atusi について

三重県四日市市で小さな木工所を営んでいます。

タケノコをもらった

向いの元陶芸家のお兄さんから掘ったばかりのタケノコをもらった。

向かいの人から頂いたタケノコ。頭が出かけているが十分食べられる。

例年親戚の山に掘りに行っていたのだが、この3年ほど不作でまったく取れない。今年はどこもとくにひどいようで、いつもの市場でもほとんど出回っていない。もっともいくら朝掘りとうたわれてもタケノコは買う気がしない。タケノコは生物なまもので、掘ってすぐに糠で湯がかないとアクがまわる。30分置くとダメだという人もいるくらいだ。まあ刺し身で食べるのでなければ、あまり神経質になることもないのだろうが、逆に掘ってすぐにアク抜きするのであれば、多少頭の出たものでも十分食べられる。別にグルメを気取るわけではないが、タケノコが放っておけば1日10センチ以上も伸びるようなシロモノなので、眠っている朝の間に掘って、すぐにアク抜きすべしという流儀も理解できる。こういうことが出来るのは田舎暮らしの利点だ。

まずは刺し身を三杯酢で。あとはシンプルに醤油と酒で炊いて鰹節をけずってまぶす。ワカメと合わす。筍御飯くらいは楽しめそう。

ルイス・セプルベダがコロナ肺炎で死んだ

ルイス・セプルベダが死んだ。スペインで新型コロナウイルス肺炎による合併症とのことだ。まだ70歳、若い。私と7歳しか違わないではないか。最近の画像を見ると随分太っていたし、ピノチェト独裁下でその手先やイスラエルのモサドやブラジルの秘密警察などのクズたちによって2年半にわたって虐待されてきた。そのあたりの陰惨なありさまは『パタゴニア・エキスプレス』の前半に書かれている。その後遺症もあるはずだ。

彼の書いたものはみな面白い。といっても私が読んだのは翻訳のある4冊・5作品だけだ。今は読み返す時間がない。ノートに写した抜粋を書き込む。

『ラブストーリーを読む老人』 旦敬介訳

アントニオ・ホセ・ボリーバルは字を読むことはできたが、書くことはできなかった。(中略)

読むのはゆっくりと、音節をつなぎあわせるようにしながら、まるで口のなかで味わうように小さな声に出して呟いていき、単語全体がつながるとひとつに続けて言ってみるのだった。それから文全体についても同じことをやっていき、そうしてページにちりばめられている感情や思想を読み取っていくという具合だった。

ある一節がとくに気に入ると、人間の言語というのもまた存外に美しいものでありうるのだと納得が出来るまで、何度でもくりかえして読んでみるのだった。

読書にはルーペを使った。これは所有物のなかで二番目に大事にしているものだった。一番目は、入れ歯だった。

p39-40

考えないようにしている自分の荒れた過去とはまったく異質な本だけをこれからは読みふけり、記憶の中に開かれている深淵は、果てしない愛の幸福と愛の苦悩で埋めていけばいいのだった。

p80

このアマゾンの川沿いに小屋を建てて一人ラブストーリーを読む老人は、もっとも好ましくも憧れる私のヒーローだ。彼は誇り高き現地の戦士にも認められた狩人で、アマゾンに金目当てにやってくる人間よりも、彼らを襲う山猫と心を通わせる。

『パタゴニア・エキスプレス』 安藤哲行訳

最後にイルカたちが姿を消すと、少年の喉からは鋭い金切り声が、漁師たちを警戒させ鶏を驚かすような甲高い音が出たが、それが一頭のイルカを呼び戻した。


そしてイルカはもどってきた。

パンチートは変わった。おしゃべりで陽気な子になり、自分の体が不自由なのを冗談の種にするくらいになった。急激に変わった。イルカとの遊びは六度の夏のあいだ繰り返された。パンチートは読み書きを、友だちのイルカを描くことを学んだ。ほかの子供たちと同じように網の修繕を手伝い、底荷の準備をし、海産物を干したが、水面を飛び跳ね、彼のためだけに素敵なショーを見せてくれる友だちのイルカといつもいっしょだった。

