「忘れてしまおう」 サラ・ティーズデイル

サラ・ティーズデイルというのは、たとえば金子みすずが、少しは裕福な家に生まれて、女学校にでも通わせてもらったら、こんな詩を書いたのだろうか?という印象になる。英詩のことなんて何も分からないが、たどたどしく押韻もいいかげんですよね。でも、なぜか気になる。久しぶりに、クリスティーネ・シェーファーでAPPARITIONをCDで聴く。しかし、サラ・ティーズデイルとジョージ・クラムというのは、不思議な取り合わせな気がする。

忘れてしまおう

忘れてしまおう
たしかに咲いた一輪の花を 忘れるように、
一度は燃え上がった炎を 忘れるように。

忘れてしまおう
きれいサッパリ 何も残さず、
時はやさしい友だち 私たちを老いさせてくれる。

他人(ひと)に聞かれたら
忘れてしまったと答えよう とっくの昔の、
一輪の花、ひとたびの炎、雪に消された小さな足跡のように。

サラ・ティーズデイル (拙訳)


Let it be forgotten

Let it be forgotten, as a flower is forgotten
Forgotten as a fire that once was burning gold,
Let it be forgotten for ever and ever,
Time is a kind friend, he will make us old.

If anyone asks, say it was forgotten
Long and long ago,
As a flower, as a fire, as a hushed footfall
In a long forgotten snow

Sara Teasdale

和食店でのピアノ連弾鑑賞 20年ぶりの友人と

昨日は、名古屋の小さな和食店(もとやま紗羅餐)での、会食と女性2人によるピアノ連弾というイベントに行ってきました。もともと咳払いもためらわれるような、いわゆるコンサートよりも、こうした猥雑な環境で、お酒を飲みながら、会話を楽しみながら音楽を聴くのが好きです。というか、それが本来の音楽の楽しみ方のように思います。他のジャンルでは、ライブと呼ばれて当たり前の事なんですけどね。

もとやま紗羅餐での Yumi & Mako ピアノ・デュオコンサート

もとやま紗羅餐での Yumi & Mako ピアノ・デュオコンサート。このお店のテーブルは私が作らせてもらいました(クルミ)。

それには、演奏者に対する最低限の敬意と、聴衆同士の気配りがあれば良い。昨日は、そもそものお店の客層(←失礼な言葉ですが、他に思いつかない)のゆえか、良い雰囲気で楽しく過ごせました。一人、場とタイミングをわきまえず無関係にしゃべり続けるご婦人がいましたが、まあそれは仕方がない。同席のお仲間の無言の圧力で、どうやら静かにされたようですし。それと、最後のトークと質問のコーナーでは、いずれも高齢男性の下世話な話題振りに辟易させられますが、まあこれもお約束という感じで演奏のお二人は流しておりました。ジジイにしたら、まだセクハラと自分語りにならない分、上品にすら思えます。まもなく前期高齢者に近づく私も気を付けようと思います。でも、そもそも音楽と無縁のこうしたトークタイムは不要だと私は思いました。

演奏は、フォーレに始まり、定番のブラームス、タンゴを挟んでモーツァルトで終わるという素敵なプログラムでした。曲のはじめに演奏者ご自身が、簡単な解説をしてくれるのも良い。ロンドンで聴いたイングリッシュ・コンサートの演奏でも同じように曲間に解説とトークが入りましたし、最近は行っていませんが大阪でのコレギウム・ムジクムの月例のコンサートでも、主宰者の当間さんの軽妙洒脱な解説が楽しく役に立ちます。あと、1曲終わるごとに拍手が許されるのも自然で良い。いわゆる「コンサート」では、曲の楽章の切れ目では、静粛にするのがお約束ですが、私はあれは結構苦痛です。ヨーロッパの昔のオペラのビデオとか見ていると、アリアが終わった後など、幕の最中でも聴衆が拍手をして歌手もそれに応えています。そちらの方がよほど自然で良いと思います。

演奏自体は、はじめ多少ギクシャクした感じで、ピアノの音も美しくなく、これも会場や小さなアプライト・ピアノのせいかとか思っていましたが、半ばを過ぎてタンゴに入った頃からお二人の息もあってピアノの音自体が粒だってきれいになってきたのは愉快でした。モーツァルトが終わる時は、ああもう少し聞きたいと思いましたが、それくらいが丁度良いのかと思いました。正味40分ほどのコンサートでした。


