ダイアトーン・Pー610バスレフ箱の制作

木の仕事展IN東海2016の出展用にダイアトーン・P-610のバスレフ箱を作っています。フロントバッフルには、チェリーを予定していましたが、思うような材がなく、カバに変更しました。これは、マカバの白の尺物(30センチ)という今や希少な材です。以前、ある仕事でバンドル買いした中の一枚で、とっておいたものです。こうしてバンドル買いした材の中で、幅広で木味のよいものは他にも選別して保管してきました。思うところあって、こうして取り置きした材料も、もう機会を見て使っていこうと思っています。

ユニットはバッフルに落とし込む事で、フレームのいやな鳴きを押さえる。

ユニットはバッフルに落とし込む事で、フレームのいやな鳴きを押さえる。

箱のまわり(エンクロージャー)はナラを使います。スピーカーの箱なんて、別に大きな負荷のかかるものでなし、時間もないのでビスケットで簡単に組んでしまってもよいかとチラッと思いました。もちろん、そんな事はしません。前にも書きましたが(剣留と導付鋸・「蛇足」)、あれをやるようになったら木工など辞めます。気軽な横着に流れる事で、失うものが大きすぎます。それと、導付鋸を使ってみたくなり、こんなことをやっています。

エンクロージャーは、ナラの10ミリ。

エンクロージャーは、ナラの10ミリ。

木の仕事展IN東海2016

私も所属している木の仕事の会の東海地方のメンバーによるグループ展・木の仕事展IN東海2016が開催されます。

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  • DM表面(PDF)
  • DM裏面(地図、ワークショップ案内など PDF)
  • 例年、私はワークショップ担当のような形で、参加しておりましたが、今回は他のメンバーによる多彩なワークショップやイベント展示が予定されています。今回はBGM+喫茶担当と居直りたいと思います。

    自作派の定番・ダイアトーンのP-610のナラ無垢板のバスレフ型エンクロージャーを出します。これを、300Bシングル・モノラル・パワーアンプや、5881(6L6GT)プッシュプル・モノラル・パワーアンプで、鳴らします。ソースは、LPレコードも使おうか検討中です。黙って聞いていただいても結構ですし、CDやLPを持参頂けば視聴もしてもらえます。気軽にご来場下さい。

    • 日時 11月25日(金)〜27日(日) 10:00〜18:00(最終日は17:00)
    • 場所 東桜会館(名古屋市東区東桜2-6-30)
    • 主宰 木の仕事の会 東海

剣留と面取り

今、定番とも言えるオーディオボードを作っています。框組の工作になりますが、そこで剣留という接合方法を使っています。

剣留を十字に使うと意匠的にも面白いものになります

剣留を十字に使うと意匠的にも面白いものになります

剣留けんどめについては、前にホームページの中で書きました(「剣留と導突鋸」)。そこでも触れたように、私は框組で何かを作る時には剣留を多く使ってきました。本来は、馬乗りとか、面腰と呼ばれるやり方が使われる場合でも、この方法をでやってきました。つまり、剣留がその構造から意味を持つのは、カマボコ面など組まれる面全体に加飾が施される場合です。材の端に面取りや加飾する場合であれば、その部分だけを欠き取ってそれぞれ留でつなぐような馬乗りとか面腰の方が合理的です。

実際に私も最初の頃は、剣留とカマボコ面を併用していました。そのためにいくつかのRの内丸鉋を購入して仕込みました。でも、剣留にカマボコ面というと、何を作っても李朝家具風になってしまってどうも面白くない。それで、剣留に普通の切り面といったいわば変則な工作をしてきました。

馬乗りとか面腰をやらなかったのは、それらの組手が、ホゾ取盤とか傾斜丸鋸盤といった木工機械があれば、誰でもやれてしまう程度の工作だからです。パートのおじさんやおばさんでも、3日もやれば相応に出来てしまうでしょう。こう言ってしまうとお叱りを受けるかもしれませんが、機械作業というのは本来的にそうしたものだと思っています。でないと機械を使う意味がない。私は、自分の仕事に対して手作りなどというインチキなコピーを使った事はありません。ただ、手加工の要素をこうした刻みと呼ばれる作業にもどこか取り入れないと、どうも仕事をしていても面白くない。

下穴はトリマーで決めて鑿で仕上げる

下穴はトリマーで深さを決めて鑿で仕上げる

剣留のメスの欠き取りの加工は、下穴はハンドルーターなどを使うにしろ仕上げは鑿で行うのが一番合理的でしょう。当然墨はシラガキで付けます。この仕事をはじめたばかりの頃に、訓練校の先輩の工房を訪ねた時にその話になりました。先輩氏は、角鑿盤の、箱ノミを、斜めに着けて取るのだとおっしゃっていました。そんなことをするくらいなら、鑿を使ったほうが速いし正確だしとその時も思いましたしたし、実際そうでしょう。 今思うと、その先輩氏の工房はまともに使える鑿がない(研いでない)状態だったのでしょう。そうして結局機械と電動工具に全面的に依存していった例をいくつも見てきました。