1990年の夏のある朝、イルカはいつもの約束の時間に姿を見せなかった。漁師たちは心配してイルカを探し、端から端まで海峡を調べた。見つからなかったが、海の殺し屋の一つ、ロシアの工船に出くわした。その船は海峡の二番目の狭い場所のごく近くを航行していた。

二ヶ月後、パンチート・バリーアは悲しみのあまり死んだ。泣きもせず愚痴もこぼさずに眠りについた。

p130-132

訳者の安藤哲行さん、本多勝一と八木啓代さん以外にアメリカ合州国という言葉を使う人がいたんだ。この本、全編どこまでフィクションかセプルベダの体験かわからないような物語が続く。その中でパンチートの話を抜粋した。ロシアの殺し屋ではなく、日本の殺し屋がオーストラリア近海に出没して、調査捕鯨と称して現地のウオッチャーが名前をつけて観察していたクジラを殺していた。その事を思いだしてしまった。

『カモメに飛ぶことを教えた猫』 河野万里子訳

でも本当は、きみは猫じゃない。(中略)きみのおかげでぼくたちは、自分とは違っている者を認め、尊重し、愛することを、知ったんだ。自分と似た者を認めたり愛したりすることは簡単だけど、違っている者の場合は、とてもむずかしい。でもきみといっしょに過ごすうちに、ぼくたちにはそれができるようになった。いいかい、きみは、カモメだ。

p122-123

これはもう教科書にもなっているらしい。大人も素直に読める、ああいい話だ。


『センチメンタルな殺し屋』に併載されている『ヤカレー』が、悲しくもとてもいい。アマゾンの二人の戦士が、自分たちの森の仲間を絶滅させて鞄にしたイタリアのデザインブランド一家を復讐のため殺しにくる。サスペンス仕立ての中に、滅ばされていく者や動物たちへの目がやさしくも痛々しい。 その森の仲間の遺体の中に隠れての決死行が痛快だ。

寺田夏子の墓 3

寺田寅彦之妻
阪井重季長女
寺田夏子の墓むかって左側面 「寺田寅彦之妻/阪井重季長女」とある
明治三十五年十一月十六日/行年二十際
寺田夏子の墓むかって右側面 「明治三十五年十一月十六日/行年二十歳」とある

寺田夏子は1902(明治35)年11月15日、療養(隔離)先の桂浜で亡くなり、19日にこの寺田家の墓所に葬られました。夏子は1883(明治16)年7月10日生まれとされていますから、わずか19歳と4ヶ月を過ぎたばかりとなります。墓誌に行年二十歳とあるからか、20歳で死んだという記述が時々みられますが、それはいわゆる数え年のことです。そうすると「どんぐり」に描かれた小石川公園への散策は寅彦の日記から1901(明治34)年2月3日のこととされていますから、夏子はまだ17歳だった。寅彦自身も23歳の学生です。それを頭においてこの作品を読むとまたひとしおいとおしさがつのります。

寅彦は後年というかもう晩年に、最初の妻・夏子をここに葬ったときの事を書いています。

自分が若くして妻をうしなったときも、ちっとも涙なんか出なかった。ただ非常に緊張したような気持ちであった。親戚の婦人たちが自由自在に泣けるのが不思議な気がした。遺骸を郊外山腹にある先祖代々の墓地に葬った後、なまなましい土饅頭の前に仮の祭壇をしつらえ神官が簡単なのりとをあげた。自分は二歳になる遺児をひざにのせたまま腰をかけてそののりとを聞いていたときに、今まで吹き荒れていた風が突然ないだように世の中が静寂になりそうして異常に美しくなったような気がした。山の木立ちも墓地から見おろされるふもとの田園もおりから夕暮れの空の光に照らされて、いつも見慣れた景色がかつて見たことのない異様な美しさに輝くような気がした。そうしてそのような空の下に無心の母なき子を抱いてうつ向いている自分の姿をはっきり客観した、その瞬間に思いもかけず熱い涙がわくように流れ出した。

