていたということは確かなようです。少なくともザップはその事を分かって作戦立案していた。私たちはいかにも間抜けでした。

今、ウクライナ情勢を傍観してレジスタンスだ、義勇軍だと騒いでいる人たちの認識や感覚も当時の私たちと同じようなものでしょう。耳学問として偵察衛星とかGPSとかは頭にはあるのでしょうが・・・。私もそうですが、レジスタンスなんてもちろん実際には知りません。せいぜいが映画や記録フィルムなどで見たイメージしかありません。それはアイルランド独立戦争におけるIRAであったり、フランスの対独レジスタンスであったり、堅忍不抜の八路軍であったりします。山中の一本道を行軍してくる敵の正規軍をヤブと木立に身を潜めたレジスタンスが待ち伏せて迎え撃つ。そうした古典的レジスタンス像はすでに半世紀前には存在しえなくなっているのです。衛星やドローンによる監視システムと誘導ミサイルの現代ではなおさらでしょう。

三里塚の3月

火炎瓶では戦車と戦えない

モロトフのカクテルを作ってそれを実際に使ったのは40数年前の3月北総の台地でした。寝泊まりをする小屋に隣接する物置のような場所に行動隊として徴集されたメンバーが集められそのカクテルを作りました。私を含めほとんどのメンバーが、おそらくは作り方を指示していた者も初めての体験だったと思います。

もうその頃は腹をくくっていたのか楽しんで作業していた記憶があります。なるほど例のカクテルはこうして作るのかという興味もあります。それにね、思い出して下さい。20代前半(10代もいたかもしれません)の男女が何人か集まって一緒に作業するというのはそれだけでワクワクするものです。それに何かしら一緒にヤバイ事をやっているという共犯意識のようなものも互いの気分を高揚させます。学園祭の準備をしながらちょっとしたイタズラでもやらかすノリでしたか。カクテルには自動着火型と導火線型のおおまかに2つのタイプがあったと思います。つまり投擲して瓶が何かに当たって割れると自動的に着火するものとあらかじめ口に差し込んだ導火線様のものに火をつけてから投てきするものです。作ったのはその両方の折衷型のようなものであったと記憶しています。

その当日は、反対同盟の主催する午後からの集会とは別に朝から小学校跡地で開かれた突入三派中心の集会が開かれていました。その後者の方に参加してから現場に向かったように思いますが、必ずしも記憶に定かではありません。ただその三派のうちのひとつ(たしか第4インターだったか)の代表が集会での演説で涙声で、我々は組織をかけてたとえ組織が潰されても戦い抜く云々とアジっていた記憶があります。まあいわゆる新左翼党派の常套句ではあるのですが、その時はただならぬ気配をかもし出していました。後になってつまり彼らが実際に管制答に突入・占拠したと知った時、その演説の意味がわかりました。本当に組織の存続をかけていたんだ。死者の出ることも想定していたのではないか等など

空港を囲むフェンスの前に着くまでの記憶はありません。まったく土地勘のない現地で辿った道もそもそもそこが空港のどの辺りなのかも知りませんでした。その後も今もはっきりと分かっていないのですが、管制塔とか第5ゲートといった主戦場やその近辺でもありませんでした。やはり相応に緊張していたのだと思います。もっとも私たち兵隊はどこで何がやられるのかなど一切知らされていませんでした。雑木林の小道を抜けた少し傾斜のある草地に出ると、フェンスの向こう側には30人ほどの機動隊が待ち構えています。そこから空港敷地内に向かってカクテルを投てきするのですが、フェンスまで届きません。中身の詰まったビール瓶などせいぜいが15mから20mほどしか投げられません。それに多くのカクテルが不発でした。フェンス前のアスファルトの道路までも届かずに草地に落ちた瓶は割れません。割れた瓶も着火しません。仕方がないので導火線に火を着けてから投擲を試みますが、着火した途端に瓶ごと燃えだしそれが衣服に燃え移ったりもしました。足元が不安定な中でそうした不意の延焼にビビりながらでは余計にうまく投げられません。結局は戦果としては空港敷地前の草むらを何箇所か焼いただけでした。私たちの部隊というより集団は各個バラバラに目標も示されないまま適当に空港と機動隊に向かって瓶を投げているだけでした。その時に感じた虚しさと怒りを通り越した絶望感、それはまた別に書くべきことです。撤収の途上で管制塔を占拠しているらしいと伝えられてきましたが、まだ半信半疑でした。小屋に戻ってテレビを視て初めて戦いの全容らしきものが分かってきました。もちろん一緒にいた仲間と喜びあいましたが、自分もその一端を担ったのだという気持ちにはなれませんでした。