さて、この日は20年ぶりに会った友人と待ち合わせて出かけました。彼女が名古屋に戻って働いているというのは、一年ほど前に知人から聞いており、その時には声だけ聞いていました。岐阜のTさんとか、Fちゃんと言えば、私の古くからの友人・知人ならお分かりになるでしょう。あらためて、当日の朝に、その知人から彼女の連絡先を聞いて携帯に電話を入れてみます。不規則勤務だというのは知っているので、まあダメ元でいいかというつもりでした。たまたま勤務はオフで、夕方からは開いている、それに昔と変わらぬノリの良さでこの変ったコンサートまで同席してもらいました。

その前に栄で会って少し話ましたが、20年ぶりでも昔話はほどほどに、お互いの今に関心と話題が向かうのはありがたいことです。私の家庭環境なども知っているというか覚えていてくれているので、愚痴もふくめた介護と看取りの件も聞いてもらったりしました。こちらは、随分と気が晴れました。ずっと医療関係の現場にいるので、前提なしに分かってもらえるのもありがたい。お店の女将さんには、幼なじみと紹介しましたが、今から思えば、学生時代なんてハナタレ小僧みたいなもので、本当にそんな感じがします。

Hungry child ー マリアンネ・プスールのアルバムを聴く

気分を変えて、久々に買ったCDの話。マリアンネ・プスール(Marianne Pousseur)の、Onlyというアルバムです。

Marianne Pousseur "Only"

Marianne Pousseur “Only”

マリアンネ・プスールさんのディスクは、以前に紹介していました(→ハンス・アイスラーとベルトルト・ブレヒト 労働者の母のための4つの子守唄)。1996年発売のWar and Exileという、すべてブレヒトとアイスラーよる27曲を集めたアルバムでした。当時としてはかなり尖った先鋭的なものだったと思います。声楽家っぽくない地声の歌唱もブレヒト・ソングに合っていて良かった。今回のOnlyも、面白い。

マリアンネ・プスールという人は、ベルギー生まれの声楽家でパフォーマーという以外詳しいことは知りません。しかし、このアルバムの構成が、なんともすごい。アイスラーを除いて、聞いたことのない曲ばかりですが、その一覧を見ただけで、これは聞かねばと思いました。

  • ジョン・ケージ、ジェイムズ・ジョイス「18の春の素敵な未亡人」(?” The Wonderful Widow of Eighteen Springs ” どう訳せば良いのか分かりません)
  • モートン・フェルドマン、リルケ 「Only」
  • ハンス・アイスラー、ベルトルト・ブレヒト 「世界の示す友情について」
  • フレデリック・ジェフスキー、ラングストン・ヒューズ 「餓えた子ども」

などなど。多少なりと現代の文学や音楽に関心のある人には、かなり興味をひくものでしょう。仕事のBGMとして流すには濃すぎて、夜静かに辞書を傍らに聴いています。前書きにある、

I like to listen to music in place that haven’t been designed for it.
I like when music in with noise.

というのも面白い。実際に様々な生活雑音の中に音楽が流れます。なあに、そんなことしてもらわなくても、もともと雑音だらけの環境で聞いているのですがね。いくつか訳してみます。


Hungry child

Hungry Child, I didn’t make this world for you
You didn’t buy any stocks in my railroads
You didn’t invest in my corporations
Where are you shares in Standard Oil?
I made the world for the rich and the will-be-rich,
And for always-have-been-rich.
I didn’t make this world for you,
Not for you, hungry child, not for you.

Rangston Hughes

餓えた子ども

腹ぺこのガキ!お前のために世界を作ったわけではない。
お前は、私の鉄道株など買えないだろう。
お前は、私の会社に投資なんて出来ないだろう。
お前のスタンダード・オイルの株券はどこにある?
私は、この世界を金持ちと、これから金持ちになる者、
それにこれからもずっと金持ちで在り続ける者のために作ったのだ。
私は、お前のためにこの世界を作ったのではない。
お前のためじゃないぞ、腹の減ったガキ、お前のためじゃない

ラングストン・ヒューズ(拙訳)

