ルイス・ヤッカ

いつもより少し早く起きて、サッカーのヨーロッパチャンピンズリーグ決勝を見る。特に海外サッカーのファンでもないが、美しいサッカーを標榜するFCバルセロナが勝ったのは愉快だ。しかも場所はロンドンのウエンブレーで、相手はその地元で筋肉サッカーの代表ともいえるイングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドだ。

カタロニア(カタルーニャ)とかその州都バルセロナというのは、私にとってわけのわからない所だ。だがたかだかサッカー、見るだけならそこに勝手に色々なものを投影させてもかまわないだろう。FCバルセロナのユニフォームのエンジと紺の縦縞は、かつての共和国スペインの最強最大のアナーキスト組合ー政党・CNTFAIの赤と黒の旗を連想させる。ケン・ローチ監督の 『大地と自由』 で、POUMの兵士が首に巻いていたスカーフも赤と黒に染め分けられていた。屈強なマンチェスター・ユナイテッドの選手の間を軽やかに駆け抜けるイニエスタやビジャの姿に、バルセロナやマドリードや他の市街戦下の街を走るドゥルティやアスカソの姿をダブらせる。


こうした時はバルセロナ由来の歌を聴きたい。ルイス・ヤッカ(Lluis Llach"BARCELONA Gener de 1976"。あとに引用した解説にあるように、バルセロナでの凱旋コンサートのライブ録音のようだ。

ルイス・ヤッカCDジャケット

Llis Llach BARCELONA Gener 1976

ルイス・ヤッカを知ったのは、今からもう30年近く前に出た『帰らぬ兵士の夢 平和のための世界の歌 〜 ヨーロッパ編』(1983年 制作・発行(株)音楽センター)というLPレコードだった。ここには、主に政治的理由で祖国での活動を禁止・制限あるいは自身が国外追放とか亡命を余儀なくされていた10人のアーティストの歌が収められている。ルイス・ヤッカも上のCDにある2曲のライブが収録されている。もとは、フランスのシャン・デュ・モンド社から出されたそれぞれのアルバムから、昨年亡くなった芳賀詔八郎さんが1枚のアルバムにまとめたものだ。構成・プロデュース、訳から解説まで芳賀さんがされている。その博識と眼力、それに情熱は本当にすばらしい。

さて、このCDのライナーノートは、フランス語とカタロニア語(?)で書かれており、さっぱり意味が分からない。ルイス・ヤッカに関するネットの情報もカタロニア語とスペイン語のものが多く、英語でのまとまった物はない。それにもう現在では音楽活動からは引退しているようだ。ただ、例によって動画サイトで検索すると新旧さまざまな彼の歌を聴くことができる。若い頃の彼は、今日も途中から出場したFCバルセロナのキャプテンで、南ア大会でのスペインチームのキャプテンでもあったプジョルのようだ。

日本語の解説となるといまだに芳賀さんの30年前のLPのそれが一番詳しいようだ。以下にルイス・ヤッカに関する部分を全文引用する。

ルイス・ヤッカ

スペインの若手アーティストの中で、一番に聴いてみたい歌手である。彼の絶大な人気は、故郷のカタロニアは言うに及ばず、今やスペイン全土に鳴り響いている。彼は、カタロニア語で歌う。それは普通スペイン語と称するカスティージャ語と異なり、フランス語とも等距離にある言葉だ。そして永らく使用を禁止されてきた。フランコ死後も最近まで、その措置は続いていた。そのため若者は、20歳過ぎてから母国語を勉強する始末だ。ただ言葉は話す、何故なら親たちが家庭で使うから。でも文字は知らない、教科書が取り上げられていたから。この悲劇は、我が身に置き換えてみれば歴然とする。だからカタロニア語で歌うことは、体を張ることだった。数年後に同じカタロニアの歌手ライモンが来日し、その記者会見の席上、"何故解りやすいスペイン語で歌わないのか、カタロニアの悲惨な歴史を世界に訴えるつもりなら"という問いに、彼はきっぱりこう答えている。"だからこそカタロニア語で歌うのだ"と。このへんの事情は、戦前の日本も立場こそ逆だが体験したことである。

さて、ルイス・ヤッカ(ルイス・ジャックとも呼ぶ)は1950年生まれ、早くから才能を発揮し、17歳でファースト・アルバムを発表したり、"カタロニア語で歌うことこそが、スペインの国家権力からわれわれの文化を護る最良の運動だ"として16人の闘志という若者グループを結成したりしている。バルセロナの大学を出た後は、検閲、追放、禁止という数々のレッテルの貼られたコンサートを繰り返しながらも、やがてカスティージャ、アンダルシア、バスクでも並外れた影響力と人気を持つようになった。しかし遂に全面活動禁止令が下り、フランスに向かうことになってしまう。そのおかげで、ヤッカの名は国境を越え、73年パリ・オランピア劇場の大成功に続いて、ヨーロッパ各地での成功の報に本国政府も折れざるをえず、解禁処置に至った。やがてカタロニア語の解放。ルイス・ヤッカは、まるで凱旋将軍のごとく祖国に迎えられた。

ルイス・ヤッカ、彼は文字通り、傷みと反乱、正義と自由を叫んで、今やスペインの若者の象徴となっている。

芳賀詔八郎

おにゅう峠から百里が岳、木地山峠

少し前からこの日の山行は予定していた。体力的には少々弱り気味であったが、ちょうど色々煩わしいことも続いていたので良い機会と思い出かける。いつもの山に今回は沢筋をすこし下ってみようと思っていた。しかし途中の林道が先週はじめの雨のせいか小規模な鉄砲水にやられて崩れていた。4輪駆動車ならなんとか通れそうな感じで、強行突破も考えたがまだ時間も早かったので別の山に向かうことにする。地図を見て色々考えたが小浜(福井県)との境になる百里ヶ岳近辺が面白そう。

