倉敷市真備町でのボランティアに参加する人に

倉敷市真備町へボランティアに赴こうとする人は、下記のボランティアセンターのホームページをご覧ください。そこに必要な情報はほぼ網羅されています。私が出向く前はまだこうしたサイトは出来ておらず私自身少し混乱しました。

倉敷市災害ボランティアセンター

その他ここに書かれていない事も含めて補足します。

個人で参加された場合、受付を済ませた順に5人1組みのチームとなります。それからバスでボランティアセンター( 中国職業能力開発大学校)から真備町内のサテライトにバスで向います。サテライトでボランティア要請のあるお宅や現場とのマッチングが行われてそこに派遣されることになります。

したがって9時からセンターで受付がはじまり、実際に活動が始まるのは早くて10時くらいになります。それで13時30分までにはセンターに戻るように指示されますので、13時頃までには現場からサテライトに戻ることになります。正味の活動時間は3時間弱ということになります。遠方から来て少しでも役に立ちたいと思う(皆さんそうでしょうが)なら物足りないと感じるかもしれませんが、命の危険があるとされるような酷暑の中では、これくらいが安全だと3日間参加して感じました。疲れがたまり暑さもピークとなる午後の2時台、3時台には作業はしないほうがよいです。

参加3日目(21日)からは、軽トラ隊は、9時からの一般の受付前に受付を済ませて指示されたサテライトに行けるようになりました。もし軽トラ持参で参加される場合はその旨スタッフに伝えるようにしてください。

熱中症対策は受付の際にも再三注意はされます。チームごとに時計係を作るように言われて20分活動したら10分休むように言われます。天候や活動内容によっては10分ごとの休憩にしても良いとされています。他に個人の体調にあわせて臨機応変にすれば良いと思います。私の場合、もう62歳という年齢と通常の作業プラス軽トラの運転もあって、3日間の酷暑下の作業はかなりこたえました。首筋を冷やしても顔のほてりが取りきれず体温が下がりきらないと感じたり、デジカメで手を伸ばしたコンデジ撮りをした時に手が震えてこれはやばいなと思って、休憩させてもらいました。それでも、おわってこちらにもどって1日経ったあたりで、顔がむくんで体がだるくなりました。無理は禁物です。

倉敷市真備町に来ています その4

社協のボランティアでは現場での写真撮影は禁止とされていますが、許可を得て撮ったものも含めて掲載します。

7月20日
GXR A12 28mm(以下同じ)

町内ではまだ冠水している地区がありました。


7月19日 下二万(しもにま)地区

これまでのボランティアの活動で屋内からの家財道具の運び出しや泥出しはかなり進んでします。ただそれを集積場まで運び出すことが出来ず、家の前などに積まれた状態のところがほとんどです。

同所。別角度から

町内全体が2階床上まで浸水したようです。この地区だけで5人の人が亡くなったそうです。


7月20日 「やた」サテライト近くの現場。電線から下がる漂流物からそこまで水が来たことが分かります。三重ナンバーの軽トラがドヤ顔に見えます。


同所 別角度から

家の前に出された被災ゴミの集積場への搬出には軽トラックが威力を発揮します。道が積まれたゴミで狭くなっている中では他に手段がない状態です。


7月20日 倉敷市災害ボランティアセンター

ボランティアセンターでもこのように軽トラックの提供を呼びかけています。後ろは登録を終えて出動を待つボランティアの人たち。

倉敷市真備町に来ています その3

3日目の21日(土)は、現地のその・かわべサテライトに派遣されました。当日は土曜日でたくさんのボランティアの来訪が予想されるので、その人たちをボラティアの要請のある所まで乗せて行く事を指示されていました。軽トラの荷台に5人1組みのチームを載せるのは道交法上は問題ありなのですが、この非常時に警察も当然黙認してくれています。前日までの2日間はもうひとつのやたサテライトに派遣されていましたので、震災ゴミの集積場への搬入も含めて結果的に町内の比較的広い範囲を見て回れたことになります。

7月20日 受付を待つボランティアに人たち
倉敷市災害ボランティアセンター

この日は、川辺という地区にあるお宅へのボランティアを載せ、そこの震災ゴミの搬出がおもな活動になりました。かわべという地名の通り高梁川にほど近い堤防の見える所にあります。しかし水はそこから南にずいぶん離れた支流の小田川が決壊して流れてきたとのことでした。やはり2階まで水に浸かっています。治水の観点からテレビでも再三報じられていましたが、実際にその災害の結果を目にすると色々と複雑な思いが交錯してきます。

