駒井哲郎さんの事 3

打ち合わせも終わり辞するにあたって駒井哲郎さんの立派な画集(『日本現代版画 駒井哲郎』玲風書房)と著作(『白と黒の造形』講談社文芸文庫)を頂きました。著作は駒井さんが折々に著した短文をまとめたもので、その中にパウル・クレーについて書いたものが2編あります。いずれも秀逸な評論であり、こんなに簡潔にやさしい自分の言葉でしかも的確にクレーの芸術に迫ったものを他に知りません。それは駒井さんがご自身の版画の世界である高みに達したからこそ、クレーの内面にまで踏み込んでその芸術を俯瞰することが出来たのだと思います。

頂いた駒井哲郎さんの著作と画集

クレーやその絵について論じようとすると、つい何か気の利いた事でも書かねばと背伸びしたくなります。それは、駒井さんがここで述べているように彼の絵は、彼の内面で静かに永い時間をかけて育て上げられた結果、生まれ出たものであり、彼の絵について語るときはいつでも、彼の音楽や文学への嗜好、つまり彼の内面を支配しているた教養にまでさかのぼる必要があるとひろく認識されているからでしょう。

『白と黒の造形』の中の「女たちの館」(1952年3月)という短文は、表題のクレーの絵について論じたものです。以下引用します。

愛知県美術館所蔵のクレー・『女の舘』

パウル・クレーは幻想の世界を描いた画家と云われてますけど、その作品は常に自然となんらかの関連を持ち、彼の内面で静かに永い時間をかけて育て上げられた結果、生まれ出たものだと思います。ですから彼の絵について語るときはいつでも、彼の音楽や文学への嗜好、つまり彼の内面を支配しているた教養にまでさかのぼる必要があるのですが、僕には到底そこまで解きほぐすことは出来そうもありません。しかし僕等も出来るだけクレーに追随して、この絵を描いた頃の画家と同じような気持ちになって作品を眺めてみましょう。

この奇妙な、女たちの館は、ちょっと見たのでは特にこれと云って、なにかを示している形体は何処にもないのですが、この燐光発しているような見事な色彩が、色の中に潜んでいる可能な限りの音階を充全に奏でていると云えるでしょう。そう云えば絵全体に、横に走っている白い点線は楽譜の五線譜のようでもありますし、すき透るような微妙な藍色の地に浮かぶ様々の形体は、ちりばめられた色彩の音符と考えられないこともありません。しかし、良く見ると、それらの音符はまた窓やアーチや館の屋根のように見えてきます。そのほか階段や木立や窓に掛けられたレースの引幕までも・・・そしてなんだかとてつもなく大きく、古びた館が背景の中から忽然と浮かび上がってくるのを感じます。ちょうど舞台が暗転してくらやみの中に薄光が少しずつ差し込んでいる時のように。確かにクレーはこの絵の主題をなんらかの音楽的感動によって芽生えさせたのでしょう。1920年、ワイマールのバウハウスの教授に招かれて28年まで、その地で忠実にその職務を尽くした彼は、このワイマール居住の時代に、ほとんど毎晩と云って良い位オペラを聴きに通った時期がありました。そしてオペラや劇場で得た感動から非常に多くの作品を生み出したのです。

この絵も1921年のものですからその中の一つだと云うことが出来ます。この絵を描く時、ほとんど確実に彼があんなに愛したモーツァルトとその歌劇を思い浮かべていたに違いありません。もちろんクレーのことですから歌劇の情景をそのまま絵にするわけはなく、あらゆる置き変えや、象徴の手段など、これまで自分のものにして来たすべての近代絵画の上の教養を巧みに生かして、彼の以前には誰も描かなかった清浄でしかも悪魔的とも云える新しい認識を画面の上に繰り拡げています。

駒井哲郎 「女たちの舘」 『白と黒の造形』講談社学芸文庫より

この本にはこのクレーの絵は挿絵としても載せられていません。それで安易にネットで画像検索をしてみると『女の館』という題名で愛知県美術館に所蔵・展示されていることを知りました。横浜・東京から戻ってすぐの火曜日(翌月曜日は休館日)に出かけました。思ったよりも小さな絵です。クレーの絵ではよくあるのですが、画集で知ってから実物を見ると意外と小さいのです。クレーの絵は「大作」といった見せかけのハッタリとは無縁だし、まして日本の画壇の「巨匠」たちのような号あたり何万円といった不動産屋ばりのゲスなソロバン勘定など別の世界の事でしょう。そしてこの小さな絵の中に、駒井さんが見事に描写した燐光の音階、白い五線譜が旋律を奏で、背景の藍のグラデーションが通奏低音を構成しているようです。見ているとワクワクして本当に音楽が聞こえてきそうです。

その聞こえてくる音楽は、駒井さんが書いるようにほとんど確実にモーツァルトの歌劇でしょう。今ならその曲目も特定できます。歌劇『後宮からの逃走』です。ベルモンテやコンスタンツェ他の最後の四重唱でしょうか。実際にこの絵を目にすると暗い背景の中にいかにもトルコ風な館(pavilion)が林立しているのが分かります。また絵の中央部分に八に字上に開くように並べられている円形状のものは舘を繋ぐ灯りのようにも、女官たちの列のようにも見えます。