「十七 なぜなくか」「自由画稿」 寺田寅彦全集第十巻(岩波書店1962年7月) p63-64

この文章は、「自由画稿」というおそらくは雑誌の連載の随筆のひとつの中にあります。「なぜ泣くか」と題され、人が涙を流す例として瀕死のわが子を治療する医者の話や、テニスンの詩、芥川龍之介の小説などがあげられています。そのなかに以下はある男の告白である。として引用符をつけて、上の文章があります。この「なぜなくか」という論考ははっきりいって冗長でなにが言いたいのかもわからないようなものです。あわせて18題ある「自由画稿」そのものが面白くない。9題目の「歯」というのが父親や自分の入れ歯のことを具体的に扱っていて興味をひくくらいです。このある男の告白の部分だけは唐突に現れ異質でかつ生々しい情景描写になっています。ある男とは寅彦自身であり、これは夏子をこの墓所で葬ったときの記憶とされています。

それならばなぜこんな回りくどい書き方をしたのでしょう。もう晩年となった寅彦にはやはりなくった2番めの妻との間の4人の子どももいますし、再再婚した3番目の妻の紳もいます。いまさら若い日に亡くした妻のことを書くことに気が引けたということもあるでしょう。それと、30年以上経っても一人称で語ることをためらわれるような痛みを引きずっていたしょうか。他にも療養中の夏子を種崎に見舞ったときにその地で行われた盆踊りを書いたものがあります(「田園雑感」(1921(大正10)年7月)。この部分はまた簡潔ながら背景の描写から踊りの様子もいきいきと描かれたとてもよい文章ですが、また別項で引用します。ただ、ここでも寅彦は見舞ったのは肺結核でそこに転地しているある人であり、病人はそれからまもなくなくなったと他人事のような書き方をしています。

寅彦には「どんぐり」の他には夏子を事を直接描いたまとまった作品はありません。ただ「雪ちゃん」という「どんぐり」の前に書かれた(全集の日付から)らしい短編があります。そこでは本来いない亡妹に似ているという雪ちゃんが登場します。

「アベノマスク(・ミニ?)」が届いた

マスク3つ。アベノマスクは1回選択してぼろぼろ。
上、「パンツマスク」、 下左 「アベノマスク(ミニ?)」 、下右 市販の不織布マスク

上と左下は厚労省から連れ合いの職場に3月下旬に送られてきたマスク。上はパンツマスクと呼ばれているもの。左はもしかして466億円かけて各戸2枚配られるとかいうアベノマスクか?見るからに使えそうにないので、事業所のストックがある間はそれを使っていたが、その在庫が尽きてしまい仕方なく使うはめになったそうだ。洗って使えということなので、それぞれ1回洗った状態が写真。

このアベノマスクの方は未使用の状態でも見せてもらった。見るからに小さく縫製も悪い。はたして使ってみると布の部分が小さくかつ紐がすぐに伸びてゆるくなり、鼻や口元からズレてとてもじゃないが使えないとのこと。パンツマスクの方はやはり小さいがまだ多少はマシという程度だそうだ。両方とも使えないので、他のスタッフは自家用のものを持ち込んで使っている。私の家では花粉対策用に去年買ったものの残りなどが4〜5枚ほどあるだけで、不要不急でない外出用に残しておきたい。仕方がないので自分で作るとガーゼや布を持ち出し、新聞の記事やらネットを見て型紙を作っていた。テレビでは、発熱症状のある外来患者の受診を受け付けている病院の看護師が自分達でクリアファイルとパンツのゴムを使ってフェースガードを作っていた。

アベノマスクの大将の着用している姿を見ると、あの大きな顔の顎までちゃんと隠れている良く見ると隠れていなかった。顎も鼻の両側も隙き隙き!将軍様専用の特注品なのか、現場の看護師や介護スタッフなどこれ(アベノマスク・ミニ?)で良いだろうということか、あるいは466億円のほうはこれよりは多少は大きさ含めて改良されているのか。来てのお楽しみ。さいわい職場では別途マスクを調達できたようで、どうやらこの出来損ないのアベノマスク・ミニもパンツマスクもしばらくは使わずにすむそうだ。その手配されたマスクもやはり使いものにならず、非番の日に自分でマスクを作っていた。

ドイツの首相のまねをしてアベノ大将やほかの知事たちが医療従事者に対するおべっかを急に使い始めている。しかし

同情するなら金をくれ!同情するならマスクくれ!