そのお宅は比較的新しい家で、前日までにやはりボランティアによって運びだされた家財道具や電気製品も新しい物が多い。依頼主の30歳前後と思われる男性が一人立ち会ってくれましたが、どこか表情も虚ろで茫然自失という雰囲気です。それを気づかってか近所の人という50代くらいのご夫婦が代わって色々指示をしてくれます。私たちに派遣先として指示したサテライトの人も後でバイクで様子を見に来ます。あるいはご家族を亡くされているのかもしれません。この真備町だけでも51人の方が亡くなられています(22日現在)。東北でも熊本でも、ボランティアの派遣を要請されるような人は皆さん気丈に前向きに振る舞われている場合が多かったように思います。それで作業が進んで休憩のおりなど被災の様子など伺うこともありました。この日はもちろんそうした話をする雰囲気ではありませんでしたし、こちらの元気さやお節介ぶりを押し付けるのもはばかられます。当たり前のことですが、こうした災害ボランティアに入るには、被災の状況に真摯に向き合うと同時に被災者との距離を常に意識しておくことが大事だとあらためて思いました。


さて、この日は四日市に戻るために早めに切り上げさせてもらうつもりでしたが、一緒に活動したボランティアのチームをサテライトまで送り届けなくてならないため、結局定時の13時半まで現地に留まりました。もっとも早く戻る理由が、この日連れ合いが不在となるため今家に居る2匹の保護犬の散歩連れて行くというだけのことです。

倉敷市真備町に来ています その2

昨日、今日とボランティアに入ったのは倉敷市真備支所の近辺です。ここに社協のボランティアセンターの前線基地の一つがおかれています。

この辺りも南側を流れる小田川が氾濫して二階の床上まで浸水してしまっています。まだ屋内に畳や家財道具が散乱して泥かきもままならない家がたくさんあります。もうこれはボランティアによる人海戦術に頼るしかありません。5人一組になったボランティアチームの何組かと我々軽トラ隊で運び出しと集積場への運搬を行います。2011年3月の石巻でも同じような作業をしたと思い出します。あの時は津波が運んだ海のヘドロと重油と汚水の混じった臭くて粘ついた重い泥でした。それに比べれば今回の川砂と壁土が主な泥は乾きかけていることもあってまだ楽ですが、この暑さがこたえます。

倉敷市真備町に来ています その1

昨日から倉敷市真備町の被災地にボランティアとしてきています。

今回は思うところあって、四日市からおよそ460320(ずいぶん盛ってました・・・)キロの距離を軽トラックで来ました。これまでの経験から当初の渋滞が解消された今、軽トラの機動力が生かされると思ったからです。災害ボランティアセンターを立ち上げた倉敷市の社会福祉協議会に事前に確かめたかったのですが、電話がつながりません。まあこれは仕方がない。自分の判断で荷台に泥かきには必須と思われる一輪車、角スコ、平クワに、バラ目の鋸2本と大ハンマーとクーラーボックスを積んで来ました。これは正解で社協のボランティア受付のある中国職業能力開発大学には「軽トラックを提供してもらえる方」というコーナーもあります。役に立つというか求められています。被災地は農村ですが、たいてい一家に1台はあるような軽トラもあらかた水没して使い物にならないのです。近県でこちらに行ってみようと考えている人は検討して下さい。

