古いノート 補足

年をとると色々とだらしなくいい加減にすませてしまう事が増えてくるのですが、一方でつまらない事に妙に拘泥してしまいます。この投稿もそのひとつです。


前の投稿の冒頭にあげた野村修先生のベンヤミンの訳文はずいぶんわかりにくい。はっきり言えば悪文です。校正のため読み返した時にも、これをエディタに移す時のタイプミスで改行を一列間違って行をダブらせたり飛ばしたのかもしれないと思ったほどです。

私は、前にも書きましたが(マリー・Aの思い出・『ハンス・アイスラーとベルトルト・ブレヒト』)、ブレヒトもベンヤミンも、それにハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーもほとんどが野村先生の訳で読みました。ワイマール期のドイツの文化に関しても先生の著作で勉強しました。ブレヒトの詩など訳文というよりほとんど先生の創作と言って良いような素敵なものがたくさんあります。それでも生意気を言わせてもらうと先生の翻訳にはこうした悪文というか分かりにくいものがたまにあります。それに死を、死んだという独特の言い回しを訳文でも自身の表現としてもよく使っています。何か考えや思いがあっての事でしょうが、これもやはりなじめません。

このベンヤミンのChinawarenという著作の抜粋の別の人(細見和之)の訳を投稿の末尾に置いておきます。前の投稿でもその断片に触れています。新たに原文にない改行を加えるなどの工夫もされており、こちらのほうがはるかにわかりやすいし日本語として意味が通っています。参照下さい。なお、ベンヤミンの原文は、こちらにあります。

CHINAWAREN

それでも前の投稿で細見和之さんの訳ではなく、野村先生の訳を引用したのは、そこで書いたとおり文筆文化という訳が絶妙ですばらしいと思ったからです。それとこの文章の表題Chinawarenを、野村先生は中国工芸品店と訳しています。これも字面だけ見れば細見さんの陶磁器でいいというかそれがまっとうで、中国工芸品店というのはあまりに意訳過ぎるように思います。

この著作の末尾には中国(人)の筆写云々という文章が結語のように置かれています。Chinaという言葉が、海外では磁器(または陶器も含めた焼き物全体)を指すという事を知っている人なら陶磁器という表題とこの中国云々という結語を関連付けることも容易でしょう。でもどうなんでしょう。我々のように工芸とかインテリア関係の業界にいる人間以外にはよくわからないのではと思います。野村先生はそこまで考えて敢えて超意訳とも言える中国工芸品店という表題にしたのではないでしょうか。翻訳というのは本来そこまで考えて行うべきことかなと思います。


陶磁器

前略

街道の放つ力は、そこを歩いてゆくのか、その上を飛行機で飛ぶのかで異なる。同様に、文章の放つ力は、それを書き写すのか、たんに読むのかで異なる。空を飛ぶ者が目にするのは、道が風景のなかをうねうねと進んでゆく姿だけであって、彼にとってその道は、周囲の地形と同じ法則にしたがって伸び拡がっている。道を歩いてゆく者だけが、その道の発揮している支配力を、身をもって知る。空を飛ぶ者にとってはたんに伸び広がった平面にすぎない一帯から、道は、曲がるたびに、遠景や見晴らし台や間伐地や眺望やらを、命令で呼び出すのである。・・・ちょうど指揮官の号令によって兵士たちが前線から呼び戻されるように。

同様に、書き写された文章のみが、それに取り組んでいる者の魂に命令を発することができるのであって、たんなる読み手はその文章の内部の新たな相貌、その文章があの道のように、どんどん密になってゆく内部の原始林をとおりながら切り拓いてゆく新たな相貌を、知ることはない。なぜなら、たんに読む者が夢想という自由な中空を漂いつつ、自らの自我の運動にしたがうのに対して、書き写すものは自我の運動を命令にしたがうようにさせるからである。したがって、中国の筆写技術は文芸文化の比類なき保証であり、写本は中国の謎を解くひとつの鍵だったのである。