スピリチュアルの伝統に則った現代の創造主(資本家)にも見放されたカラードの子どもという自虐なアイロニーの詩なんでしょうか?そのヒューズの国では、もう人口の半分以上が、肥満及びその予備軍だと言われています(ソースは下記↓)Hungry childは、その人口の半分が肥満の国・アメリカが無人飛行機と軍事衛星を使って爆弾を落としているアジアやアフリカの子どもの事であり、それが「憎しみの連鎖」の根本にあるというのは、わかっているのですが、・・・と話がもとに戻ってしまいました。

2月11日・追記

CDC(Centers for Disease Control and Prevention:アメリカ疾病予防管理センター)の、2013年のデータによると、全米平均で28.9%が肥満(BMI値・30.0以上)、35.4%が過体重(BMI値・25.0〜29.9)と分析されています。

Weight classification by Body Mass Index (BMI)

アリーナ・イブラギモヴァ バッハ無伴奏ソナタ・パルティータ全曲演奏

23日に、アリーナ・イブラギモヴァさんのコンサートに行ってきました。バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータの全曲演奏というもの。時間をおいて1部、2部に分かれて演奏になりますが、通して聴きました。

今回は、さすがに途中ウトウトしてしまうかと心配でしたが、杞憂でした。若々しい躍動感あふれる演奏で、これも耳に馴染んだバッハの曲が、こんなにもすばらしい響きとリズムで体と神経を震わせてくれるんだと思いながら時間が過ぎていきました。まだ若いイブラギモヴァさんは、これから10年もすると大きなロシアのおばちゃんになるだろうなというふくよかな体型ですが、まだウエストもちゃんとあります。それで、時に膝を折るように曲げ上体をかがめ舞うように全身を使って演奏します。それがなんとも艶かしい。それに曲のダイナミックな要素を視覚からも感じることが出来るのは、ラジオではなくて実際の演奏を目の当たりすることの大きなメリットです。クラシカルな音楽の演奏家といってもやはり芸人なんだから、それが当たり前なんだと思います。

それと先々週聴いた「冬の旅」とは対極の世界かもしれませんが、こうした後付も含めた標題やらイワレのない音楽はいいですね。妙な先入観や薀蓄、押し付けがましい世界観に束縛されることなく音やリズムを楽しめます。

イブラギモヴァさんリサイタルのフライヤー

徳島からお客さん、ダイアトーン・P-610 を聴く

15日(月)は、わざわざ徳島からお客さん。ダイアトーン・P-610のスピーカーボックス(エンクロージャー)を引き取りに来てくださった。事前のメールでタローのご指名があったので、ふだん連れていかない工房へ繋いでおいた。私が席を外している時に、そのお客さんがお見えになって、私より先に友だちになっていた。聞けば、同じような雑種犬を飼っていて、ブログの写真を見て是非会いたかったとの事でご指名となった。携帯に収まったその飼い犬(コジローだったか? 失礼、小太郎でした!あら、コタローだ・・・)の写真は、本当にタローとよく似た日本の雑種という風情の元気そうなヤツだった。

ダイアトーン・P-610 バスレフエンクロージャー。チェリー、クリの全て無垢板。

ダイアトーン・P-610 バスレフエンクロージャー。チェリー、クリの全て無垢板。この小さなユニットが良く鳴る!無垢板のエンクロージャーは、内部にほとんど吸音材を入れていないが、いやな音で振るえない。

私のホームページを見て注文を頂いたのだが、実は色々とほとんどニアミスとも言えるような共通の知人・友人がいる私より少し年長の方だと分かって、よく云われる事だが世の中は狭い。その分、基本的なものの考え方もお互い窺い知れて肩肘張らずに話せる。飼っている犬が同じ雑種だというのも嬉しい。ペット(ある意味友だち)をブランドで選ばないし、生き物をお金で贖うことをしないということだ。やはり前日の選挙結果のことは、もうニュースも見る気がしないとのこと。

オーディオの事も、オカルトめいた機器自慢ではなくて、基本自作派なので話は合う。作らせてもらったものと、私の普段使いの平面バッフル300Bシングルで暫し音楽を聴く。持って来られたBBキングは、圧倒的にP-610の方が快適だ。ベースの音もちゃんと聞こえる。10年あまり親しんだこの平面バッフルだが、もう一度P-610を使ったスピーカーを自分用に作ろうと思った。

パドモアとルイス、シューベルト・『冬の旅』のコンサートに行ってきました

今日は仕事を早めに切り上げ、雑種犬タローの散歩も済ませて、名古屋伏見の電気文化会館・ザ・コンサートホールに行ってきました。マーク・パドモア(テノール)とポール・ルイス(ピアノ)によるシューベルトの『冬の旅』。イケメン二人のコンサートで、女性客がいつもより多かったか?席は6割ほどの埋まり方。ここでの声楽のコンサートでは、こんなものと思います。

イケメン二人のコンサート。

イケメン二人のコンサート。

同じ組み合わせでのCDは、あまりぱっとしない印象だったのですが、実際の演奏はずっといい。冒頭の

Frend bin ich eingezogen,
Frend zieh’ ich wieder aus.