で、現状は1週間分の食料と弾薬だけもたせて、兵站はしない・現地占領地で調達!と90,000人の兵士を送り出したインパール作戦と同じ事をしている。アベノマスク大将も牟田口廉也中将と同じくらい無能で恥知らずであるのは確かだ。そして同じように腹も切らずにのうのうと生き残るだろう。別に恩賜のタバコ(アベノマスク!)もあとからの英霊の称号も二階級特進も誰もそんなものはいらないはずだ。

「コロナ肺炎」は大量の介護棄民を生み出す

新型コロナウイルス肺炎によりイタリアは医療崩壊に陥ってしまったと報道されています。恐ろしい事態ですが、振り返れば日本はもう随分前から介護崩壊といってよい事態になっています。介護施設への入所が3年待ちとか、老老介護、はての心中・殺人。それに毎日新聞によれば、ヤングケアラーと呼ばれる通学や仕事をしながら家族を介護している15~19歳の子どもが、2017年現在で37,100人いると明らかにしました(「家族を介護する10代」全国に3万7100人 負担重く、学校生活や進路にも影響)。この問題はテレビでも取り上げられて見ていて暗澹たる気持ちにさせられました。迂闊にしてそうした事態に気がついていませんでした。そんな国にしてしまったことが子どもたちに本当に申し訳ない。われわれ大人は仕方ない。自分たちの責任でもあるんだから。

今回の新型コロナウイルス肺炎の特徴として、

  • 高齢者が重篤に陥りやすい
  • 入院期間が長くなる(平均して3週間とも)
  • 家族であって面会は厳しく制限される(実質できない)

さらにいわゆるPCR検査を受ける条件として

  • 37.5度以上の発熱が4日(高齢者の場合2日)続く 他

があげられています(いまだに!)。その後検査結果で陽性となって始めて入院治療が行われる。この間最短で2日。

こうした状況を見て家族や親族の介護・看病・看取りを経験した人なら、治癒し退院できた場合でもその後のことを容易に想像できるでしょう。これから大量のコロナ肺炎介護棄民ともいえる高齢者が、市中に放り出されます

高齢者というのは、一見元気で健康に見えても、非常に脆く危ういバランスの上にその状態は保たれています。たとえば転倒骨折、病気入院でそのバランスは一度に崩れとたんに認知症を発生したり、そのまま寝たきりになります。私の母親は父親の死後28日目の法事で低血糖で倒れそのまま1ヶ月の入院となりました。入院したその日からひどいせん妄状態となり、入院中は兄弟で交代で付き添いましたが認知症がさらに進みました。

上にあげた新型コロナウイルス肺炎の、37.5度の発熱2日以上・3週間の入院・家族他の面会不可・まして人工呼吸器やECMO(体外式膜型人工肺)の装着などはそのうちのひとつだけでも高齢者を壊してしまします。

もうひとつ私自身の経験をつけ加えます。私の父親は肺結核を患いその治癒後も長年の喫煙生活からCOPD(慢性閉塞性肺疾患)となり入退院を繰り返した後寝たきり状態となりました。入院した病院は急性期病院で寝たきり状態であっても症状固定という事で90日での退院を迫られました。もうひとり認知症のかなり進んだ母親がいたため、どこか入所できる介護施設を探しました。その際、問題とされたのは肺結核罹病者だということでした。多くの介護施設では、申し合わせたように結核罹病者は治癒(排菌をしなくなった)しても2年間は入所をお断りしているとして断られました。結局、開所予定のサ高住(サービス付き高齢者住宅)を申し込むかとしているうちに、入院していた病院で誤嚥性肺炎で死にました。その間約半年のことでした。

新型コロナウイルス肺炎を患いさいわいにして無事治癒したとしても、その高齢者の多くは多かれ少なかれ認知症・寝たきりに近い状況で病院から出されるでしょう。今の感染爆発・予想される医療崩壊のなかでは当然猶予など与えられません。そして当たり前のように在宅に押し付けられます。たとえ介護施設に空きがあっても結核罹病者であった父親と同じように、あるいは今の状況からそれ以上に新型コロナウイルス肺炎罹病者に対しては厳しい差別が予想されます。

