パソコンのハードウェア更新

パソコンの部品を一部入れ替える。この何年か、セキュリティとか迷惑メール対策の手配の他は何もしていなかった。OSやアプリも新しいものは入れてないし、ハードウェアも周辺機器も手を入れていない。まあ、それだけ特に困ったことも不満もなく使えていたということだ。正月に帰省した弟と家電量販店の初売りに出かける。福袋の一つにパソコンのパーツのセットがあった。中身は以下のようなもの。

  • CPU Core2 duo E8400
  • マザーボード Asus P5Q
  • メモリー DDR2 SDRAM 1GM×2

これで、3万円で弟は安いから買っておけというが、いったん帰って調べるとこのほかにもビデオボードなども必要らしいからやめておいた。パソコンのハードウェアの最近の状況など興味もなく、まったくチンプンカンプンであったが調べているうちに弄りたくなった。年末にあたらしいデジカメを買って、画素数もファイルの容量も大きくなって、そのrawファイルを現像するのに力不足を感じていた、常用のLinuxマシンのブラウザFireFoxを、3にバージョンを上げたらよく落ちるようになった、メモリー不足などハードの問題かもしれない(という理由を自分で考えた)。

結局、Linuxを入れたたメインの自作パソコンと、Windowa XPの入ったメーカー製のパソコン・Epsono Direct MR2100ともマザーボードとドライブ類はそのままで、CPUとメモリーだけ入れ替えることにする。その内容は、下記の通り。CPUは、それぞれのマザーボードに対応したデュアルコアというタイプに、メモリーは円高のせいか安くなっているのでハード的に可能な最大値をデュアルチャンネルで入れる。


自作 Linuxパソコン(OS Vine Linux4.2 MB Intel DG965WH)更新部品
部品 価格 備考
CPU Celeron D 331
2.66GHZ/533MHz FSB/256KB L2Cache
Pentium(R) Dual-core E2200
2.20GHz/800MHz FSB/1MB L2Cache
¥6,780
メモリー DDR2-800(PC2-667) 512MB DDR2-800(PC2-667) 2GBx2(4GB) ¥3,980

Epson Direct MR2100(OS Windows XP)更新部品
部品 価格 備考
CPU Celeron D 336
2.80GHZ/533MHz FSB/256KB L2Cache
PentiumD 820
2.80GHz/800MHz FSB/1MBx2 L2Cache
¥3,980 中古
メモリー DDR2-800(PC2-667) 256MBx2(512MB) DDR2-800(PC2-667) 1GBx2(2GB)・追加 ¥2,804

2軒のパーツ屋から通販で購入したため、送料が¥1,838(¥1,050+¥788)かかった。合計¥19,382の出費。

メインで使っている(このページなども編集している)LinuxマシンのCPUを、Celeron D 331(2.66GHz 533MHzFSB 256KBL2Cache)から、Pentium Dual-Core E2200(2.20GHz 800MHzFSB 1MBL2Cache)に、メモリーをDDR2-800(PC2-800) 512MBのシングルから、同規格の2GB×2の4GBデュアルに。
CPUは、選択の範囲では最速というものでもないが()、まあ値段の兼ね合いでこんなものかと。メモリーは円高の影響もあってか、えらく安いので、マザーボード(Intel DG965WH)でサポートされている最大値を入れる。

BIOSのアップデートも購入してからまったく行ってこなかったが、新しい規格の部品を取り付けるには必要なようだ。CD-Rに、ISOイメージを焼いて無事完了。メモリーに関しては上記システムメモリーに色々書かれているが良く分からない。BIOSの表示で確認すると、以下のようにハード的にはちゃんと4GBのメモリーが認識されている。

Total Memory 4096MB
Memory Mode Dual Channel
Memory ChannelA Slot0 2048MB
Memory ChannelA Slot1 0
Memory ChannelB Slot0 2048MB
Memory ChannelB Slot1 0

Windows XPの入った機械(Epson Direct MR2100)も、CPUをCeleron D 336(2.80GHz)から、Pentium D 820(2.80GHz)に入れ替え。メモリーも、DDR2-533(PC2-4200) 256MB×2(512MB)に、同規格の1GB×2を追加。計2.5GBに。 CPUは仕様が古すぎて新品はかえって割高のため中古。

肝心の結果だが、LinuxマシンでのUFRawを使ったデジカメrawファイルの現像、GIMPを使ったレタッチなどの処理が少し早くなったような気がするFirefox3の方は、頻度はかなり少なくなったがやはり落ちる。どうもこれは、ソフトの方の問題のようだ。Windowsの方は、そもそも私は jw_cad くらいしか使わないので良く分からない。アップデート以外はサラのままに近い状態なので、もともとそれなりに安定している。