一方、オスの剣の方は、丸鋸盤に角度定規などのジグで簡単に切れそうです。ところが、やってみると、どうも上手くいかない。理由は敢えてあげると、機械加工と手工作では、寸法の基準のとリ方から墨の付け方も違う。それを混在させると、中途半端な結果になるというのは、他でもありました。ですから、剣の部分もキチンとシラガキと留定規で墨を付けて、導突鋸でさっと挽くのがよろしい。それに「剣留と導突鋸」でも書きましたが、ゴチャゴチャ丸鋸盤をいじっているより、こちらのほうが早いのです。 写真はその記事から再掲しています。

剣の部分は胴付鋸で挽く

剣の部分は胴付鋸で挽く


墨さえきちんと付けてあれば、きれいに切る事が出来る。

墨さえきちんと付けてあれば、きれいに切る事が出来る。

第68回 正倉院展に行ってきました

チケット

チケット

朝、墓参りに行ったあと第68回正倉院展に行ってきました。今年も会場の国立博物館に向かう前にならまち商店街にある刃物屋・菊一文字に寄ります。これもここ数年の恒例のようになっています。店にいた女将さんにご主人のことを尋ねると今年の5月に亡くなったとのことでした。88歳だったそうです。昨年の正倉院展の時にお邪魔した折には元気な姿を拝見していたのですが、そのすぐあとの12月に圧迫骨折で入院、予後悪くそのまま亡くなられたそうです。常連のお客さんも多く、店を閉めるわけにもいかないので、今は一人で店を守っているとおっしゃっていました。

菊一文字で買った2分の三角刀。播州三木のものとのこと。

菊一文字で買った2分の三角刀。播州三木のものとのこと。

こうした小さな専門店を応援したい気持ちもあって、寄るたびに何か買っています。亡くなったご主人に薦められて購入した銅のおろし金などはたいへん重宝していて今は毎日のように使っています。言われた通りプラスチックのまがい物と、これでおろした大根は別物です。今回も2分幅の三角刀を買いました。


今回の展示では、これまで見たこともなかったような銅に鍍金の鈴のようなものが多数展示されていました。蓮華の形、ウリやクチナシの実の形などいずれも小さくかわいらしいもので、金工をしている人が見ればさそ面白かろうと思います。木工屋的に面白かったのは月並みですが、楩楠箱べんなんのはこと、檜八角長机ひのきのはっかくちょうきなどですが、これはまた次回にします。

良い天気でした。猿沢池から興福寺の眺め。

良い天気でした。猿沢池から興福寺の眺め。

これはいったいなんだろう?

これはいったいなんだろう?

墓参り

11月2日は、父親の命日で墓参りに行く。昨年、7回忌の法要を母親の3回忌と兼ねて行ったから、もう亡くなってから7年になる。この日は雑種高齢犬・タローも連れて行く。今年15歳になったタローは、もともと父親がどこかでもらってきて、手のひらに乗るような仔犬だったころから7年飼っていたことになる。父親が入退院を繰り返し、母親がボケだした間は、散歩もままならず今思うとストレスがたまり、自分の小屋を噛んで壊したり暴れたりしていた。父親が亡くなり、母親を介護施設に入所させた後は、私が飼うことになった。

元々の飼い主の墓の前で神妙にしているように見えないわけでもない?

元々の飼い主の墓の前で神妙にしているように見えないわけでもない?墓を洗う間もじっとしていた。

墓の前では、どこか神妙にしているようにも見えるが、それは飼い主の醸し出す雰囲気を察してのことだろう。犬というのは、わけが分からなくても周りの人間とくに飼い主の様子を観察して対応しているように思う。少し前のはやり言葉でいう空気を読むという事だ。それを、この犬は賢いとか犬なりに分かっているとか言うのは、おおいなる勘違いだ。そうして買いかぶるのも飼い犬への愛情を深める要素にはなるかもしれないが、他人には吹聴しないほうが良いと自戒をこめて思うことにしている。


墓地の入り口にある戦没者慰霊碑

墓地の入り口にある戦没者慰霊碑

この墓地は、父親の実家の四日市市内の少し郊外の元々は農村だった地域にある。子どもの頃はまだ焼き場が併設されていて、そこで火葬される葬列を見たような記憶があるが、確かではない。そのくらいに田舎なのだが、この小さな村でも太平洋戦争で32人もの人が亡くなっている。墓地にはその人たちの名前を記した慰霊碑がある。その中の一人にフィリピンで戦死した私の伯父(父親の兄)の名がある。さらに碑の裏には復員者の名前が刻まれているが、その中にはやはり二人の伯父の名前もある。母親は、戦中に静岡からここに疎開(祖父の出身地でもあった)してきて、戦後父親と知り合って結婚したらしい。疎開先に対する恨みつらみが余程たまっていたのか、ボケだしてからこの地域の悪口とも愚痴ともつかぬひとり語りを延々と繰り返していたことがあった。そんな母親も、この碑が出来てからは墓参りに行くたびに、この前で深々と一礼をしていたらしい。それは習うことにしている。