ヴァルター・ベンヤミン 『この道、一方通行』 細見和之訳 みすず書房 p17

古いノート


街道の持つ力は、その道を歩くか、あるいは飛行機でその上を飛ぶかで、異なってくる。それと同様に、あるテクストのもつ力も、それを読むのか、あるいは書き写すかで、違ってくる。飛ぶ者の目には、道は風景のなかを移動してゆくだけであって、それが繰り拡げられてくるしかたは、周辺の地形が繰り拡げられてくるしかたにひとしい。道を歩く者だけが、道の持つ支配力を経験する。つまり、飛ぶ者にとっては拡げられた平面図でしかないその当の地形から、道を歩く者は、道が絶景や遠景を、林の中の草地や四方に拡がる眺望を、曲折するたびごとに、あたかも指揮者の叫びが戦線の兵士を呼び出すように、呼び出すさまを経験するのである。同様に、あるテクストに取り組む人間の心を指揮するのは、書き写されたテクストのほうだけであって、これに反してたんに読む者は、テクストの内部のさまざまな新しい眺めを、けっして知ることがない。テクストとはしだいに濃密になってゆく内面の森林を通り抜ける街道なのだが、それがどのように切り拓かれていったのかは、たんに読む者には分かりようがない。なぜなら、読む者は夢想という自由な空域にあって、自分の自我の動きに従っているのだから。しかし、書き写す者のほうはその自我の動きを、テクストの動きに従わせている。したがって、中国人の筆写の作業こそは、文筆文化を比類なく保証するものだったのであり、写本は、中国という謎を解明するひとつの鍵である。

ヴァルター・ベンヤミン 「中国工芸品店」 「一方通行路(抄)」『暴力批判論』 野村修訳 岩波文庫より p166-167

引っ越しにともなって古いノートの類がたくさん出てくる。もうたいていは捨ててしまったつもりだったのだが、他の書類になど混ざっていたものを発掘した。下の画像は学生時代に戦前の社会運動(全国水平社と全農全会派・全協および共産党・コミンテルンとの関係)について調べていた時のノートだ。学校の課題ではなく当時身を投じていた運動の関係で興味と使命感にかられて相応に頑張って史資料を集めて読み込んでいた。どうやら大学の図書館(たぶん人文研)からドイツ語のコミンテルンの議事録まで借りて目次・目録まで作っているから、まあ若かったというかよくやるよと感心する。それに40年前はこんなに細かい字で丁寧にノートを作っていたのだ。なにも昔から大雑把でいいかげんな人間ではなかったのだと神妙な気持ちになる。

学生時代の古いノート 1
「全協」結成前後の年譜


学生時代の古いノート 2
コミンテルン文書の抜粋


学生時代の古いノート 3
コミンテルン第6回大会議事録をドイツ語版から

今は、もう若い時のような根気もエネルギーも持ち合わせていないが、何かを調べたいと思った時にはそれになりに史資料にあたる。それもたいていは紙のそれだ。理由は簡単で今でもまともな文献や史資料というのは紙の上にしかないからだ。その上で必要と思われる箇所をノートやレポート用紙に書き写すというやり方を40年近く墨守している。下の画像は最近のノートで、今は中断してしまっているこのブログで藤田嗣治について書いた時に作ったものだ(「藤田嗣治の戦争画について 1」「同 2」)。あと実朝の記事(「鎌倉右大臣・実朝の『雨やめたまえ』の歌」)の時も作ったノートがあるし、そのうち投稿しようとおもっている寺田夏子に関しても作っている。こうした作業も今ならOCRソフトを使って電子化してコピー&ペーストでやってしまえる。それでも手書きでの抜粋をメインにノートを作っているのは、こうしないと私は思考の道筋がつけられないのだ。

藤田に関する年譜をノートしている

田中穣の藤田に関する著作からの抜粋。

ベンヤミンがこれを書いた1920年代には、もちろんワープロもパソコンもないのだがタイプライターはすでに標準化され普及していたようだ。ここでベンヤミンが書き写す(原文ではabschreibenとなっている。)としているのは、あくまでもペンを使っての作業を指していると思う。中国の例をあげてることからも分かるし、アドルノによれば、

とうにタイプライターが支配的であった当時において、彼ができるだけ手書きをしていたことは特徴的である。彼は書くという肉体的行為によって、快楽を与えられたのであり、彼は好んで抜粋、清書を作ったが、一方機械的な補助手段に対しては、嫌悪感で一杯であった。

