レイテ島で「戦死」した伯父・服部誠一のこと 1

わたしの伯父・服部誠一せいいち()は1944年(昭和19年)フィリピン・レイテ島で戦死しています。戦病死と伝えられたそうです。

わたしの父親の兄弟は6人です(男5女1)。うち二人(三男、長女=第5子)は夭折しています。誠一さん(いくら故人とはいえ自分の親族に敬称をつけるのは無作法かもしれませんが敢えてそう呼ばせてもらいます)は四男になります。ちなみにうちの父親は末子の五男です。父親を最後にもう兄弟は全員故人となっています。

父親の遺したアルバムの中に何枚か誠一さんの写真が残されていました。他の兄弟や親の写真などはせいぜい1〜2枚しか貼られていないのに複数の写真がまとめてありました。それには1枚1枚に説明書きが添えられています。この記事の画像の説明書きキャプション()もそれに拠っています。遺品の一部として分けられたのでしょうが、戦死した(させられた)兄への思慕と無念の気持ちが伝わっています。

次兄・芳三と幼い誠一
15歳の服部誠一
19歳の服部誠一
軍服の服部誠一
上の写真の裏書き。「派遣当時 威六五五六部隊中岡隊中退教育隊」とあります。

誠一さんについて父方の親戚などから聞かされた話など残念ながらあまり記憶にありません。ひとつは夭折した妹が脳に障害がありその子の面倒をよく見る優しい人だったこと。もうひとつやはり徴兵され敗戦後はシベリアに抑留されていた長兄が、弟の死を悼んで大岡昇平の『レイテ戦記』を繰り返し読んでいたことくらいです。

身内に対するひいき目もありますが、こうして残された写真を見ていると本当にいい若者です。直接記憶にある父方の兄弟4人に比べても一番上優しい聡明そうな顔をしています。大事にそだてられた事もうかがえます。戦争で死んだ(殺された)のは260万人という顔のない数字ではなくて、「英霊」とか言う戦争責任(者)をごまかすノッペラボウで意味不明なものではなく、こうした身近に生きた人間であったのだとあらためて思います。思い起こさなくてはいけなかったのです。

ムネモリを正式に譲り受けました

四日市にゃんこレスキューからトライアル扱いでお預かりしていた猫を正式に譲渡手続きをすませました。これで旧名「チャンス!」は晴れて「ムネモリ」となりました。預かったのが6月26日(日)の里親会で、手続きが7月24日(日)のこれも定例の里親会でしたので1ヶ月後になってしまいました。当日はスタッフの人や預かりの人に大きくなったと言われました。実際に体重もトライアル当初の1.4Kgから2.3Kgに増えています。

ちなみに先住の小太郎は、あらためて体重を測ると6Kgになっていました。昨年6月保護した時の体重は3.9Kgでした。当時は手足・尾が長く細い。それに体もスリムで黒豹のように精悍な姿をしていました。当時から鼻が低く目が左右に離れ気味でしたが顔自体が小さかったのであまり気にはなりませんでした。今や立派な巨大猫に成り果てて、下腹はたるみタプタプしています。もっともこれは成猫になると皆そうらしい。顔も体と同じく大きくなって正面からみるとナイジェリア出身の助っ人Jリーガー・ピーター=ウタカ(現京都サンガFC)のようです。また横から見ると眉の部分・前頭骨が立派に張り出して照ノ富士に似ています。名前をつける時「小太郎」のほかに「ウタカ」にしようかと迷っていたことを思い出します。

二匹は兄弟のように仲良くしています。先月マタタビの実をツルと一緒に採ってきて遊ばせました。その様子を下の動画にしました。