今はDVDやBSなどの放送や動画などで、モーツァルトの歌劇などいくらでも鑑賞することができます。この絵を見て『後宮からの逃走』を連想することも容易でしょう。しかし、駒井哲郎さんがこれを書いた1952年当時では、日本では音楽関係者か余程の好事家でなければ『後宮からの逃走』など見たことも聞いたこともなかったでしょう。まだ敗戦から7年、LPレコードがようやく出始めた頃です。駒井さんがフランスに留学するのも1954年のことです。その当時に、この絵を見てモーツァルトの音楽それも歌劇の情景とそこからの音楽的感動を読み取ることが出来たその眼力と知性に感嘆するばかりです。

この季節、この日、読みたくなる話

 

どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう?そして子どもは時にずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?

つまり、人形をこわしたからといって泣くか、すこし大きくなってから友だちをなくしたからといって泣くか、それはどっちでも同じことです。この人生では、なんで悲しむかということはけっして問題でなく、どんなに悲しむかということだけが問題です。子どもの涙はけっしておとなの涙より小さいものではなく、おとなの涙より重いことだって、めずらしくありません。


船長ははとばに立って、小さなヨーニーの手をひき、ときどき腕時計を見、待ちかねていました。だが、ヨーニーのおじいさんとおばあさんはきませんでした。いや、こられなかったのです。ふたりはもう何年もまえに死んでしまっていたのですから!おとうさんはただ子どもをふり捨てようと思って、ドイツへ送ったのであって、そのさきのことは考えようとはしなかったのです。

その当時ヨーニーは、じぶんがどんな目に合わされたかがまだよくわかりませんでしたが、大きくなってから、夜、まんじりともしないで泣きあかすことが、いくどもありました。四つの時に加えられたこの悲しみを、彼は一生のあいだ忘れることができないでしょう。彼は気の強い少年ではあるのですけれど。


何ごともなれてしまえば、それまでだよ。とヨーニーはいいました。じぶんの両親をえらぶことはできないしね。ときどきぼくは、両親がぼくを迎えにここに現れた場合のことを考えるが、そうすると、ぼくはひとりでこここにいられるほうがどんなに楽しいかってことに、はじめて気がつくんだよ。それはそうと、船長さんが1月3日にハンブルグに着いて、ぼくをたずね、二日間ベルリンにつれていってくれるって。すてきだろう。彼はあいてに向かってうなずきかけました。心配しないでくれたまえ。ばくはひどく幸福じゃないよ。幸福だといえば、うそになるだろう。しかし、ひどく不幸でもないよ。


エーリッヒ・ケストナー 高橋健二訳 『飛ぶ教室』より

ロシア革命から100年だったのだ

ジョン・リードが伝えたロシア革命

今年はロシア革命から100年にあたり、先日11月7日はレーニン率いるボルシェビキがケレンスキー臨時政府を倒した10月革命から100年だったんですね。もう巷間話題にもなりませんが、ソ連邦崩壊以降は、虐殺と抑圧の歴史のはじまりのようにも考えられて、革命そのものが語られなくなってしまった。私自身も、かつて高橋和巳が情勢論と喝破したような嘘くさい政治論議はしたくありません。ただ、ロシア革命というと、かつてジョン・リードが目撃し描いた下のような世界を思い起こす事にしています。

かくも一生懸命に理解し決定しようと努めている人々を、私は未だかつて見たことがなかった。かれらは身動き一つせず、一種の恐ろしいような熱心さをこめて、演説者をみつめ、思考の努力で眉はしわ寄り、額には汗をにじませて立っていた。子供のような無邪気な澄みきった瞳と、史詩の勇士のような顔をもつ、偉大な巨人たち。・・・・

中略

都市、地方、全戦線、全ロシアのあらゆる兵営でくりかえされつつある、かかる闘争を想像せよ。連隊を見守り、あちこちへ急行し、議論し、脅迫し、懇願する不眠のクルイレンコ(ボルシェビキの軍務人民委員←投稿者注)たちを想像せよ。そして同様なことが、すべての地方の労働組合、工場、村落、遠くはなれたロシア艦隊の軍艦の上、でおこなわれているさまを想像せよ。広大な国のいたるところで演説者を見つめている無数のロシア人たち、一生けんめいで理解しようとし又選ぼうとし、ふかく考えこみー最後には満場一致で決定する労働者、農民、兵士、水兵たちを考えてみよ。ロシア革命とはかかるものだったのだ。・・・・

ジョン・リード著 原光雄訳 『世界をゆるがした十日間』上 岩波文庫 p224-228

この著者のジョン・リードをウォーレン・ベイティが演じた『レッズ』という映画がありました。その中の1シーンです。リードがソビエトの集会に参加しています。周りの労働者にアメリカから来たと知られて発言を促されます。リードは、私には代議権がない。と断ります。労働者は怪訝な顔をしてそんなものは必要ないと言い、リードは驚きながら壇上に上げられます。それまでの西欧的でお上品な、それゆえどこか嘘くさい代議制とか民主主義(的手続き)とは違う働く者・戦う者の意志決定の様子を象徴的に示すシーンでした。