T・W・アドルノ 『ヴァルター・ベンヤミン』 大久保健治訳 河出書房新社 p87

とある。ベンヤミンはあくまでも肉体的行為である手書きによる書き写しにこそ意味があるとしているのだ。その意味で、野村修先生がここでは、literarischer Kulturを、文化と訳しているのは、さすがだと感心させられる。ちなみに他の人の訳ではふつうに文芸文化(細見和之訳 『この道、一方通行』みすず書房)となっている。

今、こうしてベンヤミン著・野村修訳の著書などの抜粋・引用をディスプレイを眺めながらキーボードを叩いて行っているのだが、これは書き写しと言えるのだろうか?違うと思う。こうした場合、元の紙のテキストとディスプレイのエディターの文字を交互に眺めながらひたすらタイプミスと変換間違いにのみ神経を集中させている。極論すればOCRソフトがやる仕事を代行しているにすぎないとも言える。したがってよくやる間違いなのだが、改行を一列間違って行をダブらせたり飛ばしたりということすらある。新しい眺めしだいに濃密になってゆく内面の森林どころか文脈すら追っていないのだ。

紙のテクストをエディタに移す。

工房を移転します

工房を移転中です。5月1日からは、下記で仕事をすることになります。自宅と兼用です。

〒510-0031 三重県四日市市浜一色町 6-25

ホームページ・ブログのURL、メイルアドレスなどは従前の通りで変更はありません。電話は当面は私の個人の携帯で対応いたします。

〒510-0031 三重県四日市市浜一色町 6-25
http://www.roktal.com/
roktal@d6.dion.ne.jp
電話は当面私の携帯電話でお願いします。090-2701-6403

クニャーゼフ J.S.バッハ無伴奏チェロ組曲全曲
久しぶりのコンサート

久しぶりにコンサートに行きました。2月4日、名古屋栄の宗次ホールで開かれたアレクサンドル・クニャ−ゼフ チェロリサイタル J.S.バッハ無伴奏チェロ組曲全曲です。

一度に全6曲を聴くことが出来るお得なコンサートでした

名古屋の栄から伏見にかけての界隈は、しらかわホール電機文化会館ザ・コンサートホール宗次ホールと3つの小さなクラシック用のホールがあります。私は、クラシックと分類されるものでは声楽とかソロや小編成の室内楽といわれるジャンルの音楽が好きで、オーディオも含めてもっぱらそうした音楽を楽しんでいます。だから日帰りで気楽に行ける範囲でこうしたホールがあるのはたいへんありがたい。

ホールの格というと嫌な言い方になりますが、演奏者のランク(これも嫌な言い方ですが知名度・ギャラとくらいに考えてください)やチケット代から言うと、しらかわ→電機文化会館→宗次の順になりますか。定員(席数)も同じ順になります。私が実際に行ったコンサートを備忘録的にあげてみます。エレーヌ・グリモー(しらかわ 2011年1月19日)、サンドリーヌ・ピオー(電機 2012年9月22日)、クリスティーネ・シェーファー(電機 2012年6月30日)、クリスティアン・ゲルハーヘル(電機 2014年1月12日)、マーク・パドモア&ポール・ルイス(電機 2014年12月8日)、アリーナ・イブラギモヴァ(電機 2014年12月23日)など最近はもっぱら電機文化会館が多かったです。

宗次ホールは、カレーハウスcoco壱番屋の創業者で、元社長・元会長の宗次徳二さんが、クラシック音楽の普及と若い音楽家の育成を目的に私財を投じて作られたものです。宗次さんの清廉で潔い生き方は、書籍でもネットでも見ることができます。お金の亡者というかお金に使われているかのようなさもしい経済人とは違います。それに会社を大きくして財をなしたといっても会社は公器としてすでに手放していますし、儲けたといっても不動産や金融といった虚業でもIT云々といった怪しげなものではなくて食べ物屋です。ゲイツとかジョブスとか孫某とかいった如何わしい連中とは違うし、まして人殺しに手を貸す軍需関連でもありません。