)余所者(よそものとしてやってきて、
出てく今も、やはり余所者。

で、もうすっかり殺伐とした出口や希望の見えない世界に引き込まれる。『冬の旅』なんて長ったらしい歌曲集は、もうずっとながら聴きしかしてない。だから曲も歌詞もあらかた諳んじてはいるが、あらためてこうして目の前でじっくり聴かされるとこんなに寒々とした暗い世界だったんだ。これをかつてのハンス・ホッターのような重たいバスで歌われたらいやだろうな。

Ein Tränen, meine Tränen,
Und seid ihr gar so lau,
Daß ihr erstart zu Eise
Wie kühler Morgentau?

涙、わたしの涙、
生ぬるすぎて、
凍ってしまう。
朝露のように

コンサートの最後、「辻音楽師」の最終節でパドモアさん、1歩前に進み出て、声を落として切々と歌う。

Wunderlicher Alter,
Soll ich mit dir geh’n?
Willst zu mein Liedern
Deine Leier dreh’n?

ジジイ、
一緒に行ってもいいか?
オレの歌に合わせて、
伴奏してくれや。

以上、いづれもヴィルヘルム・ミュラーの詩を拙訳

何度も拍手に呼び出されるが、いわゆるアンコールはなし。うん、この後に何を歌っても白けるだけだ。

ナラは、偽りの愛のように・・・?

すっかり寒々しくなった工房での残業のBGMは、ほっこりした歌ものがいい。ベンジャミン・ブリテン伴奏でピアーズの歌うCDを聴く。気になるくだりがあった。


O Waly,Waly

—–
I leanend my back up against some oak,
Thinking that he was a trusty tree;
But first he bended,and then he broke;
And so did my false love to me.
——


そうか、イングランドではナラ(オーク)はこんなイメージの木なのか?私にとっては、十分に “trusty” な存在なんだけどね。歌の最後に、宝石のような愛も、古くなって朝の露のように消えたとあるから、頼もしそうに見えるナラ(オーク)ですら曲がって折れてしまうという比喩なんでしょう。まあ、でも今、ナラ使って仕事していないからいいか。

スケルトン・アンプ その2 正絹磨きのシャーシ

スケルトン・アンプでは、回路とかその定数は、既存の古いアンプから出力管と電源周りだけ変更して、そのまま流用するつもりでした。20年以上も前に作ったそのアンプを、懐かしさもあって測定しなおしたりして弄んでいるうちにハマってしまいました。

バラック組みのアンプを測定。左がオシロ、右が歪率計

バラック組みのアンプを測定。左がオシロ、右が歪率計

整流回路をGZ37で、バラックで組む

整流回路をGZ37で、バラックで組む

トランス類は、そのまま使うつもりで、新たに整流管を使った整流回路をバラックで組みます。随分以前に、回路実験というかデータをとるためにお菓子のブリキの箱を使いました。こんなものでもとっておくものです。球を変更するので出力管周りとNFB関係の定数だけ相応に変更するつもりでした。しかし、 オシロスコープの波形を眺めているうちに、我慢し切れなくなって 結局前段の回路から全面変更することにしました。このあたりのことは、また採ったデータとともに別に記事にしたいと思います。

スケルトンアンプの鉄板シャーシ

スケルトンアンプの鉄板シャーシ

古いボール盤を持ちだしてのシャーシの穴あけも終了。その鉄板の表面処理をどうするか、赤錆仕上げと悩んだのですが、今回は日本の古い鉄製金具で使われれている正絹磨きとしました。古いワラビ取手の再処理でやったことはあったのですが、これくらいの表面積のものに施すのは初めてです。色々問題はありそうですが、まあ今回は半分道楽ですからこんな所としておきます。マットな風情でなかなかに良い感じです。

シャーシの表面処理は日本古来の正絹磨きで

シャーシの表面処理は日本古来の正絹磨きで