しばらく前に、『ブラッドランド ヒトラーとスターリン大虐殺の真実』上下:ティモシー・スナイダー著という本を読みました。このロシア10月革命からわずか20年後に、西からヒトラー東からスターリンの1,400万人にのぼる非戦闘員の大虐殺がはじまります。この本では、ロシア西部・ウクライナ・ベラルーシ、それにバルト諸国にポーランドをブラッドランド(流血地帯)として、そこでの殺戮の様子を生々しく記述しています。ナチのユダヤ人やロマ・ポーランド人などに対する虐殺は早くから糾弾されてきました。しかし、スターリンとソ連の虐殺は、その現場がソ連国内とソ連支配の東欧にあったために実体が明らかにされてきませんでした。加えて、ソ連がナチと対抗する連合国側であったこと、西側諸国にソ連を擁護する共産党系あるいは民主勢力が、根強くあったため意図的に隠蔽され続けてきたのだとされています。


それでも100年前のロシアには、リードが記録したような本当に働く者が、自らの運命を決定するために文字通り命をかけて戦うという真実の世界があった。それは今でも世界中の進歩と変革を信じる人たちに記憶されるべきだと思います。

私の読んだ岩波文庫版の『世界をゆるがした十日間』の奥付には、

1957年10月25日 第1刷発行
1977年6月20日 第28刷発行

とあります。つまりこの本の日本語訳はちょうどロシア革命から40年後にその第1刷が発行されています。私が買った版はその20年後つまりロシア革命から60年後の発行のものです。たぶん時間をおかずに読んだはずです。それから既に40年が経っています。そうした時間の感覚から言うと100年前は紙の上のかび臭い歴史にしてしまうべきものではない。

私の読んだ『世界をゆるがした十日間』の奥付。40年前!

また引用ですが、自分のための備忘録としてお許しください。

ぼくらが耳を傾けるさまざまな声のなかには、いまや沈黙した声のこだまがまじってはいないか?(中略)もしそうだとすれば、かつての諸世代とぼくらの世代とのあいだには、ひそかな約束があり、ぼくらはかれらの期待をになって、この地上に出てきたのだ。

過去は、ひそやかな向日性によって、いま歴史の空にのぼろうとしている太陽のほうへ、身を向けようとつとめている。あらゆる変化のうちでもっとも目だたないこの変化に、歴史的唯物論者は、対応できなければならない。

ヴァルター・ベンヤミン 「歴史の概念について」野村修編訳・『ボードレール』岩波文庫 p328-330

ロシア革命に関する2冊の本


プロレタリアートは、机上の抽象でなく実体であり、ロシアの唯一の救いだったのだ

それともう1冊、これも随分以前に読んだものですが、ロシア革命を考えるというか感じるために面白い本です。

長谷川毅著 『ロシア革命下 ペトログラードの市民生活』中公新書 1989年

この本は1917年3月から18年5月に至るペトログラードの市民生活を、低俗新聞の社会面に載った記事によって再現するとするものです。ちょうど2月革命から、10月革命を経て、とりあえずボルシェビキにより社会生活の安定がもたらされつつあった期間の記録になります。

この間のことについては、ケレンスキーの臨時政府とその戦争継続政策がとか、レーニンの封印列車と4月テーゼがとか、コルニーロフの反乱とか表立った政治の表面のことは勉強してきました。しかし、実際の当時のロシアの都市や農村、前線の兵隊の状態などなにも具体的なことは知らないし、イメージさえ持てなかった。それをこの本は、当時の低俗新聞の記事の寄せ集めで、生々しく語ってくれています。いわばジョン・リードの本が描いた世界の裏側の事になります。

そこでは、強盗、殺人、脱獄、脱走、ほかありとあらゆる暴力沙汰が横行し、治安機関は無力化しています。意味のなくなった戦争を止めることができないケレンスキーの臨時政府と、なにも具体的に決められないドォーマ(国会)、今のシリアやイラクのような状態だったと思えば良いのでしょうか。そうした中で唯一統制の取れた意志決定のもとに活動できる集団が、工場労働者の労働組合であり、それに兵士・水兵(農民)を加えたソビエトの組織する赤衛隊だった。つまり、プロレタリアートというのは、本の中の概念ではなくて、当時のロシアでは、本当に社会の付託に耐えうるただひとつの実体だったのだ。それが、その後の内戦、内ゲバと粛清、外からの干渉戦争により疲弊し、実体としても解体させられていく。その中で、いかなる選択が可能だったのかという事なんだと感じました。

松下竜一 『その仕事』全30巻 2 大道寺将司さんの句

大道寺将司さんの獄中からの2冊の句集。

松下竜一さんが、『狼煙を見よ』で取り上げた”狼”の大道寺将司さんの俳句です。松下さん、大道寺さんの母親、支援者の荒木さんが立て続けに亡くなった2004年のものです。