タブレット用のカードリーダを忘れてきたため写真がアップできません。こちらには土曜日の午前中まで滞在します。

何があろうと公権力による殺人は許されない

公権力によって、7人もの殺人が一挙に行われる。それも事前の予告もなしに早朝から。そんなおぞましくも野蛮な国に私は住んでいる。

東京拘置所では3人が処刑されたという。刑場は1つしかないそうだ。それで遅くとも11時くらいには7人執行の報が流れた。朝の6時に一人目に執行が告げられたとして、一人ひとりに執行の告知からどれほどの時間が与えられたのだろう。検死や遺体の処理、清掃の時間も必要だ。遺書を残す時間もないだろう。ゆっくりそれまでの人生を振り返り罪を悔いる時間もなかろう。機械的にうむを言わさず流れ作業のように執行していったのだろうか。アンジェイ・ワイダの映画『カチンの森』の最後のシーン、ソ連の屠殺人が後ろ手してに前にかがませたポーランドの将校の頚椎を流れ作業のように拳銃で撃ちぬいていくシーンを思い出す。ヴィクトル・ザスラフスキーの『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』によると、それが一番確実で流血も少ない処刑方法で、もうソ連にはその当時そうした処刑専門の部隊があった。それは20年代からの自国民への大量虐殺による十分な経験によるものだった。今の北朝鮮の公開処刑の方がまだマシに思えてくる。日本でも戦後しばらくは、死刑の執行の数日前には通告がされていたという。それで死刑囚は自らの気持ちをを整理し遺書をしたため、場合によっては親族との面会もゆるされたらしい。いつからか今のような無機的・官僚的・非人間的な方法が慣例化されてしまったのか。それに抗議する意味もあってか永山則夫は自分の番が来た時は徹底的に暴れると公言し、同じ東京拘置所の死刑囚・故大道寺将司さんによればそれを実行したようだ。永山さん、よくやった!


つい最近やっと気がついたことだが、人間にとって、こっそり死ぬほど悲惨なことはない。

革命前の中国では、死刑囚は、刑の執行前にまず大通りを引き廻す。そのとき当人は、自分は無実だと訴えたり、役人を罵倒したり、自分の英雄ぶりを誇ってみせたり、あるいは死ぬことはこわくないと宣言したりする。その演技がクライマックスに達すると、見物についてくるヤジ馬からのヤンヤの喝采がおこり、あとでその噂は人から人へ伝わる。私がまだ若いころは、しょっちゅうそんな話をきかされたものだ。その度に私は、こういう光景を野蛮と思い、そのような処置を残酷だと考えた。

(中略)処刑前の死刑囚に公開発言をゆるすのは、むしろ成功した帝王の恩恵であり、かれらがまだ自分の力を信じている証拠だ、ということだ。自信があればこそ、せめて死ぬ前に自己陶酔にふけり、併せて人々に最期を知らせるため、死刑囚に発言をゆるすだけの余裕があるのだ。むかし私が残酷とばかり考えていたのは、不十分な判断だった。恩恵の意味がまじっているのを見のがしていた。私は、友人や学生の死とぶつかるたびに、その死んだ日時がわからず、場所がわからず、死因がわからないときは、それがわかるときよりも、もっと深い悲しみと不安を感ずるのが常である。そのことから逆の場合を類推すると、暗い部屋で少数の屠殺者の手で命をおとすのは、おおぜいの前で死ぬよりも、いっそう淋しいにちがいない。

魯迅 「二 隠された死について」「深夜に記す」から 『魯迅評論集』竹内好編訳 岩波文庫p50-52

私は、学生時代のうち3年間ほどをYMCA(学Y)の寮に住んでいた。万里小路東一条の角にある敷地には、ヴォーリスの設計による会館と私のいた京大の寮とともに府立医大の寮もあった。木造の小さなでも風情のある建物でせいぜいが3〜4人ほどしか居住できなかったと記憶している。今日、処刑された中川智正さんもそこに住んでいたこともあると、彼が逮捕されてしばらくしてからかつての寮生から聞いた。彼は私より6歳若い。それに退寮してから寮に出向くこともほとんどなかったので、おそらく顔を合わせたこともなかったと思う。それでも今日の報道で若い時のかれのまだ無垢さを完全にはなくしていない映像が流されると、彼がかつて私たちが暮らしたあの同じ敷地にいて、たとえば自転車で志賀街道から荒神橋を渡りシアンクレールの角を折れて(または万里小路通りを今出川まで出て、出町柳から鴨川を渡って・・・)大学に通う姿を想像してしまう。やはり悲しい。

私が殺人事件の被害者の家族だったら、加害者と同じ空気を吸っていると考えるだけで強い憤怒と嫌悪感を覚えるでしょう。早くあいつらを殺してくれ。できれば同じ苦しみを味あわせて。残念ながら犯罪加害者の中には更生も後悔も期待できないような人間がやはりいる。ドストエフスキーがイワン・カラマーゾフに言わせているように人を陵辱し殺めること(だけ)に性的な昂奮を感じるような連中も存在している。それでもやはり国家による殺人は許されるべきではないと信じます。この件に関してはまた別に書かなくてはと思います。