今、医療崩壊間近(すでに最中になりかけているか)の状況で先のことを言っても仕方ないかもしれません。しかし、私は自分自身の経験からたとえ治まったとしてもさらに対処を必要とする厳しい事態が待っていると直感して恐れています。そのことも覚悟しなければならないし、それに社会も向き合う必要があると思います。

「新型コロナウイルス肺炎」と呼ぼう

WHOは、2月11日今全世界に蔓延しているウイルス性肺炎をCOVID-19( CoronaVirus Desease 2019 コビット19)と名付けました。ウイルス自体はSARS-Cov-2(サーズコロナウイルス-2) となります。

このCOVID-19というWHOによる命名はよく考えられていると思います。チャイナウイルスとか武漢肺炎とか発生地とされている地域や国名を冠した呼称を使う品性下劣な政治家が内外にいました。疾病や事故・事件などに地名を絡める無神経がいかに多くの差別や偏見を生み出してきたことか。四日市に生まれ育った私は身をもって経験してきました。出身を話すと、いまだに喘息は大丈夫かとか体はどうかと聞かれます。今、そしてこれからこうした差別に最もさらされているのは福島県在住・出身者です。リベラルを気取る無神経で無分別な人たちはわざわざカタカナにしたフクシマという言葉を好んで使っています。その品性はドナルド・トランプや麻生太郎と同じですが、この点はまたあらためます。ひとつだけ、私は東京電力福島第一原子力発電所事故、略する場合は東電原発事故と呼んでいます。フクシマという言葉は事故の責任主体を曖昧にして何かしら放射能汚染を地域の風土病のように思わせる差別を助長しています。

もうひとつ、このCOVID-19( CoronaVirus Desease 2019 )という名称がよく考えられていると思うのは、”disease”(疾病)として、” infection”とか”infectious disease”(感染症)ということばを使っていないことです。WHOによるCOVID-19( CoronaVirus Desease 2019 )という名称については、国内の役所や報道機関などでも様々な訳で表現されています。

  • 新型コロナウイルス感染症 厚労省、日本医師会、東京都、大阪府、三重県ほか
  • 新型コロナウイルス関連肺炎 日本薬剤師会、JALほか
  • 新型コロナウイルスによる肺炎 朝日新聞
  • 新型コロナウイルス(新型肺炎) 毎日新聞
  • 新型コロナ(ウイルス) 読売新聞、中日新聞
  • 新型コロナウイルスに関連した肺炎 奈良県他自治体

この疾病の呼び名で肝要な点は、感染という語句を使うか否かにあります。WHOが、あえて”infection”(感染)という文字を外して命名した意図をどう汲み取るかということでしょう。地名や動物の名前(とかトリとか)がそこに住む人やたずさわる人への差別や偏見、不利益を生み出す。感染という言葉も同じで、感染してしまった人やその治療にたずさわる人にも同じ目が向けられます。今回の新型コロナウイルス肺炎に関してもすでに差別事件があちこちで起こっています。

それでもこの肺炎の拡大前や初期の段階では、その感染拡大を恐れさせ防ぐためにあえて感染症というWHOによる命名にない言葉を使うことにも意味があったかもしれません。しかし、もうその時期は過ぎました。それにサカリのついた若者はやはり町に出ていましたし、タダ酒の旨みを覚えたオヤジたちは夜の街に繰り出していた。残念ながら社会に一定数の割合で存在するこうした人ばかりにかまっていられない。これからは、社会をあげて治療に取り組む医療関係者を応援して少しでも働きやすい環境を作ることが肝要になります。逆にその医療従事者の頭を後ろから殴るようなまねをさせないためにも、誤解と差別を生み出しかねない感染とか感染症といった言葉の使用は避けるべきだと思います。

あなたの地域に「感染症指定医療機関・病床」がいくつあるかご存知ですか?