その時の来て母環る木下闇こしたやみ

母死せるあした色濃き(がく)の花

悼 松下竜一さん

竜天に夏草の根を引つ摑み

封状の文字の滲みや虎が雨

『棺一基 大道寺将司全句集』より

引用3句目の竜天は、季語の竜天に登ると亡くなった松下さんの名前・竜一をかけたものでしょう。大道寺さんが、亡くなった人が天に登るという発想をしているとは思えません。数少ない掛け替えのない支援者で理解者であった松下さんが亡くなっても、弔いに出向くことも出来ない。それで、拘置所の作業なのでしょうか、運動場の草をむしるしかない。その無聊さと無念さを、天と閉ざされた狭い地を這うように囚われている自分を対比させ詠んでいる。そんなふうに読めます。

相次ぐ訃報を獄中で聞いた2004年というのは、大道寺さんにとっては辛い年だったでしょう。 大道寺将司さんと、お母さんは普通の親子とは違う関係であった、でもかえって、それゆえに深い絆で結ばれていたようです。詳しくは、松下さんの本を読んでいただくとして、松下さんがいなければ、この爆弾無差別殺人犯にそうした情に満ちた生い立ちと家族関係があった事など、知る由もなかったのです。

1句目、2句目はこのやはり看取ることの出来なかった母親の死を悼んだ句です。痛切な思いが伝わってきます。父親が亡くなってから、お母さんは北海道から暑い関東に越して来たそうです。なれない都会で、電車からホームへの転倒による骨折、加齢からくる圧迫骨折を繰り返しながら面会を続けてくれた。その母親を、ようやく涼しい木下闇に還すことなった。また訃報を伝えられた朝に目にしたものに獄屋のガクアジサイがあったのでしょう。そうした目にしたり耳にしたりした自分以外の周りのものに託すように言葉にする事でしか自分の悲しみを表現できない。そうしたことは確かにあるし、あった。大道寺さんは、松下さんか辺見庸に、逆縁にならなかったのが、まだ救いだ。と言ったそうですが、死刑囚の言として、それもつらい。

中学生の頃に習った有名な斎藤茂吉の歌を思い出します。

のど赤き玄鳥つばくらめふたつ屋梁はりにゐて足乳たらちねの母は死にたまふなり

斎藤茂吉というのは、自身精神科医でありながら随分ややこしい人間だったようです。歌壇での論敵に対する執拗で陰湿な攻撃的文章を読むと気分が悪くなります。今のネットでのギスギスして不毛なやり取りのようです。斎藤茂太や北杜夫が茂吉に触れたものを読んでも、どうもすっきりしないものを感じます。今は削除されていますが、wikipediaの茂吉に関する項では、おもに夫人に対する家庭内暴力云々の記述もありました。山形の田舎から、東京の医師の家に15歳で養子に出された三男坊の僻みかと安直に考えたりもします。そういったものが、まったくなかったとも言えないでしょう。生母に対する恩讐入り混じった感情も整理されぬままの喪失の悲しみを言葉にするには、こうした形しかなかったのかなと思います。たまふという敬語使いも、この時代の親に対するものとしては当たり前かもしれませんが、なにかよそよそしさを感じます。一方で、生みの母ではなかった年子(松下さんによる仮名)さんの将司さんに対する深い情愛と、それに応える句という形で残されたものがここにあります。

方寸(ほうすん)に悔数多あり麦の秋

面会の礼状に書き添えた句だそうですが、これも良い句です。


引用の4句目、虎が雨は季語ですが、その文字の滲みは、虎ならぬを名乗った自分の涙によると云うのは、少し深読みのし過ぎでしょうか。

松下竜一 『その仕事』全30巻 1 買ってしまった

物を減らすと言いつつまた増やしてしまいました。買ったものは、松下竜一 『その仕事』 全30巻。古本で送料込みで30,000円弱でした。もちろんアマゾン及びその登録業者からではありません。

松下竜一・『その仕事』30巻。並べるスペースがないので、畳に直置きしている。

きっかけは、松下さんの『狼煙を見よ 東アジア反日武装戦線”狼”部隊』をまた読みたくなったからです。先日亡くなった大道寺将司さんとご両親、その妻・あや子さんと東アジア反日武装戦線について書かれたドキュメントです。ずっと以前に求めて読んだものは、誰かの手元に渡ったまま戻ってきませんでした。松下さんの著作は、地元・四日市の図書館には所蔵が少なく、この『狼煙を見よ』もありません。津市にある三重県立図書館には、『その仕事』全30巻を所蔵していて、四日市図書館を通じて借りていました。たびたび、それを繰り返すのも面倒なのと、これから10年あるいは20年、読書を何年続けられるか分かりませんが、松下さんの本なら手元に置いて、いつでも手に取る事が出来るようにしたいと思いました。

それと、私の連れ合いが、この著作集の中でも1冊をついやして取り上げているある冤罪事件(『記憶の闇 甲山事件<1974→1984>』)の裁判闘争の事務局を務めていました。松下さんは、公判の傍聴やその後の集会にも参加してくれて、知遇を得ています。書かれている文章の通りの、真面目で謙虚な人だったそうです。また、いつも伊藤ルイさんと連れ立って来てくれたとのこと。伊藤ルイさんは、関東大震災の際、甘粕正彦ら憲兵隊により虐殺された大杉栄と伊藤野枝さんの娘さんです。そのルイさんの半生も松下さんは本にされています(『ルイズ 父に貰いし名は 』)。もちろんこれも『その仕事』の中に含まれています。そんな関係もあって、松下さんの本ならばと合意がえられました。