今、言っておくべきなのは所詮しろうとの作った火炎瓶などその程度の武器でしかないということです。そしてこれをまた訓練もされていない集団が使ってもさしたる威力もなく無駄な犠牲を生むだけです。現にその時の一連の闘争で3人の仲間が逮捕されました。それにその時私たちに向けられ撃たれた機動隊の催涙ガス弾が自動小銃であれば、たちまち全滅させられていたでしょう。


ロシアの侵略に対するウクライナの広い階層の人たちの防衛・反撃その準備の様子が伝えられています。義勇兵への志願、民間防衛組織の結成と武器使用などの訓練、中には火炎瓶の製造からその投擲訓練の模様も流されていました。こうしたものはおもに海外のメディアの提供する動画や画像としてテレビや新聞、それにネットニュースやSNSなどにあふれています。そこでは義勇軍志願兵レジスタンス武器を取る国を・街を・家族を守るなどの勇ましい言葉が流れています。まずいなと思います。

報道によれば今はウクライナの正規軍が組織と戦力を維持しながら頑張って持ちこたえているようです。こうした状況が保たれるなら素人の義勇軍やら民間の防衛隊にも後方支援とかせいぜいが兵站といった役割があたえられるでしょう。年寄りやひ弱な若者、子どもたちに武器を渡して前線に連れて行ってもかえって足手まといにしかならないくらいは、まともな軍人ならわかりきっているでしょう。まして火炎瓶などおもちゃ以下のシロモノだと相手にもされないでしょう。

しかし想像したくないことですが、もしロシアの軍隊が首都キーウ(キエフ)に突入し市街戦の末ウクライナ軍の組織的反抗が壊滅させられる。そうなった時、分断・孤立化された市内外の若者や子どもたちが、義憤と憎しみ愛国心とかヒロイズムにかきたてられ武器を手にします。中には火炎瓶を武器に戦車や装甲車と戦おうとする子どもたちが出てくるかもしれません。いやきっと出てくるでしょう。

『橋』というドイツ映画をご存知でしょうか。第二次世界大戦末期、徴兵年齢の引き下げにより昨日まで半ズボンを履いていた村の子どもたちが招集されます。老教師の説得にも耳をかしません。戦場に出さないため戦線から遠い村の橋の防衛という任務を与えられますが、いろいろな偶然も重なって結局その橋で連合国軍を迎え撃つことになります。投降の勧告も聞かず殺されていきます。実話をもとにした話だそうです。ヒトラー最後の映像と言われているのが、赤軍の迫るベルリンの首相官邸の庭で年端も行かない子どもを閲兵するパーキンソン病で手の震える老人の姿です。背の高さも着ている軍服も年齢もまちまちなその子どもたちを待ち受ける悲劇が、『ヒトラー 最後の12日間』に描かれています。守るべき祖国がウクライナかナチの第三帝国か神国日本かはたまたプーチンのロシアか、そんなこと子どもには関係ありません。

戦争の当事国の為政者やメディアが愛国心とか敵国への憎悪をあおり、軍人軍属以外の市井の人々の動員を呼びかけるのは常套手段です。今回のウクライナのように国力や軍事力に圧倒的に不利な場合はなおさらです。普段の理性的な判断を消し去るような狂信の渦を作らねば戦争など遂行できません。私はその手のファナティシズム(狂信的扇動)はすべてファシズムと同じだと思っています。大嫌いです。ただウクライナの人々がそうした自国の為政者やメディアの流すキャンペーンに賛同し、SNSなどを使って拡散するのは仕方がない。自分たちもその当事者であり結果はやがて自分の身に降りかかってきます。

それに対して海を隔てた遠い所にいて間違ってもミサイルや砲弾の飛んでこない又秘密警察に命を狙われることもない人間がウクライナを英雄視して義勇軍だ、レジスタンスだ、武器を取れだとネットで騒ぎ立てるのは犯罪だと思います。お気楽に他人の血や命を借りて、自分の熱さ男らしさをひけらかしたいだけの卑怯極まりない下劣な所業です。普段はネットの力だの世界に発信だとか言っているわけでしょう。そうしてお気軽に拡散されたものがやがては回りまわってウクライナや周辺の国に届き、そこの青年や子どもたちのヒロイズムや憎悪を焚き付けます。その中から火炎瓶でロシアの戦車と戦おうとする子どもたちが現れるかもしれません。間違ってもそんな事を引き起こさないように、そのためには卑怯者弱虫売国奴非国民などと罵られても止めさせる。それが私たち老人の役目だと信じます。それがまたかつて特攻や無謀で無意味な作戦でたくさんの若者や子どもの命を奪った日本の役目だと信じます。