まあ、パソコンの体感上の快適さなど2世代分くらいのパーツ仕様の間隔があって、すっぽり全部入れ替えなくては分からないだろうなと今回も思った。では、私にとってはかなり大きな2万円の投資効果はというと、あたらしいデジカメで大きくなったファイルの処理に、しばらくはイラつかなくて済むという事だろうか。それよりも、メモリーも充分!CPUもデュアルコアだ!快適なはずだと言うプラシーモ(偽薬)効果が一番だ思う。


備忘録

以下は、パソコンのシステムの更新状況をチェックするためのコマンドの結果です。自分のための備忘録です。今、このページを編集しているEmacsというエディターですと、その中から直接こうしたコマンドを実行できるので便利です。それをそのままコピー出来ます。Unix(Linux)環境での標準エディタのような存在です。

お客様

千葉からお客様。まだ小さなお子様を実家に預けてご夫婦で車でおみえになる。DEVOTEと菊井に案内。その日の内にまた帰られる。若いなあと感心してしまう。

良寛の歌


あわ雪の中に()ちたる三千大千世界(みちおほち)またその中に沫雪ぞ降る

『良寛歌集 ─ 吉野秀雄 校註』 東洋文庫556 平凡社

注)校註によれば 三千大千世界とは、大宇宙の仏教的表現とある。

良寛和尚の歌に親しむようになったのは、この歌がきっかけです。この歌は昨年はじめ救いを求めるように読んだ『痴呆を生きるということ』─小澤勲著・岩波新書 の終章に著者によって引用されていました。小澤さんは、この本を著した時すでに癌の発症とその全身への転移を告知されていました。その時、最初から大きな動揺もなく、まったく平静に事態を受けとめた。と書かれています。それは、痴呆を病む人たちとともに生きてきたことにより、人の生は個を超えていると感じるようになったからだと。その死生観を次のように著されています。

私は今、肺癌を病んでいる。まったく無症状だったのだが、昨年春の検診で発見され、精査の結果、すでに全身に転移していることがわかった。告知を受け、命の限りが近いことを知らされた。しかし、最初から大きな動揺もなく、まったく平静に事態を受けとめた。自分でも不思議だった。ときどきなぜだろう、と考えることがある。よくわからない。しかし、痴呆を病む人たちとともに生きてきたことと、どこかで深くつながっているように思う。

彼らと生きていると、人の生は個を超えていると感じる。そのせいだろうか。私自身もわたしへのこだわりが若い頃に比較して各段に少なくなっている。むしろ、つながりの結び目としての自分という感覚の方が強くなっている、といったらよいだろうか。そのつながりは、病を得てからとても強くなっていて、私の残された生を支え、充実したものにしてくれている。そのつながりがこの本を書かせた。

今、私はあるイメージを幻視している。それは、複雑に絡みあったほとんど無限のつながりの網がある。このつながりは複雑なだけでなく、生き物のようにうごめき、一瞬一瞬変化している。一人ひとりはそのむすぼれである。

そのつながりの網は、生命の海とでもよんだらよいようなものに変幻する。一人ひとりはその海を浮遊している。あるいは、一人ひとりは生命の海を分有して生きている。無限の時間の流れのなかで、一つひとつの生命の灯はふっと消え、海の暗闇に還ってゆく。その暗闇から別の灯が生まれる。潮流のうねりと蛍のように明滅する灯。

この生命の海が滞りなく流れていれば、その流れを漂う生もまた滞りなく流れているく。ところが、この生命の海に滞りがみられるようになると、そうでなくても滞りがちな生はよどみに取り残され、光を失っていく。そのよどみは、生命の滞りをさらに深刻なものにしていく。しかし、よどみに置き去りにされた生が、再び光を放ち、生命の海に漂い始めると、生命の海は輝きに満ちてくる。

あけましておめでとうございます


わかれにし心の闇に迷ふらしいづれか阿字の君がふるさと

『良寛歌集 ─ 吉野秀雄 校註』 東洋文庫556 平凡社

注) 阿字とは、何となく曲学阿世とか阿諛という言葉から類推して、おもねるという意味かと思ったが、校註によると梵語12母音の初韻で、一切万有の本源の象徴とある。

良寛和尚にそっと諭されている、あるいは迷ふこと自体を許されているようにも、今の私には読めます。

今しばらく迷い惑ってみる、みるべきだと思っています。