松下さんは、その出世作・『豆腐屋の四季』こそベストセラーになったようですが、家業の豆腐屋をやめて文筆業を始めてからのほうが、かえって生活は苦労なされたようです。それは、『その仕事』30巻に収められている作品の主なテーマを見ても分かります。私などにとっては、いずれも興味深いものなのですが、おそらくは一般受けのしないものばかりでしょう。たとえば、東アジア反日武装戦線や、大杉栄・伊藤野枝の遺児を書いた前掲3書の他にも、

『久さん伝』
大杉栄の仇を取ろうと陸軍大臣を狙撃したアナーキスト・和田久太郎の半生
『とりでに拠る』
大分でのダム建設に反対して、最後まで蜂ノ巣城に篭って戦った宮原知華
『檜の山のうたびと』
ハンセン病歌人・伊藤保の半生
『怒りていう、逃亡には非ず』
ダッカ事件で出獄し日本赤軍コマンドになった一般刑事囚・泉水博のこと
風成かぜなしの女たち』
大分県臼杵で、セメント工場建設のための埋め立てに反対した女性たちの闘争

などなど、一般の人の感覚からみると、こんな本だれが買うのだろう。むしろよく出版してもらえたなあとすら思います。自分の書きたいもの、書かなくてはという思いにのみ從って書き続けたからでしょう。物書きとしては当たり前のようですが、同じように社会的な観点のノンフィクションを書いている澤地久枝さんとか、辺見庸の場合は違う。何が受けるか、何を書いたら売れるのかを一方でちゃんと計算というかリサーチした上でテーマを選んでいるように感じます。それは、彼らが雑誌編集者とか通信社記者という商業主義的媒体にいたということと関係していると思います。30歳までひたすら豆腐屋家業に追われてきた松下さんとは違います。

台湾の木工書・『木工職人 基礎手工具』 
その2 目を通してみた

この『木工職人 基礎手工具』は、運営する木工学校の教科書として編集されたようだ。最専業的木工学習環境と謳っており、サイトの写真だけ眺めても本格的な実技講習をしているように見える。 この本は、その手始めとして基礎手工具としての鑿、鉋、鋸などの使い方、研ぎ方などを解説している。これらの道具は、あらかた日本のものかそれに倣ったもののようだ。

概略は、販売サイトから見ることが出来る。→ 【限時特売】<木工職人基礎手工具>書

表紙カバーの折り返しに、研ぎ角度確認用の切り込みがある。

さっと目を通してみたが、非常によく出来ていると思った。まずは表紙カバーの折り返しに刻まれた角度定規に目が行く。洒落たアイデアだ。教科書としていつも講習や作業の際の手元に置いておき、鑿や鉋の研ぎ角をチェックできる。私自身も、木工をはじめた頃に、25度、30度、35度の切れ込みを入れた定規を2.3ミリの合板で作ってそれを目安にしていた。日本の30年ほども前からのバブリーとも言えた木工雑誌や数多の技法書の類で、こうしたものを見た覚えがない。厚紙の付録にでもすれば簡単に出来ただろうに。こうした雑誌や、書籍の編集者や出版元の目線がどこにあったのかが、いまさら伺いしれるような気がする。以下、他に気がついた点のいくつか書いてみる。

鑿の裏の研ぎをイラストで解説

図版と、写真の使い方がよく考えられている。この点は、私も使った日本の職業訓練校の教科書やいま市中に出回っている木工の技法書のおざなりさとは大違いだ。初心者が悩んだり躓くであろう事が、イラストで説明されている。たとえば、このページでは鑿の裏の研ぎ方について解説されている。この鑿の裏の研ぎというのは、意外に難しい(鉋もそうだが)。油断をするとすぐに瓢箪形になったりベタ裏になったりする。鑿の裏は定規であり、その平面維持が仕事の精度や品格に直結する。この点に関しては、以前にホームページに書いたことがある。

鉋の紐裏・鑿も紐裏

ちなみに鑿の裏研ぎが難しいというのは、とある銘品の鑿の展示をみても思った。これは、神戸の竹中大工道具館に所蔵展示されている善作の鑿。村松貞治郎さんの『道具曼荼羅』でも紹介されている。村松さんの本では、表の画像ばかりが載せられていたので、裏は初めて見た。これは東京の名人といわれた野村棟梁の所有していたもので、棟梁がいかにその鑿を大事に扱っていたかは、本の中のエピソードでも語られている。それにしても残念な状態になってしまっている。あるいは、棟梁の手からこちらに寄贈される前に誰かヤクザな人間に扱われてしまったか、ここでの手入れや研ぎがひどいのか。村松さんの本の写真と比べると、表や刃先もダレたひどい状態になっているから、棟梁の扱いのゆえとは思いたくない。