古いノート 補足

年をとると色々とだらしなくいい加減にすませてしまう事が増えてくるのですが、一方でつまらない事に妙に拘泥してしまいます。この投稿もそのひとつです。


前の投稿の冒頭にあげた野村修先生のベンヤミンの訳文はずいぶんわかりにくい。はっきり言えば悪文です。校正のため読み返した時にも、これをエディタに移す時のタイプミスで改行を一列間違って行をダブらせたり飛ばしたのかもしれないと思ったほどです。

私は、前にも書きましたが(マリー・Aの思い出・『ハンス・アイスラーとベルトルト・ブレヒト』)、ブレヒトもベンヤミンも、それにハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーもほとんどが野村先生の訳で読みました。ワイマール期のドイツの文化に関しても先生の著作で勉強しました。ブレヒトの詩など訳文というよりほとんど先生の創作と言って良いような素敵なものがたくさんあります。それでも生意気を言わせてもらうと先生の翻訳にはこうした悪文というか分かりにくいものがたまにあります。それに死を、死んだという独特の言い回しを訳文でも自身の表現としてもよく使っています。何か考えや思いがあっての事でしょうが、これもやはりなじめません。

このベンヤミンのChinawarenという著作の抜粋の別の人(細見和之)の訳を投稿の末尾に置いておきます。前の投稿でもその断片に触れています。新たに原文にない改行を加えるなどの工夫もされており、こちらのほうがはるかにわかりやすいし日本語として意味が通っています。参照下さい。なお、ベンヤミンの原文は、こちらにあります。

CHINAWAREN

それでも前の投稿で細見和之さんの訳ではなく、野村先生の訳を引用したのは、そこで書いたとおり文筆文化という訳が絶妙ですばらしいと思ったからです。それとこの文章の表題Chinawarenを、野村先生は中国工芸品店と訳しています。これも字面だけ見れば細見さんの陶磁器でいいというかそれがまっとうで、中国工芸品店というのはあまりに意訳過ぎるように思います。

この著作の末尾には中国(人)の筆写云々という文章が結語のように置かれています。Chinaという言葉が、海外では磁器(または陶器も含めた焼き物全体)を指すという事を知っている人なら陶磁器という表題とこの中国云々という結語を関連付けることも容易でしょう。でもどうなんでしょう。我々のように工芸とかインテリア関係の業界にいる人間以外にはよくわからないのではと思います。野村先生はそこまで考えて敢えて超意訳とも言える中国工芸品店という表題にしたのではないでしょうか。翻訳というのは本来そこまで考えて行うべきことかなと思います。


陶磁器

前略

街道の放つ力は、そこを歩いてゆくのか、その上を飛行機で飛ぶのかで異なる。同様に、文章の放つ力は、それを書き写すのか、たんに読むのかで異なる。空を飛ぶ者が目にするのは、道が風景のなかをうねうねと進んでゆく姿だけであって、彼にとってその道は、周囲の地形と同じ法則にしたがって伸び拡がっている。道を歩いてゆく者だけが、その道の発揮している支配力を、身をもって知る。空を飛ぶ者にとってはたんに伸び広がった平面にすぎない一帯から、道は、曲がるたびに、遠景や見晴らし台や間伐地や眺望やらを、命令で呼び出すのである。・・・ちょうど指揮官の号令によって兵士たちが前線から呼び戻されるように。

同様に、書き写された文章のみが、それに取り組んでいる者の魂に命令を発することができるのであって、たんなる読み手はその文章の内部の新たな相貌、その文章があの道のように、どんどん密になってゆく内部の原始林をとおりながら切り拓いてゆく新たな相貌を、知ることはない。なぜなら、たんに読む者が夢想という自由な中空を漂いつつ、自らの自我の運動にしたがうのに対して、書き写すものは自我の運動を命令にしたがうようにさせるからである。したがって、中国の筆写技術は文芸文化の比類なき保証であり、写本は中国の謎を解くひとつの鍵だったのである。

ヴァルター・ベンヤミン 『この道、一方通行』 細見和之訳 みすず書房 p17