ホールを入ってすぐの案内にビッグイシューが置いてあるクラシック専用のホールなんて日本中に他にないでしょう。これも親と養母に捨てられ養父に虐待され孤児同然に生きてきたという生い立ちから、今もホームレス支援を行っている宗次さんならではのことでしょう。ホールでは、音楽関連の小物類や中古CDの販売も行っています。これもクラシック音楽の普及のためのだと納得します。つまりはこれまでこうした音楽と無関係であった人たち、特に若い人にも来て欲しいとの意図でしょう。プログラムの編成やチケットの値段設定などにもそれは感じられます。もう「しらかわホール」とか「ザ・コンサートホール」では、開演前に携帯電話の電源を切るように促されることはありません。ここに来るお客さんは、そんなことは分かっていらっしゃいますねという暗黙の了解が前提にあるのでしょう。実際に私の知る限り公演中に鳴ったりしたことはありません。宗次ホールでは、今も(今回も)開演前にアナウンスと同時に係員がホールをまわり、携帯電話の電源を切るように促していました。これは、ホールの対象がまだこうした場に慣れていない人も含んでいるという事で、むしろありがたいと思います。

さて当日配られた演目などの書かれた簡単なプログラムの裏表紙にこんなことがかかれてあります。

お互いに気持ちよく演奏を楽しむために以下のマナーをお願いいたします。

  • 携帯電話の電源OFF(マナーモードもNG)
  • 拍手やブラヴォーなどの掛け声は、1曲全てが完全に終わるまでお待ちください。余韻を大切に。

以下略

ふたつ目に書かれている事は、少し解説が必要かもしれません。20年ほど前までは、どこのコンサートに行ってもこうしたブラボーおじさんがいました。曲が終わるか終わらないうちに、多くは終わらないうち(演奏中)にブラボーの歓声を発し拍手をする輩です。他の聴衆にとっては迷惑千万で演奏者にたいしては失礼きわまりない行為ですが、あれはいったいなんなのかと今も思います。少し想像してみると

  • オレはここで曲が終わると知っているんだと自慢したい
  • 誰よりも先に拍手をする(ブラボーを叫ぶ)のがかっこいい
  • オレが聴衆の熱狂を先導しているのだ
  • 歌舞伎の木戸銭御免の声掛け屋になったつもり?

どのみち他人に迷惑をかけ顰蹙をかうことでしか卑小な自己顕示欲を満たす事ができないわけで、これは暴走族のガキと同じことだと思います。かつて日本のコンサートでこのブラボーおじさん全盛の頃、ヨーロッパのコンサートの録音をFM放送などで聴くと、演奏が終って暫くしてからパチパチとまばらに拍手が始まり、それが段々と大きくなってゆくのでした。聴衆一人ひとりが音楽を楽しみそれぞれ余韻を味わっているのが想像されて羨ましく思ったものです。最近は、特に私が行くようなどちらかと言うとマイナーで小規模のコンサートではブラボーおじさんはほとんど見なくなりました。その絶滅危惧な存在がここにはまだいました。最初の無伴奏第1番の途中のサラバンドが終る間際に拍手が聞こえました。残念ながらこのブラボーおじさんは終曲を間違えていたのですが、それに多少は懲りたか以降は大人しくしていたようで助かりました。 ところで、先日あるヨーロッパでのコンサートの実況録音を聞いたのですが、それが曲が終わらないうちの一斉拍手になっていて、驚くやら残念やら複雑な気持ちになりました。まさかバブルの乱痴気騒ぎの頃に、日本のブラボーおじさん達が本場にまで乗り込んで、逆にあれを広めたのかと勘ぐったりしてしまいます。


肝心の演奏のことは、またあらためて。と思っているうちに明日、11日にも宗次ホールに出かけます。今度は波多野睦美さんと高橋悠治による『冬の旅』です。こちらも楽しみにしていたものです。先日のコンサートでは、示し合わせてもいないのに連れ合いの教会関係の知人が二人来ておりました。明日、どなたか来場の予定をされている人があれば声をかけてくだされば嬉しいです。

稲嶺進さんの名護市長再選を強く望みます

キャンプシュワブ前の集会で挨拶される稲嶺進名護市長
2015年10月

3年前の秋、私が初めて辺野古に行ったおりキャンプシュワブ前の集会に訪れ挨拶された名護市長・稲嶺進さんです。市長はその後の昼のゲート前の座り込みとデモにも参加されていました。その時は随分若く見えて私よりも年下かと思っていましたが、今回の選挙報道で、今72歳だと知りました。