竹中大工道具館に展示の「善作」の鑿・裏

同じく「善作」の鑿・表

ここには、千代鶴是秀さんの打った組鑿も展示されている。これを大阪の大工が購入した際のエピソードが東京の土田さんよって伝えられている伝説化された銘品(だそうだ)。その大工の死後、アマチュアの好事家の手など経てここに来たらしい。やはり残念な姿だった。なんというか、これで仕事をする或いは仕事をしてきたという凛とした緊張感漂うようなたたずまいがない。よくテキ屋の店頭に並ぶ古道具の、適当にサンダーかペーパーをかけて錆だけは落としましたという風情だ。こちらも経緯は不明だが、道具というのは実際に仕事に使われなくなるとこうなってしまうのかな。なお、竹中大工道具館では他の入場者の迷惑にならない範囲での撮影は許されている。当然ながら、言われなくとも三脚やフラッシュはダメというくらいの常識は持ちたい。


手工具を使った実際の工作方法も書かれている。日本式の鉋を押して使っているのは、ご愛嬌としても、これは、まあアマチュアのやり方の解説になっている。ホゾや胴付を遊びを取って加工して、鑿で仕上げ・修正するように書かれている。こんなことは昔の親方に見られたら、それこそ玄能が飛んできそうな内容だが、それはまた別に書こうと思います。それと、鑿を使った穴の穿ち方も、書かれているのは大工式のやり方で、この辺りも混乱が見られて、最専業的木工学習環境を謳う教科書としては少しさびしい気がする。

『木工職人』のホゾ加工のページ

同じく鑿による穴あけのページ

そういう気になる点は、多々ありながら、とてもよく出来た教科書であることは間違いない。各工程の説明につけられたイラストは、分かりやすくとてもよく出来ている。一方で、日本の職業訓練校用の教科書は、相変わらず古いあまり上等とも分かりやすいとも思えない図版を何十年も使いまわしている状態だ。各地にあるあまたの職業能力開発協会という厚労省の役人の天下り組織は何をやっているのだろう。他方、市販の木工本は、どこかの道具屋や特定の鍛冶の宣伝用カタログのような代物ばかりだ。『○○大全』とか銘打った道具や木工の本が出されるたびにがっかりさせられる。

もうね。かつての半導体や家電がそうであったように、こうした木材の工芸的な技能や職能も台湾や他のアジアの国や地域に奪われていく。それで、インチキな手作りコピーと、薄さ何ミクロンの鉋屑といった非生産的で無益なお遊びだけが残っていく。それも近い、というかもうすでにそうなっているのかと考えさせられます。

京都に納品、三月書房に寄る

日曜日は、京都に納品でした。ここ何年か仕事をいただくリピーターのお客さんです。今回は高座椅子で、宅配便での発送も出来たのですが、毎回お邪魔すると美味しいお酒とか気の利いたお菓子などいただくので、それが楽しみでもあり直接届けました。

こうした椅子は、お寺の法事の際などによく見かけるようになりました。畳とかフローリングで、慣れた座の生活を続けたい。ただ膝の負担が年々気になってくるという人のために、こうした高座椅子の需要は増えるように思います。

幅は、立派な体格のお客さんに合わせて57センチ。頑丈に組んであります。座の高さ、全体の高さは、お客さんんの指示で19センチと35センチ。メイプル、クリ、牛革。

少しだけ世間話をして、道が込まない早いうちに帰らせてもらいました。週末は、いつも新名神の亀山ジャンクションあたりから大変な渋滞になるのです。それでも多少時間があるので、久しぶりに寺町二条の三月書房に寄りました。この書店については、前にも少し書きました。学生の頃から折を見て通っていました。2間間口の小さな町の本屋という風情ですが、その品揃えが独特というか、硬派な主張が感じられます。たとえば、アナーキズム関連の書籍と雑誌、演劇・映画・コミック関係、様々な詩集・歌集・句集、民俗学関係、ファッションではない建築の本、ある種の政治・社会問題の本、など私の知る40余年そのポリシーは変わっていないように思います。私も、京都にいた頃に、白水社の古い版のブレヒト戯曲集とか、ベケットの1冊版の戯曲全集、ちくま文庫の柳田邦男全集の内の何冊か、それと中公文庫の折口信夫全集の何冊か、そんなものを買っていました。それから東京水平社関係とかアナキズム関連の書籍とか、ここでしか見たことのないものも買っていたなあ。あの小さい書店に、柳田とか折口の全集を全巻揃えてあって、それを分売してくれていました。大手書店はもちろん、大学の生協の書店でも後年はそうした対応をしてくれなかったように思います。それで、比較的売れ筋のような本でも、気になった本は、ここで買うようにしていました。

こうした本屋で、様々な本に囲まれ、その背表紙を眺めながら、そして気になった幾冊かを手にして目を通す。図書館とはまた少し違った幸せな時間です。休日ということもあってか、狭い店内に他にも3人のお客さんがいました。麻のシャツをザックリとまとった初老の男性、白いブラウスにデニムのスカートの自然な白髪の40代くらいかと思われる女性、もうひとり普通にジーンズにポロシャツの若い女性は、ずっと詩集のコーナーで、おそらくは誰かの詩集を読みふけっています。