まだ未整備(ナビにも表示されない)の林道をおにゅう峠まで車を走らす。途中未舗装でかなりあれた路面の部分もあり、どうやらオフロードバイクの格好のツーリンツコースとなっているらしい。峠手前に登山道の入り口の標識を見つけたので、引き返してそこから山に入ることにする。

道中イワカガミの群生を見つける。花はいまが盛りのようだ(クリックで拡大戻る操作でもとに)。

イワカガミの群生

イワカガミの群生

ここから百里ヶ岳を経て木地山峠に行く道は部分的に杉の植林地が迫っているところもあるが、ブナの単相に近い林やミズナラ、カエデ、ミズメなど芦生の演習林に近い植生が残されておりよい山であった。詳しくは別に報告したい。

木地山峠近くのブナ林

木地山峠近くのブナ林

木の家具40人展2011

木の家具40人展2011

今日は、6月10日(金)からはじまる木の家具40人展2011の出展者打ち合わせで名古屋に行く。工房齋の齊田一幸さん達の尽力で始まったこの展示会も4回目となる。私も第1回の実行委員の一人だったのだが、その後個人的な事情もあって過去2回は出展さえしていなかった。出展者の名簿を見ると半数以上が知らない人。今日の会合の出席者を見ると若い人が多い。一人の方に年齢を尋ねると24だそうだ。

会合の場所が東別院だったので、地下鉄で一駅乗って久しぶりに上前津の大須商店街に行く。日曜日ということもあるがこの国のどこが不況なのかという喧噪ぶり。逃げ出したはずの中国人らしき風情と言葉の人たちも目立つ。その中でひたすら疎外感と疲労感のみを感じる。たしかに最近食欲や物欲、何によらず欲求自体が減退しているのはたしかだが、この中いても欲しい物も食べたいものもないのだ。人いきれに疲れて早々に地下鉄の大須の駅に向かう途中でまた中国人の団体。

欅の拭漆の納品

今日は、津市のお客様から依頼の欅の床板に拭漆を施した物を納品。もともとウレタン塗装がされていたのを矧がしての拭漆であった。さすがにウレタンの表面強度、浸透力は強く塗装をはがすのに苦労した。最後は残るウレタンは吸い込み防止の下地塗装と割り切る。依頼を受けて一年余、早くに終わっていたのだが納品のタイミングを逸して今日になった。お手持ちの家具調こたつ風の座卓の天板としてそのままお使いになる。一部木端の部分の傷を補修したがたいへん木味のよい板だ。お詫びの意味もあって口頭の見積額の八掛けの納品伝表を持って行ったが、その口頭の見積もり金額を覚えて下さっていていつでも良いと言ったのは私だからと満額を支払って頂く。最近仕事も見積もりもめっきり減っているので助かる。

拭漆欅床板


納品の日(だけ)はエビスビールと決めている。あてはさっと作った鶏レバー甘辛煮。昨日返品交換で届いたばかりの読谷山焼の器に盛る。

ヱビスビールと鶏レバー甘辛煮のあて

被災地からのメール

3月にボランティアに入ったお宅の人からメールを頂く。偶然このホームページを見つけてくれたとの事ですが、もちろん名刺を置いてきたわけでもなく名乗ってもいない。どこからと問われて、三重から来たというのはお答えしたような記憶がある。しかしこのページにはボランティアの報告記事はあるが、私の容姿など伺える物はイラスト以外ないし・・・と、良く見つけて下さったことだと思う。

当時私たちが浸水した家財道具や畳を運び出した周辺の道路の画像が添えられていた。当時はそうした家具や畳、家電製品であふれていたが2ヶ月たってきれいに片付けられているのに驚いた。ただし、メールには2カ月過ぎても、何をどうしていいのかわからない状態です。ですがここで生活していくしかないので、まぁ、なるようにしかならないかぁ。。と思って日々過ごしてます。。メールを下さったSさんは、ボランティアに入ったご家庭の中ではずいぶんお若い女性でしたし、被災後10日あまりの早い段階でボランティアを依頼されるなど気丈な方とお見受けしました。それでも震災後の喪失感や絶望感というのはそこに暮らす人にしか分からない深いものがあるのだと思いました。早いものですでに現地に行ってから2ヶ月となります。当たり前の話ですが、そこで暮らす人の生活は続いています。早い段階でもう一度自分のできることを決めて現地に行きたいと思いました。

石巻駅前北通り3丁目周辺

被災者の方が送ってくれた自宅周辺の様子

スワンもどきの制作開始

詳細図の作成で難渋していたスワンもどきの制作にようやく入る。今回はタイプ1のものにする。連休の間、蕎麦打ち修行の後ずっと聞いていて、おそらくはオリジナルの雰囲気を持っているのはホーンの形状や定数にほぼ準じたタイプ2の方だろうと思った。24畳の工房で大きな音で鳴らすと威力を発揮するのだが、10畳和室に持ち込むとボンボンした中低音、ざらついたボーカルなどアラが目立つ。バラック作りのガタガタのエンクロージャーのせいとも思うのだが、タイプ1ではそれも目立たず要するに好きな音なのだ。

スワンもどきパーツ

構想やスケッチ、それに制作図面段階の組み手設計などではいつも優柔不断でとんでもなく時間がかかってしまう。その割にいつもごく普通のものになってしまうのだが。ただし実際の制作に入ると私は比較的手の早い方(雑?)だと思っている。今日も矧ぎも含めた材の木取りと面出しをほぼ終える。