今日、名護市長選の投票が行われます。自分の政治姿勢をはっきりと時に体をはってでも示す、役所や議場の外に出て支持者とともに戦う、そんな政治家が今どれほどいるでしょう。その1点だけでも私は稲嶺進さんを指示し、その再選を強く望みます。

「棹さす」という表現について

以前の記事(「駒井哲郎さんの事 4 ギャラリー椅子の仕様」)でこんな表現をしていました。

それにこうした安易に接着剤に頼ったやり方が、確実に若い「木工家」のスキルを低下させています。われわれロートル世代くらいはこうした安直な傾向に棹さしていったほうが良いと思っています。

この棹さしてという表現は、間違っているのではないかと、工房 悠の杉山裕次郎さんからメールで指摘されました。ここの[棹さす]ですが、言いたいことの意味は、たぶんその逆ですね。という事で具体的に参考サイトまで付けて頂きました。ありがたいことです。

棹さす

さおを水底につきさして、船を進める。転じて、時流に乗る。また水流にさからう意に誤用することがある。

広辞苑第6版

手元の『広辞苑』第6版には以上のようにあります。まさに誤用しておりました。この広辞苑にも引用されている夏目漱石の『草枕』の有名な冒頭の一節情に棹させば流されるも、あえて情に抗って我慢しても結局は流されていってしまうだけだ云々という意味だと思い込んでいました。恥ずかしい限りです。普段、日本語の表現に関してもエラそうな事を言っている手前、こっそり指摘された部分だけ訂正して知らん顔もできません。それに私と同じような誤用をされている人も他にもいらっしゃるかもしれません。htmlのdelとかinsというタグはこうした時のためにあるとのだと自分を納得させています。

今回は、たとえ嫌われても間違ったことは放っておけないという杉山さんの性格から指摘を頂きました。別にこうした事に限らず誤りを指摘されるうちがハナだと思っています。どうぞ色々ご指摘ご指導ください。

年明け最初は内田百閒を読んだ

暦の上で年が明けたからといって、あらたまって事をいたすなど久しくしなくなった。それでも新年にまず何を読むかは少しは気にする。かと言ってたとえば昨年の正月に何を読んだと記憶しているわけではない。ただあらたまった気分の中、ネットを開いて汚い言葉やひどい日本語だけは目にしたくないと思っている。

今年は内田百けん(機種依存文字。門構えに月)の『ノラや』(内田百閒集成9・ちくま文庫)にした。昨年末のペットロス状態から百閒翁の猫ロスで取り乱した様を読んだら、少しは慰みになるかとも考えた。冒頭に置かれた「猫」という短編から圧倒される。化け猫という言葉に象徴される猫にまつわる妖気とか禍々しさを、その猫自体の描写を一切なさずに著している。逆にそのことによってこの猫の妖気とそこから「私」にまとわりつくような恐怖と悪寒が滲み出される。後で引用する三島由紀夫の言う究極の正確さをただニュアンスのみで暗示し鬼気の表現に卓越している世界がここにもある。

内田百閒の文章は、三島によれば少しも難しい観念的な言葉遣いなどしていないこう書けばこう受けるとわかっている表現をすべて捨てて、いささかの甘さも自己陶酔も許容せず、しかもこれしかないという、究極の正確さをただニュアンスのみで暗示している。そうした言葉の洗練の極のゆえか、百閒の文章は3次元的なまたそれに時間もふくめた4次元的なイメージを沸々と呼び覚ます。それは、鈴木清順や黒澤明といった映像美にとりわけ強いこだわりをもった映画監督が百閒の作品の映像化を試みていることからもわかる気がする。私もある事件(一生引きずるであろう忘れてはいけないもの)のあとそれにまつわる夢をなんども見た。それが、百閒のある作品(「冥途」)の中に再現されているように思われて恐ろしかった。今は、その夢と百閒の作品が渾然となってその境がわからなくなったと思うことがある。