そこへ、何十年か前のゴルフウェアのような妙ないでたちの60代も後半とおぼしき男性が2人入ってきます。あ、あったとかいいながらコミックのコーナーへ。そこでやれ、つげ義春がどうの、ガロが、カウンターカルチャーが云々と立ち話をはじめます。特に大声というわけでもなかったのでしょうが、狭い店内の事、延々と続く軽薄な語りがどうしても耳に入って気が散ります。まあ、これ以上続けるとお決まりの団塊に対する悪口になってしまうのでやめておきます。

話がずれますが、最近こうした自然な白髪の相応の年齢の女性をよく見かけるようになりました。それと、これまで2回ほど、街でベリーショートというか坊主頭の女性を見ました。私はいわゆる居職で、外に出ることが少ないし都会の生活とも無縁なので、知らないだけで、あるいはこういう人たちは増えているのかな。中山千夏さんなどが、その先駆けなのでしょうか。今、中国政府により軟禁状態にあるという劉霞さんもそうですね。いずれも、颯爽としてそれでいてごく自然な自信と意志を醸し出すお姿で、カッコよく素敵だなと思いました。誰が儲かるのか美魔女だのアンチエージングといった市井のキャンペーンに惑わされず、黒髪という根深い価値概念に抗って、今の自身の姿をひたすら肯定することから、ファッションや生き方を考えているのだと思います。ただ、それは頭ではわかっても、実際に一歩踏み出すには大変な勇気が必要でしょう。あれもはやりなのか、オッサンたちがショボい顎鬚を伸ばすのとは違います(例の加計某など、ネズミ小僧にしか見えません)。店内で、静かに本を探して開くこの白髪の、私にしたらまだ若い女性と、オレだって若い頃はガロなんか読んでいたんだぜとか言いたいだけのオッサンたちを、こうして間近で対比すると嫌になります。彼らと私なんて、傍から見れば同じひとくくりのオッサンです。気をつけたいと思います。

今や、アマゾンで本を買うのは犯罪とは言い過ぎかもしれませんが、グローバリズムに手を貸し、こうした優良な小規模小売店潰しに加担することになるのは確かです。もう本も、なるだけ図書館で借りて買うまいと思っているのですが、納品の時に、ここで買うのならいいだろうと、これもまた自分を合理化する屁理屈のようにも思います。


三月書房で、買った本は写真の3冊。合わせて6,804円で、貧乏自営業者にはかなりの散財になりますが、その本についてはまた別に。

『クレーの天使』 谷川俊太郎
『残(のこん)の月 大道寺将司句集』
『サンチョ・パンサの帰郷』 石原吉郎

藤田嗣治の戦争画について 2


哈爾哈ハルハ河畔之戦闘》について

《哈爾哈河畔之戦闘》は、藤田嗣治が戦争画のエースとしてのめり込むように製作を始める端緒となったと言われています。製作の経過からも内容からも、そうだったと思われます。その間の経緯を少し見ておきます。

1938年5月に、陸軍の「中支那派遣軍報道部」(上海)というところが、8人の洋画家を招待して絵画の製作を依頼します。翌年7月、その「作品」は、第1回聖戦美術展に出品されのちに最初の作戦記録画とされたそうです。対抗するように同年9月、海軍軍事普及部が、6人の洋画家を中国南部・中部に派遣、一人2点の絵を委嘱します(「『作戦記録画』小史 1937〜1945」 河田明久  所収)。 この中に藤田嗣治が含まれています(その他、藤島武二、石井柏亭、石川寅治、田辺至、中村研二)。

南昌飛行場の焼打 『藤田嗣治画集 異郷』を撮影

南昌飛行場の焼打
『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

武漢進撃 『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

武漢進撃
『藤田嗣治画集 異郷』を撮影

この時、藤田の描いた作戦記録画2点、《南昌ナンチャン飛行場の焼打》と《武漢ウーハン進撃》は、翌々年1941年5月の第5回大日本海洋美術展に出展されます。この2点の絵は、この後に描かれることになる暗く禍々しさにあふれた玉砕画に比べると、なんとも気の抜けたような絵に思えます。そもそもどんな作戦を記録した絵なのかもよく分かりません。《南昌飛行場の焼打ち》は、まだエコール・ド・パリの乳白色に繊細な線描というフジタらしさを感じさせる絵かもしれません。中央から右側に大きく描かれた飛行機とその搭乗員などは非常に細密に繊細に描かれています。遠方に黒煙がたなびき、破壊された青天白日の国章のついた飛行機などもあります。しかし、「作戦」の緊張感は感じられません。もう1枚の《武漢進撃》となると、さらにこれのどこが、「作戦記録画」なのかわかりません。一応長江が舞台としてもただそこを小さな軍用鑑が進んでいるだけ。絵としても面白くもない拙劣な出来で、2枚提出というノルマによって、いやいやながら描いただけの絵のように見えます。