新型コロナウイルス(による)肺炎の話題は取り上げないと決めていました。素人が憶測やテレビや新聞の解説者の受け売りで情報を垂れ流しても、結局は,虚偽報道(フェイクニュース)かデマになりかねません。 しかし、誰でも分かる事実には目をむけねばなりません。いくつか気になる点について書きます。

緊急事態宣言は感染の爆発と医療崩壊の引き金にならないか?

今夜にでも緊急事態宣言が発せられると伝えられています。そうするとまず首都圏、それに関西地方の大学生たちの脱出→帰省が一斉にはじまるかもしれません。授業がない、あるいはオンライン授業なら東京や大阪に留まる必要はありませんし、都市封鎖の噂なり憶測が流れ食品や生活必需品の買い占めが始まれば早いうちに脱出してしまえとなるでしょう。恐ろしいことです。

都市から地方に帰省した彼ら彼女らのある割合の人たちは自粛などしないでしょう。そうでなくても家には生活をともにする家族と濃厚接触します。なかには高齢者・幼児もいるでしょう。都市とくに東京での感染者の数字などはやはり実体とかけ離れていると考えざるをえません。そうすると無自覚・無症状な感染者が全国に一斉に散らばることになります。彼ら彼女らは集団感染の発生源となっていくでしょう。たとえは悪いかもしれませんが、ペスト菌に感染したネズミの群れを一斉に野に放つようなものです。これまで感染集団を特定し感染者をたどり洗い出す地道な対策も吹き飛ばしてしまう。なぜいまのタイミングでの非常事態宣言なのか。

感染症指定医療機関・病床の数は驚くほど少ない

皆さんのお住いの地域にいくつの感染症指定の医療機関・病床があるかご存知でしょうか?下にリンクを置いておきます。私の暮らす三重県では第1種感染症指定医療機関は1、病床は2。第2種感染症指定医療機関は結核指定医療機関もふくめて10、病床はわずか22です。これに結核病床が72あります。結核病床を転用することが可能としても合わせて100足らずです。複数の感染集団が発生し、まじめに検査をすればたちまちパンクしてしまうでしょう。私の父親は晩年結核を患い結核指定の隔離病棟にしばらく入院しておりました。陰圧室で入り口は2重になっています。入室には今回話題になったN95という特殊なマスク着用が義務付けられます。感染症指定病院・病床というのも同様の設備が必要だとすると、そんなものがすぐに準備できるとは思えません。次善の策としてニューヨークのように野外の公園に臨時の専用病院を設けるしかないとも思われますが、それにしても準備が必要です。武漢で突貫工事での病院建設を嘲笑していた人はその不明を恥じるべきです。他の国のことを医療崩壊云々と他人事のように見ていた私たちは大きなしっぺ返しをくうでしょう。

寺田夏子の墓 2

寺田寅彦の墓は高知市北部のわかりにくいところにあります。観光案内にも出ておりません。中土佐町の寺田寅彦先祖の墓なるものがネット検索でヒットしますが、別のものです。某検索エンジンのマップなど示せば簡単でしょうが、私は嫌いなのでやりません。アナログに自分でウロウロしながら、時に道を間違って遠回りするのもたまには良いでしょう。回り道した分その土地の雰囲気など伝わるものがあるでしょう。目印の画像を貼っておきます。ドラッグフォン(麻薬電話←わたしはスマホをこう呼んでいます)の液晶から目を離して顎をあげて探してみてください。

寺田家墓の案内表示

グリーンファーム前の信号交差点北側にある案内表示

県道44号線(高知北環状線)という道路でグリーンファーム一ツ橋店を目指します。道路の南側に面してあります。その向いに動物病院があってその信号交差点に案内の標識があります。そこを北に向かって歩きます。

電柱にある2番めの案内

電柱にある案内表示。ここを左に折れる。

しばらくすると非常に分かりくく見落としてしまいがちですが、電柱に案内の標識がくくられています。そこを左におれて狭い路地を行くと、今度は王子神社の手前・民家の際に比較的見やすい標識があります。