同じ漱石の弟子に中勘助がいる。彼の『銀の匙』は学生時代に遠距離をしていたかつての同級生に送ってもらって読んだ。しかし彼の作品で面白いのはこれだけで(その1編が本当にすばらしいのだが)、あとは自分の兄が嫌いで一方その兄嫁にほとんど恋愛感情な好意を抱いているといった内容の私生活暴露な「小説」ばかりだった。百閒の作品はどれも素敵に面白い。すくなくとも私の持っているちくま文庫の「内田百閒集成」12巻の中にハズレというか駄作はない。これは本当に驚くべきことなのだ。

百閒の文章を手本にしていると言えばあまりにおこがましい。ただ彼の文章を何編か読めば、その虜になるでしょう。それほど魅力的でやはり日本語の文章表現の手本であると思う。そのことは同じく稀有の美文家であった三島由紀夫の百閒に対する絶賛をこめた分析がすばらしく的確で、これまた感心させられる。もっとも三島という人は先達はもちろん同時代の作家に対してもいつも好意的な批評を行っていて、ずいぶん気遣いの細やかな人だったのだと思う。


<内田百閒>解説

三島由紀夫

現代随一の文章家

もし現代、文章というものが生きているとしたら、ほんの数人の作家にそれを見るだけだが、随一の文章家ということになれば、内田百閒氏を挙げなければならない。たとえば「磯辺の松」一遍を読んでみても、洗練の極、ニュアンスの極、しかも少しも繊弱なところのない、墨痕あざやかな文章というもののお手本に触れることができよう。これについてはあとに述べるが、アーサー・シモンズは、文学でもっとも容易な技術は、読者に涙を流させるとことと、猥褻感を起こさせることであると言っている。この言葉と、佐藤春夫氏の文学の極意は怪談であるという説を照合すると、百閒の文学の品質がどういうものかわかってくる。すなわち、百閒文学は、人に涙を流させず、猥褻感を起こさせず、しかも人生の最奥の真実を暗示し、一方、鬼気の表現に卓越している。このことは、当代切ってのこの反骨の文学者が、文学の易しい道を悉く排して難事を求め、しかもそれに成功した、ということを意味している。百閒の文章の奥深く分け入って見れば、氏が少しも難しい観念的な言葉遣いなどをしていないのに、大へんな気むずかしさで言葉をえらび、こう書けばこう受けるとわかっている表現をすべて捨てて、いささかの甘さも自己陶酔も許容せず、しかもこれしかないという、究極の正確さをただニュアンスのみで暗示している。(中略)それは細部にすべてがかかっていて、しかも全体のカッキリした強さを失わない、当代稀な純粋作品である。

後略

『サラサーテの盤』内田百閒集成4 ちくま文庫所収

駒井哲郎さんの事 3

打ち合わせも終わり辞するにあたって駒井哲郎さんの立派な画集(『日本現代版画 駒井哲郎』玲風書房)と著作(『白と黒の造形』講談社文芸文庫)を頂きました。著作は駒井さんが折々に著した短文をまとめたもので、その中にパウル・クレーについて書いたものが2編あります。いずれも秀逸な評論であり、こんなに簡潔にやさしい自分の言葉でしかも的確にクレーの芸術に迫ったものを他に知りません。それは駒井さんがご自身の版画の世界である高みに達したからこそ、クレーの内面にまで踏み込んでその芸術を俯瞰することが出来たのだと思います。

頂いた駒井哲郎さんの著作と画集

クレーやその絵について論じようとすると、つい何か気の利いた事でも書かねばと背伸びしたくなります。それは、駒井さんがここで述べているように彼の絵は、彼の内面で静かに永い時間をかけて育て上げられた結果、生まれ出たものであり、彼の絵について語るときはいつでも、彼の音楽や文学への嗜好、つまり彼の内面を支配しているた教養にまでさかのぼる必要があるとひろく認識されているからでしょう。

『白と黒の造形』の中の「女たちの館」(1952年3月)という短文は、表題のクレーの絵について論じたものです。以下引用します。

愛知県美術館所蔵のクレー・『女の舘』

パウル・クレーは幻想の世界を描いた画家と云われてますけど、その作品は常に自然となんらかの関連を持ち、彼の内面で静かに永い時間をかけて育て上げられた結果、生まれ出たものだと思います。ですから彼の絵について語るときはいつでも、彼の音楽や文学への嗜好、つまり彼の内面を支配しているた教養にまでさかのぼる必要があるのですが、僕には到底そこまで解きほぐすことは出来そうもありません。しかし僕等も出来るだけクレーに追随して、この絵を描いた頃の画家と同じような気持ちになって作品を眺めてみましょう。