この《武漢進撃》の製作年を見ると1938〜1940年となっています(7)。中国への従軍の約半年後の39年4月、藤田はフランスへ行きます。ナチのパリ占領から逃げるように日本に戻るのが翌40年7月です。早描きで知られた藤田が、この軍の宿題たる作戦記録画を、2年間も放り出してパリへ行っていたということになるのでしょうか?この時期のパリ行についても、色々取りざたされた(されている)ようです。田中穣などは、洋行帰りに甘い日本画壇に対してもう一度”国際画家フジタ”のメッキをつけなおしてくる必要がある9 p234)と思い立ったためとしています。とにもかくにも、この時期までの藤田は、戦争画に対して積極的に取り組む意欲を持っていなかったのは確かでしょう。

ところが、40年7月にパリから戻った時から藤田は変わります。パリでは、迫り来るドイツ軍の占領を目前にした喧騒を目の当たりにしてきたわけですし、戻った日本も1年の間に随分変わっています。国家総動員法が施行され、この年から画家だけでなく、文学者や音楽家も次々に従軍して中国へ向かっています。社会の変化に敏感で抜け目のない藤田が、そうした動向に気付かないはずがない。帰国早々にトレードマークにしていたオカッパ頭を角刈りにします。それを、毎日新聞にスクープさせ大々的に報道させます(田中穣・)。エコール・ド・パリのフジタから、国家総動員体制下の臣民・藤田への転身をアピールしたのでしょう。

その40年9月から、前年のノモンハン事件の指揮をとった退役中将荻洲立兵からの依頼で、《哈爾哈河畔之戦闘》を描くことになります。軍からの委嘱ではなく退役軍人とはいえ個人の依頼で描いた絵は、後に陸軍に献納されて作戦記録画となる。製作にあたり荻洲の斡旋で戦闘の舞台となった中国東北部に取材し、戦車や戦闘機にも搭乗したといいます。

藤田の甥で、当時慶応に在学中で藤田のアトリエの近くのアパートにくらしていた葦原英了は、その間の様子について次のように書いています。

荻洲中将というのは、ノモンハン事件に参加して、敗戦の責を負って予備役に編入された人である。この人は戦死した部下の霊をねぎらうために、自分の貰った一時賜金を全部投げ出して、永久に記念として残る戦争画の製作をフジタへ依頼してきたのであった。

フジタがこの絵から戦争記録画に本腰を入れ出したというのは、依頼者の頑張りが何をおいてもフジタを圧倒し尽くしたということである。荻洲中将は何かといえば製作中のアトリエに現れ、兵隊の鉄砲の持ち方がいけないの、バンドの締め方が間違っているのと指摘した。そしてお仕舞いには実物の兵隊を陸軍から借りてきて、アトリエでポーズさせたりした。鉄兜に網をかぶせて、その網目に草やら葉のついた小枝をさしたりした兵隊が、広くもない庭を駆け廻ったり、伏せたり、鉄砲を打つ恰好をしたりしていた。ノモンハンの草原に生えている草花をありのまま描いてもらいたいというわけで、フジタを現地に派遣すべく尽力して、遂にそれを実現させたほどの頑張り方であった。

フジタは荻洲中将の余りにも強い熱意に、初めのうちはたじたじだったが、次第に戦争画そのものに興味を覚えてゆくようだった。戦闘帽のデッサンから、鉄兜、靴、背嚢、水筒、ゲートル、さては小銃、短剣、機関銃、迫撃砲、大砲など兵器に至るデッサンまで何百枚と出来た。戦車にも乗ったり、戦闘機にも乗ったりした。そして戦車や戦闘機の絵もたくさん描かれた。上空の雲の絵までが何十枚と出来たいた。戦争期記録画に必要なこういうデタイユが、腕を通してフジタの知識となった。そうして、フジタは次第次第に戦争画に熱意を覚えていった。

葦原英了 「小説 藤田嗣治」『芸術新潮』1950年5月号 『僕の二人のおじさん 藤田嗣治と小山内薫』2007年9月 新宿書房 11 所収

哈爾哈河畔之戦闘 上 全体 下 部分 『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

哈爾哈河畔之戦闘
上 全体 下 部分
『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

さて、この当初退役軍人という一個人の委嘱によって製作されたはずの絵は、いつの間にか陸軍の作戦記録画として、41年7月東京上野の第2回聖戦美術展に出品されます。そこでの評判を、田中穣はつぎのように書いています。

フジタの戦争画中もっとも率直に、日本の古い合戦絵巻の魅力を現代的に再現した作品となった。

「平治物語絵巻」や「猛攻襲来絵詞」など鎌倉時代の傑作とされる合戦絵巻の持つ日本の大和絵様式が、そのまま現代の油絵の郵送闊達な合戦絵巻に写しかえられているすばらしさに、人びとは目を奪われ、舌をまいた。

たしかに国家総動員体制といっても、まだこの時期は、出征兵士の家族以外のほとんどの人間にとっては、所詮他人事だったと思います。そうした他人ごととしての戦争というのは、こうしたあっけらかんとした勇壮な絵巻として眺めるには心地よいものだったのでしょう。今の日本で、多くの人たちにとって、あの三代目のアホぼんの進める海外派兵や憲法改正の威勢のよい中身のない形容詞まみれの言葉が、おそらく心地よく響くのとよく似ているように思います。