ここからしばらく山道を登る

そこから山道を歩いて登ると高知市教育委員会の看板があります。近辺は道幅も狭く駐車スペースはありません。また山全体が墓地公園のようになっており、寺田家以外のお墓もあるようで、実際にお参りに来ている人もいましたので、その点もよく心得ておいてください。

寺田家の墓。手前が父・利正の墓

寺田家の墓。手前が父・利正の墓

寅彦と3人の妻の墓が並ぶ

手前、寅彦の墓と3人の妻の墓が並ぶ。隣奥に夏子の墓がある。

写真は、手前から寅彦の父・利正、母・亀、寅彦、夏子、寛子(2番めの妻)、しん子(3番目の妻)の墓。男(家長)の墓が女(妻)のそれより随分大きい事に時代で済まされない違和感もっというと嫌悪感を感じます。ただ妻たちの墓もちゃんと独立して設け名前も刻まれています。後で見ますが夏子の埋葬は神式で行われたようなので、土葬されたのかもしれません。

この墓地を1936(昭和11)年3月31日に訪れた時の事を科学史家の矢島祐利が書いています(「先生の墓」『寅彦研究』 昭和11年版・寺田寅彦全集月報第4号)。この時は寅彦の姉が案内をされて、道中いろいろな話を聞いたとあります。

田の中の道を四五町行くと山の麓へ出る。其の山裾を僅か登ったところに先生の墓がある。南向きの山裾であるから、此処から高知の町がよく見える。立派な生垣をめぐらした静な好ましい墓である。眞新しい墓標の前に持ってきた花を捧げて額づいた。

寅彦がなくなってまだ三ヶ月足らずのことで、もうすでにこの頃には、最初に埋葬された夏子の他にも両親、それにやはり早世した二番目の妻の寛子もここに埋葬されていたはずです。同じ矢島祐利が一年後にあらためて墓地を訪ねた時に山裾から墓所を見上げるように撮ったという写真がある(「土佐紀行」『寅彦研究』第8号・昭和12年5月)。古い素人(矢島自身による)写真でわかりにくいが、周りの灌木や草もきれいに狩られめぐらされた生垣がはっきりと見える。これならば確かに墓地からも高知の町がよく見えたことと思います。

それが現状(2018年)では、写真に示すような状態になってしまっています。 墓石は白いコケに覆われ、もう何ヶ月も前に供えられた花は朽ちてそのままになっています。生垣らしきものもすでになく、雑草と灌木がせり出して眺望も良いとは言えません。

寺田家墓地より高知市内の眺望

寺田家墓地より高知市内を眺める。草や灌木が茂りよく見渡せるとは言えない。

寅彦の墓はもう没後二十余年経ったころには世間からは忘れられたようです。1960年8月寅彦の弟子のひとり藤岡由夫が妻を伴ってお詣りされた記事があります(藤岡由夫「寺田先生の墓詣り」『寺田寅彦全集月報』1961年4月)。

裏に墓誌が刻まれているが、二十五年の風雪に荒れて読み難くなっている。(中略)案内をしてくれた人の話によると、都から観光客が時々おまいりに来るそうである。坂本竜馬の墓、寺田寅彦の墓などというのは、すでに、土佐の名所めぐりのコースにはいっているらしい。しかし人の来た足跡が何もないところをみると、たいして大勢の人も来ないのであろう。

私の妻は、先生のお墓詣りをしてから、ひどく憂鬱になった。寺田先生のような立派なかたの墓に、しげしげと墓詣りをしてくれるような親しい人々はまわりにだれもない。(注略)私も妻につられて、いいしれぬさびしさを覚え、先生の面影のなかで、特にさびしげな面を頭に思い浮かべながら、土佐の海岸の観光にむかった。

その後、私たちも海岸にむかった。私は寺田夏子がその晩年を療養という名の隔離生活を送った種崎と桂浜を見ておきたかった。道中、どこでも龍馬、龍馬でマラソン大会の名称にもなっている。他に観光資源を思いつかないのだろうか。桂浜の銅像はひっそり太平洋を眺めている小さいものと勝手に想像してが、なんだか北朝鮮の独裁者親子のそれを思い浮かべるような大きなもので威圧感すら感じて不気味でした。