この奇妙な、女たちの館は、ちょっと見たのでは特にこれと云って、なにかを示している形体は何処にもないのですが、この燐光発しているような見事な色彩が、色の中に潜んでいる可能な限りの音階を充全に奏でていると云えるでしょう。そう云えば絵全体に、横に走っている白い点線は楽譜の五線譜のようでもありますし、すき透るような微妙な藍色の地に浮かぶ様々の形体は、ちりばめられた色彩の音符と考えられないこともありません。しかし、良く見ると、それらの音符はまた窓やアーチや館の屋根のように見えてきます。そのほか階段や木立や窓に掛けられたレースの引幕までも・・・そしてなんだかとてつもなく大きく、古びた館が背景の中から忽然と浮かび上がってくるのを感じます。ちょうど舞台が暗転してくらやみの中に薄光が少しずつ差し込んでいる時のように。確かにクレーはこの絵の主題をなんらかの音楽的感動によって芽生えさせたのでしょう。1920年、ワイマールのバウハウスの教授に招かれて28年まで、その地で忠実にその職務を尽くした彼は、このワイマール居住の時代に、ほとんど毎晩と云って良い位オペラを聴きに通った時期がありました。そしてオペラや劇場で得た感動から非常に多くの作品を生み出したのです。

この絵も1921年のものですからその中の一つだと云うことが出来ます。この絵を描く時、ほとんど確実に彼があんなに愛したモーツァルトとその歌劇を思い浮かべていたに違いありません。もちろんクレーのことですから歌劇の情景をそのまま絵にするわけはなく、あらゆる置き変えや、象徴の手段など、これまで自分のものにして来たすべての近代絵画の上の教養を巧みに生かして、彼の以前には誰も描かなかった清浄でしかも悪魔的とも云える新しい認識を画面の上に繰り拡げています。

駒井哲郎 「女たちの舘」 『白と黒の造形』講談社学芸文庫より

この本にはこのクレーの絵は挿絵としても載せられていません。それで安易にネットで画像検索をしてみると『女の館』という題名で愛知県美術館に所蔵・展示されていることを知りました。横浜・東京から戻ってすぐの火曜日(翌月曜日は休館日)に出かけました。思ったよりも小さな絵です。クレーの絵ではよくあるのですが、画集で知ってから実物を見ると意外と小さいのです。クレーの絵は「大作」といった見せかけのハッタリとは無縁だし、まして日本の画壇の「巨匠」たちのような号あたり何万円といった不動産屋ばりのゲスなソロバン勘定など別の世界の事でしょう。そしてこの小さな絵の中に、駒井さんが見事に描写した燐光の音階、白い五線譜が旋律を奏で、背景の藍のグラデーションが通奏低音を構成しているようです。見ているとワクワクして本当に音楽が聞こえてきそうです。

その聞こえてくる音楽は、駒井さんが書いるようにほとんど確実にモーツァルトの歌劇でしょう。今ならその曲目も特定できます。歌劇『後宮からの逃走』です。ベルモンテやコンスタンツェ他の最後の四重唱でしょうか。実際にこの絵を目にすると暗い背景の中にいかにもトルコ風な館(pavilion)が林立しているのが分かります。また絵の中央部分に八に字上に開くように並べられている円形状のものは舘を繋ぐ灯りのようにも、女官たちの列のようにも見えます。

今はDVDやBSなどの放送や動画などで、モーツァルトの歌劇などいくらでも鑑賞することができます。この絵を見て『後宮からの逃走』を連想することも容易でしょう。しかし、駒井哲郎さんがこれを書いた1952年当時では、日本では音楽関係者か余程の好事家でなければ『後宮からの逃走』など見たことも聞いたこともなかったでしょう。まだ敗戦から7年、LPレコードがようやく出始めた頃です。駒井さんがフランスに留学するのも1954年のことです。その当時に、この絵を見てモーツァルトの音楽それも歌劇の情景とそこからの音楽的感動を読み取ることが出来たその眼力と知性に感嘆するばかりです。